萩原小井戸 神光寺跡地 石造物群
稲津の各所に在る五輪塔で、種子[しゅじ](焚字)の刻まれているものは極めて少ない。ちょっと変わった五輪塔が、萩原小井戸の神光寺跡に在る。それには、四方種子ではなく、水輪の四方に金剛石塔、智栄謹書と刻まれている。
萩原小井戸 神光寺跡 無縫塔群
無縫塔 単制 萩原小井戸神光寺跡
H 69cm 刻銘なし
H 59cm 塔身のみ 刻銘前住当岩浄識首座
H 91cm 刻銘不応宗延首座
(稲津の石造物より)
神光寺明治廃寺 特芳派 小井戸
市内の寺々に対する梵鐘供出の命令は、笠松代官所岩田鍬三郎郡代から廻状で出され、本山株の興徳寺・宝林寺は除外ということで同領村内の正宗寺以下一六ヵ寺に下命されている。その翌月の五月には長見寺(上山田)・陽向寺(須之宮)・永泉寺(小里)・大龍院(同)・神光寺(萩原)・浄応寺(寺河戸)・高光庵(同)・浄円寺(水上)の八ヵ寺は 「当寺には焚鐘これなく」と報告し、正宗寺(小田)・通源寺(同)・慈雲寺(同)は「楚鐘差上げ申すべく承知」としている。
(瑞浪市史 歴史編より)
小井戸「神光寺」跡、現小井戸墓地
享保三年(一七一八)可児郡姫治村下切、三明寺の末寺として金毛和尚、江嶽和尚らによって創建一五八年間続いたが明治七年(一八七四)廃寺となる。
芭蕉の句のほか萩原の医師であり寺子屋の師匠もした平子寿策(和合)が妻のために詠んだ追善句碑がある。
(「萩原郷土史 水穴」より)











