■ 下街道

龍雲山 宝珠寺【美濃瑞浪三十三霊場 第六番】瑞浪市釜戸町

竜雲山 宝珠寺

 御本尊:聖観世音菩薩
    :子安観世音菩薩
 宗 派:臨済宗妙心寺派
 所在地:瑞浪市釜戸町上荻島
 電話(0572)63-2423番

御詠歌
 きよらなる 宝珠のてらの
  かねの音は
   いく千代かけて 子らをまもらん

 当寺は、天和3年(1680)天猷寺第四世住職大雲和尚が、宝珠庵という名で再興したものである。
 太平洋戦争中宝珠寺と改称し今日に至っている。
 御本尊は聖観世音菩薩で、厄除弘法大師御分身は、大正4年(1915)朴雲和尚が、高野山金剛峯寺からお迎えした。
 江戸時代の中頃、二世の一関和尚が九州地方を巡錫中、唐津在のとある山房に泊った時、夢に白衣観音が現われ、『われ汝の地に縁あり。汝の来たるを待つこと久し、速やかに伴い帰れ 』とお告げがあったので、夜明けを待ち、里の人にそのことをお話しすると、里の人も同意してくれ、子安観音画像を捧持して釜戸へ帰ってきた。そして観音堂を建てて祀った。
 子育て子授けの仏として、遠近に信者が広まり、参詣する者が多くなった。4月18日に例大祭が行われている。

(美濃瑞浪三十三霊場より)



宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:聖観世音菩薩)
所在地/瑞浪市釜戸町4071
TEL0572-63-2423
http://houshuji.net/



宝珠寺

 天和3年(1680)、天猷寺大雲和尚が再建した寺。
 手習天神、六地蔵十六羅漢など多くの石仏があります。
 本堂には、足立岩次の事業の成功を祈念した額絵が奉納され、観音堂には天井絵が描かれています。

(釜戸ウォーキングマップより)


足立岩次

 江戸幕府の箱館奉行所(函館)と、地元の岩村藩からの要請に応えるべく、北海道へ渡り、箱館焼(はこだてやき)を創業した。

足立岩次のお話

 岩次は荻之島村に生まれ、嘉永のころ足立財助・足立良平が創業した荻之島窯をつぎ、ゴスを使った磁器を焼き、そのすばらしさは、東濃一円の磁器焼きの元になった。
 安政五年(一八五八)北海道函館奉行の発案で、岩村藩に焼きもの作りに協力するよう依頼された。
 そこで岩村藩から岩次に函館で焼きものをするよう依頼された。
 岩次はそこで、職人たち三十五名を連れて裏日本の街道を進み青森の大畑から函館に渡り、焼きものを始めた。
 その折、みんなの安全を祈って作られた絵馬が、宝珠寺に奉納されている。
 その岩次が天猷寺へ奉納した茶碗と香炉がある。
 後岩次は釜戸へ帰ってから、その頃日本で初めて引かれ電信線つくりのため、ガイシ焼きをはじめたということである。
 (岩次、岩治、岩二の異名あり)

(天猷寺より)


宝珠寺

 宝珠寺には多くの石仏、石碑があります。子安観音は一関和尚が唐津より捧持したものと伝えられています。
 本堂には小木曽文洲による「函館真景額絵」、観音堂には天井絵があります。

(かまど再発見mapより)


宝珠寺(宝珠庵)

 萩之島地内字桜の木にあって、竜雲山と号し天和三年(1688)5月、天猷寺大雲和尚の開山に係り、無外一有首座を開基とする。
 1693(元禄六年)、天猷寺の末寺となり、1887(明治20年)、法地となって今日に至っています。
 ー有は、町屋区の人、姓は藤田、名は太郎左衛門と称し、遠く九州、奥羽を歴遊し、後京都に上り、首座となり、宝珠庵を開いた。
 本尊は、聖観世音菩薩で、境内に子安観音を奉安し、古来遠近に霊験を知られて今日に至っています。
 中興開山より十二代です。

(釜戸町誌 通史編より)

法地とは、「結制安居を申請により修行することのできる寺院」


復礼館(小学校)

 明治5年学制が発布され、各村々毎に学校を設立するよう命ぜられたが、大部分の村々では先ずお寺を利用して小学校を開校することになった。
 釜戸でも天猷寺に誠之館という小学校を、荻之島の宝珠寺に復礼館という小学校が開かれた。

(天猷寺より)


 寛文三年(一六六三)の名号碑は市内五番目、正徳四年(一七一四)の十一面観音(三十三所主尊)・享保四年(一七一九)の四霊場順拝記念碑はそれぞれの種別では一番古いものであり、元禄九年(一六九六)の大型の地蔵(道祖神か)、天保九年の大型の名号碑、完全な三十三所観音から文化四年(一八〇七)の手習天神像、順拝記念碑群もあります。

 


名号碑

釜戸町上切宝珠寺(寛文3・1663・剣型碑・癸卯三月・念仏同行十三人)

釜戸町上切宝珠寺(天保9・1838・角柱塔 ・(上切村・(2.8mの柱塔))

聖号碑

釜戸町上切宝珠寺(正徳4・1714・像台石・七字聖号 ・三十三所中央像〕

西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑

釜戸町上切宝珠寺(享保4・1719・笠塔婆・西国四国秩父坂東(妙典奉納))

 上切宝珠寺のものは、現在では市内最初のものと思われますが、立派な笠塔婆の四霊場順拝のもので「大乗妙典奉納」とあるから、百八十八所に納経もしたという大変な記念塔と思われるものです。

釜戸町上切宝珠寺(文政5・1822・角柱塔・西国四国秩父坂東供養塔))

釜戸町上切宝珠寺(弘化3・1846・自然碑・奉納百八十八所供養)

釜戸町上切宝珠寺(明治41・1908・角塔・西国四国巡拝供養塔)

経典読誦塔

釜戸町上切宝珠寺(文化7・1810・・奉読誦観音経 念仏供養塔(河合氏))

 宝珠寺のものは 「奉読誦観音経二千巻・念仏千六百万遍供養塔 文化七年当所白木屋之分河合氏」 とある大変なものです。

廻国塔

釜戸町上切宝珠寺(享保4・1719・・奉納大乗妙典 四国西国秩父坂東)

 上切宝珠寺のものは、禅超和尚の感化でしょうか、その七年後の享保四年に萩之島村の三宅七左右門が、日本六十六州廻国ではなく、四霊場への大乗妙典を奉納したと思われる珍らしい廻国塔です。

万霊塔

釜戸町上切宝珠寺(寛政12・1800・角柱塔・三界万霊(願主は住職))

神前灯篭

釜戸町上切宝珠寺(享和3・1803・単・天照皇太神宮‘八幡菩薩・春日明神)

 


聖観音石像

釜戸町上切宝珠寺(明和元・1763・光・立・三十三所観音もあり)

十一面観音石像

釜戸町荻之島宝珠寺 (正徳4・1714・十一面観音・三十三所観音主尊 )

 釜戸町宝珠寺のものは宝瓶を持っもので、ここの三十三所観音の主尊として造立されている丸彫りの大型のものです。
 右手に水瓶、左手は与願印という珍らしい像形に彫られていて、台石に「南無観世音菩薩 正徳四午歳二月十八日 施主女人三十五人 荻之嶋村中」とあり村民の名が刻まれています。髪は高い宝髪に彫られていて聖観音の像形ですが、右手の持物によって十一面と考えられるもので、珍らしいものです。

如意輪観音石像

釜戸町荻之島宝珠寺(享保末年ころ・丸・坐・二臂・他に一体あり 施主当村足立伝左衛門)

馬頭観音石像

釜戸町荻之島宝珠寺 (元文 4・1739・立・三面六臂・旧下街道沿)

三十三所観音石像

釜戸町荻之島宝珠寺 (正徳4・1714・主尊とも三十四体・完全 )

 釜戸町宝珠寺のものは左手与願印・右手水瓶の丸彫りの主尊の台石に「南無観世音菩薩 正徳四歳 施主女人三十五人・村中」とあります。

地蔵菩薩石像

釜戸町上切宝珠寺(元禄9・1698・丸・坐・合掌・大型・道祖神か )

 宝珠寺のものは「奉造立等 元禄九年七月十二日 願主当村宝須 方信」とあって造立年も明白で、丸彫り坐像の像高八〇cm・台石ともでは一三五cmという大きさです。

釜戸町上切宝珠寺(延享4・1747・光・立・合掌らとで三体あり)

天神石像

釜戸町上切宝珠寺 (文化 4・1807・丸・立・願主手習子供中 )

 釜戸町宝珠寺のものは「手習天神」と呼ばれる丸彫の立像で、 「天神 文化四年卯三月二十五日 願主手習子供中」とあり、寺小屋の手習子供中によって建てられています。寺子屋手習いを立証する貴重な天神石像といえます。寺小屋の手習子供中によって建てられています。像容は慈相で、神像というより僧容と見られます。

道祖神碑

釜戸町上切宝珠寺(元禄 9・1696・丸・坐・奉造立願主当村宝須・方信)

 


宝珠寺お子安(こやす)様祭り

釜戸町上切(4月18日)

 国道19号線と士岐川の間を並行して走る県道沿いに釜戸小学校分校跡があります。そのすぐ上の高い所に、宝珠寺はあります。お寺の石段を上がり、ふり返ると田畑や土岐川、向いの山々の新緑が美しく目に飛び込んできます。国道の車の騒音を背に、お寺の前には静かな田園風景が広がっています。
 この宝珠寺は、天和(てんな)3年(1683) 、天猷寺第四世住職大雲和尚が、宝珠庵という名で再興され、太平洋戦争中に宝珠寺と改称されたそうです。京都の妙心寺を本山とする臨済宗で、美濃瑞浪三十三霊場の一つに数えられています。
 宝珠寺のご本尊は聖観世音菩薩です。本堂の隣に建つ観音堂には、子安観世音菩薩が祀られています。
 この子安観音様にはいわれがあります。江戸時代の中頃、二世の一関禅超(いっかんぜんちょう)和尚が全国行脚をされたおり、九州佐賀唐津(からつ)のとある山房で夢枕に白衣(びゃくい)観音が現れ、「あなたのお寺へ連れ帰ってください。」と告げられたそうです。その地の人に相談したところ許可が出たので、釜戸に子安観音像を持ち帰り、観音堂を建てて祀りました。以来、子授け安産の御利益ある観音様として、釜戸だけでなく近隣の町からも参拝する人々が多くあったそうです。
 昔は自宅で出産をするものでした。その時、観音像を持ち出すわけにはいかないので、観音像の掛け軸を貸し出していたそうです。
 毎年4月18日に、この子安観世音菩薩をお参りする、「お子安様祭り」が行われます。
 平成22年(2010)4月18日も門前の檀家の婦人たちがお供えの「とりのこ」やおもちを作り、檀家総代4地区4名と区長4名をはじめとした地区の方々が集まります。ちなみに4地区とは、上切、下切、平山、大久後細山です。午後1時から例大祭が始まりました。観音堂は狭いので本堂の子安観音像の掛け軸の前で、「14代和尚様の法話」「御詠歌」「読経」「安産祈願」「観音和讃」と進められていきます。本堂で焼香の後、観音堂に渡り、焼香、礼拝を順序よく並んで行います。若和尚様が安産祈願のお札を2名分読み上げられましたが、昔はもっとたくさん読み上げられたそうです。子安観音様に手を合わせる人の中には、赤ちゃんを抱いてお礼参りされる姿もありました。
 焼香の後、お供え物のお下がりを居合わせた人たちが本堂に車座になり、お茶を飲んで頂戴します。和尚様のお話では、「昔は、お寺の下に小学校の分校があったので子どもたちが喜んでお供え物のとりのこをもらいに来ていましたよ。」とのことでした。
 観音堂の中にいると、そんな子どもたちの姿が目に浮かぶようです。
 また、「檀家に子どもが生まれると本山からお祝いがいただけるのに、今年は該当者がいない。」とのことでした。こんな所にも少子化の現実が見えます。
 昔は今よりも「出産」は命がけでした。産後の肥立ちが悪かったり、子どもが無事に成長しない事が多かったり、子安観音様のお力にすがりたい気持ちが切実だったことでしょう。とは言え、子を思う親の気持ちはいつの時代も変わらないものです。子安観音様に手を合わせて無事を祈るこのお祭りにこれからも足を運びたい気持ちになりました。

 


宝珠寺のなりたち

 釜戸町町屋天猷寺所蔵の「釜戸宝珠庵 光春院」本・末寺一件証文の古文書によれば、
 四月九日之飛札令披見候、然ハ馬場三郎左衛門殿知行所濃州釜戸之内荻嶋村宝珠庵、公文垣内村光春院之儀ハ、同所中切村天猷寺支配ニ被申付置候処ニ、本山直末寺ニ罷成候故、被遂吟味庄屋井組頭等之書付被指越、具遂披見得其意候、則馬場三郎左衛門殿願之通ニ直末之帳面相除、天猷寺末寺ニ貳ヶ寺共ニ記録可申候

一、宝珠寺・光春寺ニヶ寺共、先年吟味之上、直末之証文下置候得共、此度地頭御吟味之段、被仰残候間任其意候
一、宝珠寺直末之証文并六通書付請取申し、且又光春寺之証文、此度宿坊より被指出候
右之趣、馬場三郎左衛門殿之伝達可有之候、不宣元禄七申戊歳四月十一日 聖沢院彗星花押
 霊雲院全轍花押
 東海庵法東花押
 龍水庵東常花押
松源寺
   (市史資料篇五四九抜出)
 右宝珠庵本末一件のほか、寛文・延宝年間土岐信光寺哲堂祖十の法系永蔵主住持し、延宝年中妙心寺直末となるという一件が記されており、この直末寺一件から一時無住となった。元禄五年(一六九二)馬場氏四代尚恒のとき、大雲の要請により、天猷寺の末寺として再創され、翌六年本山より認可された。

(瑞浪の石造物)


箱(函)館真景(しんけい)絵馬(市指定)

・所在地:釜戸町4071番地 宝珠寺
・昭和54年3月2日指定

 幕末の安政年間(1854~1860)に、蝦夷(えぞ)松前藩(北海道)か岩村藩に製掏技術者の派遣を求めて来ました。岩村藩はその求めに応じて土岐郡荻之島村(釜戸町荻之島)の足立岩次たちを函館へ派遣しました。足立岩次たちは函館で約5年間製陶に従事し、美濃焼の技術を函館焼として広め、今も各地に作品が残っています。このため岩次は「北海道の陶祖」として、その偉業を顕彰されています。
 「函館真景絵馬」は事業の成功を祈念し、絵馬額として宝珠寺へ奉納したもので、安政6年3月の函館の風景を、縦37cm横136cmの板に描いています。
 絵は小木曽文州(細久手村出身、尾州藩御用絵師)が描き、讃文は岩村藩儒学師範田辺恕亭(膽(のぞむ))の選になる漢詩で、蝦夷地函館の景観と岩次等の壮挙をたたえたものです。
 裏面には「安政六歳己未三月十九日奇進足立岩次」の寄進者名とともに「箱館表江召連候人夫覚」が記されており、窯職人は多治見・尾州・阿州・飯田・当所・江戸・京等の18名、大工は大島村・日吉・尾州等の7名、陶土原料係黒鍬は小里村・水上・日吉・桜戸・大馬・平山・池之内(尾州)、四国丸亀・駿河・野尻の他、椋実・竹折等の18名と代人たる大阪の儀助・岩村の勘兵衛等総勢45名の名が記されています。

(瑞浪市の文化財より)


泥地蔵と馬頭観音

 寛政13年(1673)に造立された市内では最も古い地蕨尊である。
 昔はここに宝珠寺があったと伝えられている。右の石仏は明治28年に造立された馬頭観音である。

龍雲山 宝珠寺

 この寺は、天和3年(1680)天猷寺第四世住職大雲和尚が、宝珠庵という名で再興した寺である。この寺には市指定文化財である「箱館真景絵馬」がある。箱館山の麗に並べる町並みを背累に黒船と千石船が停泊する箱館開港当時の状況を描いた絵馬である。これは箱館焼の事業の成功を祈念して、絵馬額として宝珠寺へ奉納されたものである。

緋桜の歌碑

 この歌碑は昭和6年(1931)宝珠寺住職朴雲和尚によって建てられた歌碑である。
蓮信法師
 散るたびに もえこがれても 惜しけきは
  かまど山なる 緋桜の花
朴雲和尚
 いにしえの 花かぐわしき 緋桜も
  今はむなしく 名のみ残れり

(瑞浪市下街道マップより)


釜戸荻之島焼

 釜戸村における開窯は荻之島村の足立良平・財助の両名によって行なわれた。場所は荻之島地内で、時は水上村の小木曽菊蔵・小里村の和田亀右衛門らと同時期の天保年間の初めごろとされている。
 この両名による操業期間は詳らかでないが、やがてそのあとは荻之島村庄屋の足立岩次によって受け継がれた。岩次は同地西山に築窯し、その製品は「荻之島焼」として名を馳せたが、素地・成型・絵付共にまことに優れ、今日でもその克明な技術は斯界において驚嘆されている。
 この荻之島焼は岩次らによって天保5明治年間に亘って焼かれ、明治に入るといち早く「碍子」まで焼成している。岩次はこのように技術者として優れていたのみでなく、開拓精神も旺盛で弘化・嘉永にかけては岩村藩の国産事業に加わり、安政五年(一八五八)には同藩の勧めと函館奉行の要請によって北海道に渡って「函館焼」の陶祖となっており、その場所は函館市谷地頭町地内で「北海道最初の瀬戸座跡」として現在も表示されている。
 この函館焼は経営不振で、文久初年には閉窯しているようであるが、岩次の函館進出については陶工頭として茄子川の為治、荻之島の常右衛門の二人が同行してこれを援け、経営・販売面は大阪の儀助、岩村の勘兵衛が同行して援けているようである。同町宝珠寺に保存されている奉納絵額「函館真景」によって考えると、先記五人ほかが先発して準備、安政六年には岩次らは一端帰国し、四三人からなる陶工・職人・大工を集めてこれらと共に渡り、翌七年(万延元年)から操業し年を経ずして閉窯したものと考えられる。
 岩村藩の後援によることは明白であるが、同藩事業ではなかったようである。なおこの 「函館真景」の奉納絵額は郷土出身の尾州藩御用絵師小木曽文洲(日吉出身)によって画かれている。 これによると足立岩次(道隆)が函館真景を請い、これによって文洲の筆による函館の景観と、北海道進出の郷土勢一行の壮挙を激励する岩村藩士の讃文が筆されている。
 さらにこの時出発の四五人の内訳は窯職人では荻之島の筆助・鈴吉、多治見の伊蔵・市九郎ほかの一八人、大工では大島の弥助・源右衛門ほかの七人、職人は小里・日吉・水上・桜堂・平山・大島ら市内のもののほか椋実・竹折などからの一八人とあり、同絵額によると岩次の代理として勘兵衛・儀助がこれを引率して出発している。
 「数峯斗ー入ニ海中間一 港口逶迤曲ニ北環一 陶窯銕銭千戸市 射レ鴎捕レ鱖(サケ)幾重湾 連レ帆風動ニ北洋舶一 一髪雲開南部山 雄鎮巍然占二形勝一 須張二国勢一制二夷蛮一」の讃文にもみられるように、
まさに郷土の先人たちによる壮挙であり、岩次はこのあと横浜が開港されると貿易もはじめ、先記「碍子」や「煉瓦」にも着目してこれを焼いている。その技術の優秀さ、着眼の鋭さ、驚くべき新取の気性に富みながら、地域産業として郷土に普及・継承されなかった点が惜しまれる。
 なお岩次は文化十三年荻之島に久左衛門の子として生まれ、明治二十二年十二月十六日に七十二歳で没する。

(瑞浪市史 歴史編より)


小木曽文洲

 文洲は寛政六年細久手に生まれ、馬篭宿蜂屋蘭洲について 「円山派」の画法を学び、はじめ月洲と号していたが、後年谷文晁に師事して文洲と称し、尾州藩小納戸役御用画師となり、慶応二年四月、七十二歳で没しており、遺作集には東濃中仙道真景が出されている。また、釜戸町宝珠寺に、函館焼陶祖で荻之島焼祖の足立岩次(道隆)らの奉納した「函館真景之図」があるが、これを画したのも文洲で、実に秀作である。

(瑞浪市史 歴史編より)


龍雲山宝珠寺
 本尊聖観世音菩薩 釜戸町荻之島

 宝珠庵本未一件ほかに寛文・延宝年間土岐信光寺(竜泉門派)哲堂祖十の法系莫(永)蔵主住持し、延宝年中妙心寺直末となるという一件が記されており、この直末寺一件から一時無住となる。元禄五年(一六九二)馬場氏四代尚恒のとき大雲の要請により天猷寺末寺として再創されることになり、竜泉門派に改めて属することで大雲を中興、無外一有を再創として、翌六年本山より認可された。再創以降の累代は次のとおりである。
 無外一有 一関禅超 漂受祖北 天瑞祖満 白翁祖連 円翁祖覚 円道宜頓 大道祖円 沢雲祖恩 実応恵参 朴雲祖端 円応宗哲 桂雲弘道

(瑞浪市史 歴史編より)


泥地蔵

 寛文十三年(1673)に造立された市内で2番目に古い地蔵さまです。昔はここに宝珠寺があったそうです。現在も毎年4月に近所の人達が和尚さんに来てもらってお祭りをしてみえます。右の石仏は明治二十八年に造立された馬頭観音です。
〔この地蔵には、こんな言い伝えがあります〕
 貧しい村娘が、大怪我をしたきこりの父親のために地蔵さまに毎日お参りし、そのかいあって父親は元どおりに歩けるようになりました。けれどお礼に供えるごちそうがなく、しかたなく田の土で団子を作って供えました。
 それからというもの、村人も真似して泥の団子を供えるようになりました。又、治してほしいところを知ってもらうために、お地蔵さまの足や手に泥をぬるようになったということです。

(生涯学習読本No6 ふるさと再発見より)


荻之島分校跡

 元々は宝珠寺にあった寺子屋です。明治になって復礼(ふくれい)学校と名のる学校になり、後に寺の下に校舎が建てられました。その名称は復礼学校→第二小学校→荻之島分教場→荻之島分校と変り、昭和43年に閉校となりました。今も建物だけ残っています。
※荻之島・・・現在の上切と下切地区

(生涯学習読本No6 ふるさと再発見より)


宝珠寺子安観音

 上切にある宝珠寺は天猷寺の隠居寺といって代々年とった和尚さんが住んでいました。その寺の本堂の横に子安観音のお堂があります。安産・子授りにご利益のある観音です。
 毎年4月18日がお祭りの日になっていて、昔と比べてお参りする人は少なくなっていますが、絶えることはないようです。

(生涯学習読本No6 ふるさと再発見より)

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