櫻堂薬師 佐久羅宮神社(櫻宮神社) 年間行事予定
1月 1日 新春篝火(かがり火)
3月15日 釈迦涅槃会
4月第2日曜日 薬師例大祭
(12名の住職による大般若と約30~40桶の餅投げが行われます)
4月第3日曜日 佐久羅宮神社春祭り
5月 8日 お釈迦様花祭り(甘茶)
9月(旧暦7月22日) 二十二夜様
10月第2日曜日 佐久羅宮神社秋祭り
11月23日 新穀感謝祭(新嘗祭)
12月 7日 七薬師
◎毎月15日 観音講
お薬師様は、昔は「瑞櫻山 法妙寺 薬師堂」と言っていました。
このお薬師の歴史は今から約1300年近く前から始まります。当時法妙寺は、比叡山、高野山と並んで日本三山の一つと称されました。
医王如来御尊像
寺伝によると昔仲哀天(192年即位)の後、神功皇后が三韓(高麗、百済、新羅)を征され、そのとき亡された三韓の亡魂たちは日本国へ来ていろいろと国内を騒がせたと云われている。
桜堂の大池に大蛇が住みついて小里のあわら池や、日吉の弁天池にも出没して村民たちを苦しませたのも、この時であると言う。
この時、国中に名を知られていた日吉、月吉という二人の武将が夢のお告げを受けた。それは「自分は神功皇后の三韓征伐を守護した医王如来である。神箆の矢竹でこの大蛇を射て」というのである。二将が目覚めると一寸八分の霊像が岩窟の中で光を放っていた。これを医王如来というのである。
二将は勇んで弓を削り、神箆の双生竹で矢を作って遂にこの大蛇を退治し村民の難渋を救ったということである。
この二将は月吉は観音菩薩、日吉は大勢至菩薩の化身であり、医王如来は後年、三諦上人によって櫻堂薬師の胎内仏とされたと云われている。
日吉と月吉
〔方言〕
どえらあ昔の話やけんど、土岐町桜堂の辺は大きい池やったげなよ。すごぉ深かったもんで、底たは見えやへんかったけんど、池にゃ屏風山や周りの山の影が写っとったし、小舟が浮かんどった。村の人んたぁは、魚をとったりして、安気に暮らあていりゃあたそぉやよ。
ほやけんど、この池におそがあ竜がすみつうて、船に乗っとる人んたあを飲み込んだり大波を起こおて岸に建っとる家を壊ぁちゃったり、丘まで上がってきて村を荒ぁたりしたんや。近所の人んたぁだけやなしに、池の底たが日吉の弁天池や稲津のアワラの池まで続うとって、そっちでも大暴れをしたげなもんで、みんな困っていりゃあたんやと。
その時分、この辺に月吉・日吉ちゅう二人の若ぁ衆が住んどりゃあた。「なあ月吉、俺ゆんべけっちな夢見たぞ。枕元に如来様が立って、『お前は竜が暴れるのをどうすることも出来んのか、早く退治して里の人を救ってやれ』と言わっせるもんで、びっくらこぉて飛び起きて目をこすったんやけど、誰もおらへんかった。やっぱり夢やったけんど、どぉにも気になってしゃあなぁわ」
「へえー、おんしもか、俺もおんなじ夢見たわ。はよ竜を退治せんか、と言わっせた。確か明日の朝、池のほとりへ来ぉって言っとらっせたな」
「ほやほや、ふっしぎやなぁ。きっと何かのお告げやわ。これから行ってみるとするか」
「確か神功皇后(じんぐうこうごう)を守った悲母医王如来やとか言っとらっせたけんど、池におらっせるやろか」
「とにかく、はよ行ってみよまぁか」
二人がちゃっと池のそばまで行ってみると、そこの岩屋の中に一寸八分ほどで、キンキラキンの如来様を見つけやぁたそぉやわ。
ほんで二人は、そばに生えとった双生竹で矢を作って、強お強お弓につがえて、
「里人を苦しめる悪竜よ出て来い。医王如来様のご加護によって月吉・日吉が退治してくれる」
声を合わせて叫びゃあたそぉやよ。
ええ天気やった空に、急に黒ぉ雲が出てきたと思ったら、風が吹うてきて雷まで鳴りだぁたんや。ほおしたら鏡みたぁに静かやった池に、大波がわき起こって、ダダァと二人の元へ押し寄せたんやと。
ほんでも二人は引っ込んどらずに、弓をかまえて池を見とったら、池の真ん中に大きな竜巻が起こって、四斗樽ほどもある頭を振りくって、ランランと目を光らぁた竜が、火を吹きながら二人に向かってきたんや。
普通の人やったらもぉ気絶しちゃうところやろぉけど、二人はちょっともおそががらずに、竜がそばへ来るのを待っとって、口の中へ矢を射ったんやと。
「ガァオーッ」
うなってもだえる竜に、二の矢、三の矢を放ったら、とおとお竜は赤ぁ血を吹うて沈んじゃったんやと。
龍がやっつけられると、風も波も雷も止んで、大きい池は盛り上がって立派な里ができた。そこから方々へ通じる道が出来たもんで、この辺を土の岐れ、「土岐」というよぉになったっちゅうことや。
竜をやっつけた月吉・日吉は、神や仏のお守りをえろぉありがたがって、月吉は根本観音山王宮、日吉は八幡宮を建てたげなよ。
後になって、この話に感動した天皇の息子が、桜堂に薬師堂を建てやぁたっちゅうことや。
今でも、土岐や月吉の里、日吉の里はよぉ栄え、そこの人んたぁは幸せに暮らぁていりゃあすっちゅうことやよ。
※『如来縁起』『楼堂記』では月吉・日吉とも「八幡宮」とする。月吉には現在も若宮八幡神社があり、三つの鳥居の額東にはそれぞれ「八幡宮」「山王宮」「若宮」と彫られている。
元正天皇の皇女の病(奈良時代)
それから約500年後、元正天皇の皇女は悪病にかかり、その平癒は絶望とされ、帝の悲しみは深かった。
ある夜「姫独り山林に住み観音に救いを求めよ」という夢のお告げがあった。翌朝禁裏南殿に山鳥が来て姫を導き、夢のごとくに土岐の里の峯山に来たと言う。そして、「癒石」に姫の病を移したという。こうして数カ月後姫の病は全く平癒したという。
喜んだ元正天皇は桜堂峯山に勅使を遣わされこれを謝せられた。この時勅使の渡られた橋を『勅使橋』とよび今でも地名で残っている。
嵯峨天皇の勅願寺
それから約90年後、嵯峨天皇の御世、桜堂の地峯山麓に霊櫻が出現した。その櫻の木の樹木から枝葉にかけて五色に輝き、葉の頭文字には薬師如来の種子「パイ」が多く見られ、法華経の経文が葉といわず幹といわず書かれ、花は光を放っており国中の不思議とされた。
この時、比叡山の慈覚大師円仁の直弟子で、天皇の皇子ともいわれる高僧がこの霊櫻を訪れたという。この高僧こそが後の三諦上人である。上人はこの霊木にて薬師如来像を彫刻され、その一寸八分の医王如来を胎内仏として胸中に安置され、櫻堂薬師寺の建立を発心された。
こうした時、帝は病に伏せられ、名僧として三諦上人は京師に招かれ禁裏に参内して加持を奉られた。天皇は直ちに平癒され、喜ばれて、「三諦上人」の称号を与えた。
こうして観音堂を奥の院とし二王門を初め諸仏諸神を祀り11の本坊とそれに附属の被官坊12坊が整い、伽藍・諸坊は峯山に連なり百花咲き乱れる霊域が出現したという。
こうしてこの山は比叡・高野と並んで日本三山の一つとされ、本山に附属する坊数は実に三十余を数え寺領は389石であったという。
そして「高野山」や「比叡山」と並び日本の三山と言われる様になり、毎日の読経の声が近所の村々にまで聞こえたと伝えられています。
この全盛を極めたこの薬師も、その後約五百年の間(1300年頃)には戦乱が続き、お堂・お寺も次々と荒れて少なくなり、衰退してしまいました。
しかし、この頃鎌倉幕府から、お寺の領地を頂いて修理・修復をし、お寺の数が二十四と以前の勢いを取り戻し比叡山の末寺となって続いていました。
比叡山の焼き討ち
元亀二年(1571)に武田信玄、織田信長の戦乱に巻き込まれ、信長の家来の兼山城主の「森長可」にこの薬師を焼かれてしまいました。
後にこの様な歴史のある寺を焼いた事を悔やんだ森長可と、鶴ヶ城主の土岐三兵信友が仏像の作成、修理をし復興がされました。
西暦1600年の頃は、この辺りの殿様は岩村城の松平家乗・松平乗壽でしたが、とても信仰が厚く乗壽公は三度病気にかかられ、三度ともこの薬師にお参りして、すっかり良くなられたとの事です。そしてこの頃多くの絵馬が奉納されました。
ところが乗壽公が静岡県浜松の方へ移られてしまい、それに加え悪い病気が流行し、人の心も荒み、この薬師も見る影もなく衰退してしまいました。
同寺桜堂記(元禄十三年、密雲要芝記)・同寺由来記(延宝九年、実相院賢秀記)によると、ともにその時期を元亀二年十月十八日とし、天台の本拠比叡山延暦寺の九月の焼打ちに続き、信長の命によりこの法明寺(桜堂薬師)も兼山城主森長可と神箆城の家臣で城主土岐(遠山)三兵衛信友に離反した石原善四郎によって焼かれたとしている。
桜堂記の記述を要訳すると「神箆城の家臣石原善四郎は城主土岐信友に謀反を企ててこれを除こうとし、法明寺の老師に意中を打明けて計画成就の祈祷を依頼したところ、逆に謙意をすすめられこれを恨とした。このころ東濃に進出した武田勢を駆逐するため信長は森長可を将として土岐郡へ派兵したが、善四郎は長可に 「信友は武田に、法明寺は叡山に通じている」と讒言した。こうして城と法明寺は攻撃を受け、城兵・僧兵の防戦もおよばず焼失し、本尊・両脇侍仏と宝物がようやく運び出された。あとで事の真相を知った森長可は悔悟し、土岐信友と協力し寺院・堂宇を建立したが昔日の面影は帰すよしもなかった」というものである。
永秀・賢秀による復興
そして60年位が過ぎた頃、天台の「永秀」と言う偉いお坊さんが立ち寄られました。
昔の面影もない荒れ果てたお寺の姿を土地の長老から聞いて悲しみに耐え兼ね、この寺の復興を決意されます。
しかしこの永秀師も病気にかかられてしまい、枕元に弟子の「賢秀」を京都から呼んで、何とかこのお寺を復興する様に望みを伝えられました。
こうして永秀師の望みを聞いた賢秀も、復興する事を決意し岩村城主の丹羽式部少輔氏純にお願いし、寛文7年(1667)に復興を遂げます。
お開帳には比叡山の偉いお坊さんを招いての大法会、国内、近隣の参拝者の目を奪う程の盛大な法要であったそうです。
観音堂の移奉
隣接する「観音堂」は屏風山麓の大悲山に、峰山観音として祭られておりましたが堂宇荒廃を極めた為、移奉したものです。
本尊、聖観音は鎌倉以前の作と伝えられております。
本尊左側には開祖「三諦上人の座像」右側には中興開山の「賢秀座像」が祀られてており、体内には中興の由来が詳細に記録されていると伝えられています。
また、その横には岩村藩の松平和泉守乗寿公、丹羽家歴代の位牌が祭られております。
平成22年(2012)には開基1200年として1200年祭イベントや文化財の展示会などを開催しました。
地域の保存会やボランティアにより大切に守られている貴重な史跡です。
三諦上人
三諦上人供養塔
平安時代、元慶3年(879)。岐阜県最古の在銘石造物。弘仁3年(812)に法妙寺(櫻堂薬師)を開いた高僧三諦上人の供養塔。
昭和三一年六月二二日・県指定文化財
土岐町桜堂五七六〇番地
建立は、元慶(げんけい)三年(八七九年)
この供養塔は、弘仁3(812)年に瑞桜山法妙寺(桜堂薬師)を開いた高僧三諦上人覚祐(かくゆう)のために建てられたもので、桜堂薬師の南東約200mの山中に建っています。高さは約1.4m、3層から成る多層塔で相輪部も完全に残っています。下段の輪部(塔身)には「元慶(がんぎょう)三年十月五日奉立、三諦上人石塔」、他の3面には梵字(ぼんじ)が刻まれている岐阜県最古の在銘石造物です。
寺伝によると三諦上人は皇孫で、第3代天台宗座主慈覚大師(ざすじかくたいし)(円仁[えんにん])の高弟であると言われています。また、寛文から元禄年間に書かれた由来記や縁起などによると、創立当時の桜堂薬師(法妙寺)は比叡山・高野山の開山に前後して開かれ、これらと並んで日本三山の一つと称された由緒ある寺で坊数24、現在の桜堂薬師の東方にある峰山の谷々には、それらの諸坊が建ち並んでいたということです。それらの歴史を証明するものとしては、元慶(がんぎょう)3(879)年の刻銘のあるこの石造物の他に、仁寿(にんじゅ)元(851)年の刻銘のある金銅鋳仏(ちゅうぶつ)「仁寿仏(にんじゅぶつ)」、東京国立博物館に保管されている経筒(きょうづつ)・和鏡(わきょう)等の出土品、応永(おうえい)9(1402)年の刻銘のある石塔、そして付近の山中の旧僧坊跡から集められた五輪塔群などか残っています。
東濃地方では弘仁6年(815)開基という願興寺(がんこうじ)(可児郡御嵩町・可児薬師)があり、共に天台系であり、共に、似たような寺歴を持って今日に至っている。開山は比叡山慈覚(じかく)大師の直弟子、覚祐(かくゆう)で嵯峨天皇の時勅願寺となり、国分寺に準ずる「定額寺」となり、覚祐はこの後も布教・救済につとめて、天皇の帰依(きえ)も深く、仏教の「空諦(くうたい)・仮諦(かたい)・中諦(ちゅうたい)」の理を修めた高僧ということから三諦上人の号を授けられた。
法明寺の香華(こうげ)は以降も連綿として絶えず、鎌倉時代には幕府から寺領50貫(250石)二条左大臣から、小里・萩原を祭料、日吉・月吉を般若領とし、右大臣からは信州高井郡内で10貫(50石)の地を受けていた。
戦国時代の元亀二年(1571)十月十八日、信長の臣森長可及び、神箆城主土岐三兵信友の意志に、謀反(むほん)したその家臣石原善四郎によって焼かれたが、間もなく薬師を焼いたことを悔いた森長可と、薬師焼失を惜しんだ城主土岐信友とによって、五間・八間の堂宇が再建され、諸仏も彫造彩色された。関ヶ原戦後、岩村城主、大給(おぎゅう)本家松平氏は、神箆(こうの)村を領し、慶長18年(1613)十月に絵馬(市・県重文慶長絵馬)を奉納。松平氏に代わった丹羽氏も、薬師を信奉し、二代氏遠は弁財天を再建(慶安四年・一六五一)している。
万治3年(1660)天台の高僧・修善院少僧都永秀が上洛の途中、薬師の荒廃を惜しんで再興を発念(ほつねん)、帰山を止めて弟子僧らと共に復興に着手、老年のため後事を弟子賢秀に託して没。賢秀は遺志を継ぎ、永秀の直弟子良秀(中興二代権大僧都)ほか広海・宗心西連・宗済らと復興に努力、丹羽氏三代氏純はこの寛文7年(1667)落成の現堂宇建立については大檀那になり、11年には寛文絵馬(市・県重文)を奉納し、このあとの分派松平氏も代々喜捨を続けて、享保・文政絵馬(市・県重文)などを奉納し、郷民の信仰も得て、明治維新となり、神仏分離の際に法明寺は廃寺となり、以降、薬師は残って、桜堂薬師と呼ばれて今日に至っている。
瑞桜山の完成した秋。上人は馬で峰山観音へ参詣され、その途中忽然として消えて仕舞われ笠だけが松の梢に掛って残っており、寺ではこの日を上人の命日としたという。この元慶3年の刻銘のある開山塔と共に現存し笠掛山、駒返し山などの地名も残っている。
桜山の桜
土岐児童センター脇を左手に、急な坂道を10分程登ると三諦上人(さんたいしょうにん)(桜堂薬師を開山した高僧)の供養塔他があります。この供養塔に至る山道は通称「桜山」といわれ数百本以上の桜の木が植えられていて、桜の時期の散策には最適のコースです。
中興の祖 賢秀の墓
刻 銘
富山中興 阿者梨実相院(じっそういん)賢秀
宝永二己酉二月二二日 六十九才
塔身 一〇二cm 上巾六四cm
下巾三九cm 台高二〇cm
三諦上人供養塔の南側十数歩の所に西面して地蔵菩薩像が、奥まった所の歴代住職の墓を見守もるが如く静かに建立されている。
将に、 高僧永秀が再興に着手後、永秀の高弟賢秀が後事を託されて多くの法弟と共に再興されたご苦心の程が偲ばれてくる。
櫻堂薬師仏像(市指定)
・所在地:土岐町5728番地 桜堂薬師
・昭和31年1月12日指定
桜堂薬師は、瑞桜山法妙寺又は妻薬師とも呼ばれ弘仁(こうにん)3(812)年に三諦上人覚祐(さんたいしょうにんかくゆう)によって開かれた寺院です。当時嵯峨天皇が病床に伏せ、薬や祈祷では治らなかったが、三諦上人に祈祷を行わせると忽ちその効果が現れて天皇の病気が治り、天皇はその功績を賞して桜堂薬師を開いたと伝えられています。しかし、本寺は元々天台宗であったため、元亀2年(1571)10月に織田信長の命を受けた兼山城主森長可によって焼かれました。その後直ちに再建されますが、台風、地震により大破し、寛文7(1667)年に現在の建物が再建されたとされています。明治時代には廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮によって荒廃にさらなる拍車がかかり、現在まで維持されてきたのは薬師堂のみになってしまいました。建物内には多くの仏像がありますが、その中の代表的なものが文化財に指定されています。
木造前立薬師如来像
本尊を納める宮殿の前に置かれる前立像で、江戸時代の造立で、高さは約150cmあります。
寛文7年(1667)の本堂再建の棟札には、同時に宮殿が建立されたと記されており、このとき本尊が宮殿に納められることに伴い、本像が造立された可能性が考えられる。
なお、全身の漆箔は平成元年の修復による。
木造日光菩薩•月光菩薩像
室町時代、江戸時代
桜堂区所蔵
本尊薬師如来坐像の両脇侍像で、宮殿の外に置かれている。薬師如来坐像と同様の制作技法になり、室町時代後期から江戸時代初頭の造立とみられる。
『櫻堂記』では焼き討ちを免れたと記すが、本尊の薬師如来坐像とともに焼き討ち後に造立されたものであろう。
全身の漆箔は平成元年の修復によるものであるが、瑞浪市教育委員会所蔵の資料によれば、月光菩薩坐像の背面には、かつて延宝元年(1673)の墨書銘が確認できたとされる。
薬師如来は薬師瑠璃光(るりこう)如来とも言われ、民衆の病苦を救う仏様です。通常は右手を上げ、左手は膝の上で薬壷を持っています。単独で造られることもありますが、日光・月光菩薩を脇に配置し、薬師三尊像として造られることが多いようです。日本における薬師如来の信仰は7世紀後半頃からと言われ、病気平癒(へいゆ)を祈って造られることが多かったようです。
日光・月光菩薩像はいずれも坐像彩色像で台座に乗っています。像高は約70cm、台座を含めた高さは約150cmです。いずれの像も外観の特徴から室町時代後期に造られたものとも言われています。
薬師如来の力は日光と月光によって昼も夜も続いていること、つまり私たちの病気を治すためには昼夜をいとわない、という意味が込められた菩薩です。
木造薬師如来坐像
室町時代~江戸時代
桜堂区所蔵
櫻堂薬師の本尊で、現在は宮殿の中に納められている秘仏である。面相、頭体脚のバランス、衣文の特徴から室町時代後期から江戸時代初頭の造立とみられる。
坐像で高さ70cm、台座から光背までは150cmあります。前立薬師如来像と同じく、室町時代後期に造られたものと思われます。
『櫻堂記』には「焼き討ちの際、多聞坊が日光・月光の両像とともに運び出した」旨の記載がみられるが、実際は焼き討ちの後に造立されたものであろう。
室町時代の後期ないし江戸時代初頭の造立とみられておりますが、60年に一回公開される秘仏であり、通常は見ることは出来ません。
木造四天王像
室町時代ー江戸時代
桜堂区所蔵
四天王は仏を護る神将で、東方に持国(じこく)天王、西方に広目(こうもく)天王、南方に増長(ぞうちょう)天王、北方に多聞(たもん)天王が配置されます。国土安全や五穀豊穣にも重要な役割を持っており、通常甲冑(かっちゅう)を身に着け、足下に邪鬼(じゃき)を踏みつける姿に造られます。
伝記によれば元亀年間(1570~1573)に鶴ヶ城主士岐三兵衝信友が仏師5人に命じて造らせたとされ、像高はいずれも約240cmです。
本尊を納める宮殿の周囲に置かれ、室町時代後期から江戸時代初頭の造立である。
『如来縁起』には「当時の鶴ケ城主であった土岐三兵が、薬師如来のお告げによって家臣(石原喜四郎)の謀反を知り、これを撃退した。それに感謝した三兵が五人の仏師を招いて四天王と十二神将等を刻んだ」旨の記載がみられる。
一方、『櫻堂記』では「櫻堂薬師を焼いた後、森長可の長男が狂疾となった。これを薬師の崇りと畏れた長可は、仏堂を建てて焼け残った四天王像と十二神将を修理し、彩色を施した」旨の記載もみられる。
いずれの記述が正しいのかは容易に判断できないが、像の造立年代からは、焼き討ち後に再造されたという『如来縁起』の記載が事実を反映しているように思われる。
四天王に踏みつけられている邪鬼は、四天王と敵対しているのではなく、じつは須弥山中腹に住む配下の夜叉神で、四天王の命令を待ちながら、いきり立ち飛び出そうとする心を諌められている姿なのです。
木造十二神将像
十二神将は本地仏たちが、薬師如来の大願を果たすために変身した、力強い武将姿の神々です。ある者は怒りをあらわに、ある者は悲しみをこらえ、また慈悲の心を内に秘めるなどさまざまな表情をして、十二方向に向かって立っています。持ち物や姿勢は異なっていますが、静と動の表現が巧みに組み合わされ、華やかな美しさが共通して感じられます。
また、十二という数から、後に干支や方位、時刻と結びつき、それぞれの守護神とされるようになりました。
干支 十ニ神将名 本地仏
子 宮毘羅大将(くびらたいしょう) 弥勤菩薩
丑 伐折羅大将(ばさらたいしょう) 勢至菩薩
寅 迷企羅大将(めきらたいしょう) 阿弥陀如来
卯 安底羅大将(あんてらたいしょう) 観音菩薩
辰 頻禰羅大将(あにらたいしょう) 如意輪観音
巳 珊底羅大将(さんてらたいしょう) 虚空蔵菩薩
午 因達羅大将(いんだらたいしょう) 地蔵菩薩
未 波夷羅大将(はいらたいしょう) 文殊菩薩
申 摩虎羅大将(まこらたいしょう) 大威徳明王
酉 真達羅大将(しんだらたいしょう) 普賢菩薩
戊 招杜羅大将(しょうとらたいしょう) 大日如来
亥 毘羯羅大将(びからたいしょう) 釈迦如来
木造釈迦如来像及十六善神像附厨子
十六善神は、仏教の経典の一つである大般若経を守護する夜叉神(やしゃじん)の総称で、四天王と十二神将とを合わせた16尊から成る。釈迦十六善神、般若十六善神などとも呼ばれ、大般若経を転読する法会(大般若会(だいはんにゃえ))の際に本尊として祀られる。大般若会が日本各地の寺院で修されるようになった中世以降、各地で絵画または彫刻の十六善神が制作された。
一般的には、釈迦如来を中央に、その周囲に脇侍(きょうじ)と十六善神を配することが多いが、大般若経を伝えた玄装(げんじょう)三蔵、また玄装の守護神である深沙大将(しんしゃたいしょう)、釈迦の弟子を配するものなど、様々な組み合わせが見られる。
この木造釈迦如来像及十六善神像は、瑞浪市土岐町の櫻堂薬師に伝来するもので、木製の厨子内に釈迦如来、脇侍の普賢菩薩・文殊菩薩、十六善神、阿難(あなん)(又は法涌(ほうゆう)、常啼(じょうてい))、最下部右に玄柴、左に深沙大将の諸像を配する。
像はいずれも一木造り、彫眼で、釈迦如来は彩色等を施さないが、他の像は褐色漆を塗る。高さは十数cm程度と小型であるが、細部に至るまで丁寧に彫られており、江戸時代前期から中期にかけての制作と判断される。
厨子は、高さ62.0cm、幅42.5cm、奥行31.0cmで、外部の漆は剥がれているものの、内部の金箔や彩色の遺存状態は良好である。諸像の配置・収納状態から、当初から諸像を納めるために制作されたものとみられ、その様式や取り付けられた金具の文様などから、江戸時代中期の18世紀前半に京都において制作されたものと判断される。
以上から、この木造釈迦如来像及十六善神像は江戸時代の18世紀前半に京都において制作されて櫻堂薬師に奉納されたものと解され、それ以降大般若会で用いられたものとみられる。
このように本像は、瑞浪市内では類例の少ない彫刻の十六善神であることに加え、制作場所が推定できる貴重な作例である。また、江戸時代における仏事の変遷や寺院の什物の収得方法などを示す資料として価値が高い。
1 釈迦如来 2 普賢菩薩 3 文殊菩薩 4 (不明) 5 (不明) 6 章駄天 7 帝釈天か 8 十六善神① 9 十六善神② 10 十六善神③ 11 十六善神④ 12 十六善神⑤ 13 十六善神⑥ 14 十六善神⑦ 15 十六善神⑧ 16 十六善神⑨ 17 十六善神⑩ 18 十六善神⑪ 19 十六善神⑫ 20 十六善神⑬ 21 阿難・法涌・常蹄のいずれか 22 深沙大将 23 玄装
市文 天部形立像
室町時代
桜堂区所蔵
一木造りで表面に粗いノミ跡を残しており、いわゆる鉈(なた)彫りに通ずる像で、室町時代の造立である。
本堂の仏像の中では唯一、室町時代(焼き討ち以前)にさかのぼるもので、当時の堂宇の規模等を推測するうえでも重要な像である。
なお、台座は後補のものである。
今の櫻堂のあたりにとても大きい池があって、いつごろからか恐ろしい竜がすみつき、小舟にのっている人を飲み込んだり、村々を荒らしたりしていました。近くの里に月吉と日吉という若者がいました。二人とも不思議な夢をみました。「早く竜を退治して里の人を救ってやりなさい 明日の朝、二人そろって池のほとりへ来なさい」二人は池へ行くとそこで如来様を見つけました。急いで強い弓を作り、矢をととのえ池のほとりに立つと、晴れていた空に雷が鳴り始め竜が火をふきながら二人に向かってきました。竜が近づくのを待って、口の中へ矢をいこみました。「ガァーッ」ともだえる竜に矢を放ちつづけると、とうとう竜は真っ赤な血をふいて沈んでいきました。大きな池は盛り上がり里ができました。二人は桜堂に薬師堂を建てました。今でも月吉の里、日吉の里、土岐の里はとても栄えています。 |
可児薬師(願興寺)と兄弟仏
可児薬師で有名な御嵩願興寺の薬師如来本尊は、瑞浪市桜堂薬師の本尊と同木で造られた兄弟仏だと両薬師の寺伝がそれぞれ伝える秘仏で、桜堂薬師が弘仁3年(812)、可児薬師が同6年(815)開基とされる古い歴史の薬師です。
仁王門・仁王像
櫻堂薬師の仁王門は、阿形・吽形の金剛力士像を安置する入母屋造りの単層八脚門である。
建立の時期は明らかではないが、様式的には近世初期(16世紀末~17世紀初)の特徴をもつ、簡素で雄大な門である。
創建期の門及び屋根の形状、葺き材については不明であるが、寛文5年(1665)の絵図によって、単層八脚門切妻造り、檜皮葺き、あるいは杮葺き(こけらぶき)であったことがわかる。寛文5年(1665)以前の創建となると、櫻堂薬師の堂宇の中で最も古い建造物ということになる。
現在の門は、棟札・鬼瓦の刻銘から寛延3年(1750)に入母屋造り本瓦葺に改められたことが判明した。
平成19年の「平成の大修復」では、文化財的な価値を損なわないよう修復を行った。
建物の部材の破損、腐朽の見られるところのみ取替え、部材の継木、矧木によって補修し、屋根瓦は広く一般の寄進を仰ぎ、全面本瓦葺となった。
平成20年4月13日、盛大に落慶法要が営まれ、ここにめでたく由緒ある仁王門の修復が完成した。
今般、平成24年7月3日、瑞浪市有形文化財(建造物)に指定された。
仁王像は、地元の人からは「おにょう様」と呼ばれ、阿形像は、像高2.89mで口を開け、右手を下し、左手は肘を曲げて金剛杵(こんごうしょ)を振り上げ、わずかに右足を前に出している。吽形は、像高2.93mで口を閉じ、右手は腰の辺りで拳をつくり、わすかに左足を前に出している。
平成19年の解体補修の過程で、吽形像の胎内に銘札(めいさつ)が納められており、その内容から元禄10年(1697)に尾張熱田の仏師箕輪幸慶によって再造彩色されたことがわかり、両像とも腕と体幹の間に部材を入れ肩幅を広げていること、胸を膨らませるために腹部と腰の一部に部材を継ぎ足していることが判明した。
平成20年4月13日、解体大修復により、安座開眼法要が営まれ、元禄10年(1697)から150年さかのぼった室町時代後期(16世紀前半)の造立当時の姿に戻し、彩色は古色仕上げにした。
吽形像の体内銘板からは、元禄10年(1697)に「仏師尾州熱田住蓑輪氏幸慶」によって再造線色されたことが知られるが、造立はそれから百年ないし百五十年ほどさかのぼる室町時代後期とみられる。
口伝によれば、本像を刻んだ原木は屏風山の麓に位置する大草集落(土岐町大草地区)の最も深い洞(谷)から切り出したもので、その場所は今でも仁王ヶ洞と呼ばれているという。
仁王門・善光寺街道碑
県道から約30メートル東に桜堂薬師の仁王門があります。この門には左右に仁王像(金剛力士像)が置かれています。(もとは一体だったとも言われています。)昭和60年11月に発行された寺史「信光寺」によるとこの仁王像にはおもしろい民話が伝わっていますが、現在この話を知る人は少なくなりました。「昔、この辺りに力自慢の大男が住んでいました。大変な力持ちなので近在では誰もこの男にかなう者はいません。『あーあ退屈だなあ、だれか俺と勝負できるような奴はいないものか』と毎日腕をさすって相手をさがしておりました。ある日、退屈しのぎにお薬師さまの境内に立っている大杉に登ってあたりを見渡していましたが、そのうちふと下を見ると強そうな大男が木の上を見上げています。脅かしてやろうと腕を振り上げると下の男も腕を振り上げます。口を開ければ下の男も口を開けるし、あかんべえをすれば下の男もあかんべえをします。業を煮やした大男はついに木の上から下の男をめがけて飛び掛かりました。しかし下には誰もおらず、大男は鶴池めがけてざぶんと飛び込み泥だらけになってしまいました。池に写った自分の姿に飛び掛かったのです。そして後になってその大男は仁王様となって山門を守護するようになり、仁王様に泥をぶつけると丈夫な子供が育つといわれるようになりました。」今は泥をぶつける人はありませんが、地区の人達は 「おにょうさま」と親しみを込めて呼んでいます。
また、この仁王門のすぐ脇には「善光寺街道」「善光寺本尊様が通った道」と書かれた石碑があります。善光寺街道というのは、善光寺参りの人々が通った道という意味と善光寺様が通った道という意味とがあるようです。
この山門の十二本の柱は、812年桜堂薬師が建立された時の柱がそのまま残されております。ですからこの柱は、790年から810年頃に切られた木だと考えられます。この桜堂薬師は、1571年に織田信長の命によって焼かれておりますが、この山門だけは運良く焼かれずにすんだ訳です。見ておわかりの通り、柱は太くて立派なもので今日まで残っておりますが、柱以外は江戸時代初期に組みかえられているようです。
そして、二体の仁王様ですが、「ア・ウン」の構えをもっております。こちらが「阿形像」と言って、どんなことでも人の良いことを全部お話しするという仁王様です。こちらは「咋形像」と言って、悪いことは一切喋らないという仁王様です。
善光寺如来三尊碑
土岐町桜堂薬師二王門(文政13・1830・善光寺如来名号塔・角柱 )
土岐町桜堂薬師のものは、角柱塔で「善光寺如来・南無阿弥陀仏 文政十三年若連中」とあり、供養塔とも若連中による善光寺参詣の記念碑とも考えられるものです。
十一面観音石像
土岐町桜堂薬師二王門(明治11・1878・十一面観音・錫杖を持つ十一面)
桜堂薬師二王門のものは、十一面観音に錫杖を持たせた異形のもので、面白い十一面の代表例として紹介しました。
涅槃図
江戸時代 享保17年(1732)桜堂区所蔵
釈迦の入滅(臨終)の姿を描いたもので、櫻堂薬師では毎年3月15日に開催される涅槃会で用いられている。
背面には
東濃土岐郡神箆村
奉寄附浬架像 一幅
瑞櫻山法明寺什物
覚大師末流現住
宝池院法印圓全
との墨書銘がみられ、加えて寄進者の氏名等が併記される。
またその末尾に記される
享保十七壬子歳十一月吉辰
絵師京都
岡本治郎右衛門
との墨書銘から、制作年や作者等が知られる。
賓頭盧尊者
羅漢の筆頭の弟子を賓頭盧尊者といい、かつて飢餓に苦しむ末法の人々のために、食事を供給したという故事があることから、この一尊のみを独立させて寺院内の食堂にまつることがある。また、自分の悪いところをさすると病気が治ると信じられ、俗にお賓頭慮様として親しまれている。
賓頭盧尊者は神通力にすぐれていたといわれ、あるとき、町の金持ちが竹の上に托鉢の鉢を載せて、それを取ってくる者はないかと、集まってきた各宗派の修行者たちに問うと、さっそく賓頭盧尊者が名乗り出て、持ち前の神通力を発揮して、一気に飛び上がり、鉢を取ってきたという。これをあとで釈迦が知って、「神通力というものは、一般の人々の前に見世物として使うものではない」と叱り、それがもとで賓頭盧尊者は堂内に入ることは許されず、釈迦の滅後も、弥勤仏が出現するまで堂外で、法を説きつづけるように命ぜられました。
糸桜(しだれ桜)
ある時、花の盛りになにもののしわざとも知れず「ときにきたれど むすびめもなし」と下の句を書いて、この桜の枝に結びつけてありました。誰もこの句にうまく上の句が出来なかったのですが、鎌田二郎左衛門尉義行(かまたじろうざえもんじょうよしゆき)(岩村藩士)という人が「ふき結ぶ 風にみだるる 糸桜」と付けたという話が尾張の長母寺(ちょうぼじ)に晩年を送った無住(むじゅう)法師の「紗石集(しゃせきしゅう)」に書きとめられています。鎌倉初期には宮廷ばかりではなくひろく庶民の間にも二句唱和と称せられて、春らんまんと咲き乱れるしだれ桜の下で多くの人たちが寄り集まって歌に興じました。それは、しだれ桜の形から霊魂が伝わって降りて来るといった信仰が人々の間にあり、その花鎮(はなしず)めのお祭りでもあったのです。この桜堂でも、あるいは都で盛んであった花の下(はなのもと)連歌と同じような形で行われていたのでしょう。
しだれ桜ライトアップ
薬師庵脇のしだれ桜
薬師堂の左に薬師庵(庫裏[くり])があり、庵に入る門(医薬門)の脇にしだれ桜の老木があります。「土岐の糸桜」と言われて、「吹き結ぶ風に乱るる糸桜 解き(土岐)に来たれど 結び目もなし」という連歌が沙石集に載っています。3月下旬の花の頃には一見に値する見事な桜です。
桜堂絵馬(県指定)
・所在地: 土岐町5728番地 桜堂薬師
・昭和31年11月14日指定
土岐町の桜堂薬師には、数多くの絵馬や献句額等が残されています。
絵馬奉納の風習は平安時代の終わり頃公家や武家の間で始まり、鎌倉・室町・江戸の各時代を通じて益々盛んになり、名画が神社・仏閣に奉納されるようになりました。
絵馬の起こりは、奉納者か家運・武運諸事成就を祈願して神社などに馬を献上する代わりに馬の絵を代用して納めたのが始まりといわれています。始めは紙に画いたものや板画きの小品でしたが、次第に大作・芸術作品が奉納されるようになり、庶民や神社に社頑を飾る芸術品として迎えられて、現在まで大切に保存されてきました。
桜堂薬師には7枚の絵馬がありますが、その内の慶長(けいちょう)絵馬・寛文(かんぶん)絵馬・亨保(きょうほう)絵馬・文政(ぶんせい)絵馬の4枚が県の文化財に指定されています。なお、この他にも桜堂薬師には寛文7(1667)年10月奉納の「角力」、同11年奉納の「武士3人」、及び亨保年間奉納の「松に鷹」の絵馬があり、いずれも江戸時代のすぐれた絵馬です。
慶長絵馬
「慶長絵馬」は、岩村藩主 松平和泉守(まつだいらいずみのかみ)源家乗が慶長18(1613)年10月に奉納したもので、土佐派の絵画らしく温雅で生気にみちた傑作です。縦111cm、横137cmですが、作者は不明です。
寛文絵馬
「寛文絵馬」は、寛文11(1671)年5月に中興再建の外護となった岩村藩主丹羽式部少輔(にわしきぶしょうふ)藤原氏純が奉納したもので、縦101cm、横146cmです。
亨保絵馬
亨保の「風俗絵馬」は、名古屋の薬問屋宮崎氏が亨保3(1718)年5月に奉納した盆踊りの浮世絵で、当時の上流庶民の生活を偲ばせる絵馬となっています。縦92cm、横115cmです。
名古屋の薬問屋宮崎氏は、朝鮮人参や唐の妙薬をも扱い、お城の御用商人として、笑いが止まらないほどの商売繁盛振りでした。ところが、ある時、一人娘がふさぎ病にかかり、床についてしまいました。名医に診てもらっても、自慢の朝鮮人参も唐の妙薬も全く効き目がありません。どうしたものかと困り果てていたところ、「美濃の桜堂薬師へお参りしてお願いしたら」とすすめられ、桜堂薬師を訪れました。そして、庭のしだれ桜をとりお供えして、その葉を持って名古屋へ帰ると、早速煎じて娘に飲ませました。すると不思議なことに、その日を境にだんだんと良くなり元気を取り戻しました。そして、そのお礼にと奉納されたのが、今に残る、浮世絵の享保絵馬です。
文政絵馬
文政絵馬の「松に鷹」は、藩主松平能登守(まつだいらのとのかみ)乗保が官位が従四位(じゅしい)に昇格したことを祝って、狩野洞琳藤原由信に描かせたものですが、風雨にさらされたためか板面の摩滅や色あせが多少現れています。縦90cm、横113cmです。
櫻堂薬師仏像
室町~江戸時代。仏像群は火災の際、本堂の東、金剛坊の林の中へ避難して無事焼失を免れて現在、本堂に安置されております。
「本尊」「日光」「月光像」「十六善神」は室町時代後期の作と伝えられています。
また「四天王像」「十二神将」は神篦城主の土岐三兵信友が仏師5名に命じて作らせたと伝えられております。
奉納句歌額
宝暦5年(1755)には東濃観花句会が桜堂薬師で、同十年には信州・尾州の同好者も入れた大俳譜会が小田高松観音堂で開かれるまでになり、この宝暦年間からの数十年は当市における文化開花の第一期となって、信州・尾州・江州・遠州の同好者も入れた桜堂薬師での寛政3年(1791)の大俳譜会まで続きます。
宝暦観花大句額(宝暦5・1755・安藤松軒ほか・俳諧四一句ほか)
宝暦5年(1755)の桜堂薬師における宝暦観花大句会は、正風美濃派(獅子門)四世の田中五竹坊(東伯・本巣の人)をはじめ、社中の横井也有・五条坊木児・蓮阿坊白尼・其夏・李境・坂兎(津島)・蟻孔(鳥居松)らの壮々たる人々を迎え、信州からは蘭庭(三留野)・露松(薮原)ら、県内では可竜(羽島)・知六(関)・海宜(久々里)・芦因(中津川)・周度(岩村)・球阿(兼山)・和琴(同)・春情(苗木)・暁繁(御嵩)・白臥(同)・門柳(岡瀬沢)・虫空(コウ)子(茄子川)らの同好者を招き、地元からは釜戸の安藤松軒範高(のりたか)・白兎・兎江(松井)・桃渓・風竹・芦■・遊道をはじめ、月吉の和水(野鶴園)・戸狩の和牛・山田の尾水・土岐の百亭・白孚・江童・売里・松琴らの各師匠格の者が参加し、主催者は釜戸安藤松軒です。松軒は釜戸町大島に住み、代々医師として領主馬場氏に仕えたといわれています。従って安藤家は、この地方においては上層階級の家柄であったらしく、松軒は医業の傍ら俳諧を嗜み、雅号(ペンネーム)を竈山人と号しました。平時の中心的俳諧人であった松軒は加賀の千代女とも交流し、彼女より送られた色紙や書簡が、今尚家に保管されています。色紙には「紅粉指した 口を忘れて 清水哉 ちょ女」とあります。
沙石集の「美濃国土岐の桜堂というは花の名所なり」の古事にもあるように、桜堂の名で呼ばれる薬師(法明寺)での松軒主催の観花句会は大成功で、それを記念して薬師に奉納されたのが宝暦五年桜堂薬師奉納句額です。
この句額は、二百数十年という歳月のことから磨滅も進み、幾度となく解読を試みましたが未だに判読困難な句や人名があって残念ですが、巻首に蕉風俳譜の俳聖芭蕉の「さた(ま)さた(ま)の 事思い出す さくらかな 芭蕉翁」の句を掲げ、以下一人一句で四十句、そして巻末に蓮阿坊・五条坊・松軒・白兎ら八人による連句四首が記されています。
寛政大句額(寛政3・1791・安藤白兎ほか・俳諧210句)
白兎は、父松軒の跡を受け継いで東濃地区の文壇に活躍し、父が主催した宝暦五年の桜堂薬師における東濃地区大観花句会に続いて、寛政3年(1791)には同様に桜堂薬師東濃大句会を成功させています。この句会の中心人物である白兎は、父親松軒の辞世の句である「蓮の実や どこへなりとも 飛び次第」に対して、「飛んだ実の はえて又とぶ 蓮哉」と辞世の句を残しているのは有名です。白兎の墓は釜戸駅北の丘の上にあります。
宝暦の桜堂・高松両大句会が行われてから約三十余年後の寛政3年(1791)、三度目の瑞浪市主催の近県大句会が再び桜堂薬師で開催されました。
この句会は、二代目安藤松軒白兎が主催し、参加者は信州・江州・尾州・遠州、そして一人ながら江戸の同人も参加し、県内では可児郡から五名、土岐・恵那両郡のうちから六十余名がこれに応ずるという宝暦句会よりもさらに飛躍した大句会でした。
この句会は桜堂薬師を会場としながら、先の松軒の時の蕉風美濃派による宝暦観花句会と異なって、高松観音宝暦句会と同じ俳譜の大句会として行われました。
瑞浪市における、江戸時代の第一期の文化開花期の総仕上げとも言える時期だけに、主催者である二代安藤松軒白兎の村の釜戸からは、白兎のほかに山月堂・玉手箱・花蝶・萩雀・山麓・萩細の七人、日吉からは細久手東梨亭・同いろは・半原哥楽・南垣外の四人、大湫からは氷山下、土岐からも一鎌箆・猿子色葉・桜堂連・市原花遊・一日市場連・栗笠・木ノ暮の七人、寺河戸から寺河戸連中、 一色南子、小田からは指月堂、山田では水輿・洞水・稲津からは小里邑連・羽広柳水・萩原苔坊の三人、明世からは先の高松観音大句会を主催した花前のほかに里兎、陶からは高松句会にも参加した青柳と、実に瑞浪市内の旧各村々のトップ30人が出席しています。
また旧土岐郡下では多治見加水堂・滝呂和水・池田古扇・定林寺柏狸園・河合歌笑・肥田松栄堂・大富梅遊園・土岐口いの字・久尻柳枝園・下石仙子・下石連中・駄知山水・柿野惣苔・恵林堂・細野洛友・妻木梅紐・笠原連ら十七人、旧恵那郡下からは大井梅薫舎・中野柳風・郷水・正家松葉・藤歌枯・次桂・佐々良木富扇・久須見和鶯・姫栗中野方連・中津川蘭女・苗木風月堂・阿木鳳山・坂下月泉堂らの十三人のほかに、久々利・羽崎・中村・兼山などの可児郡勢も参加し、尾州の五人、信州の三人、江州の二人、そして遠州浜松・江戸の各一人づつという県外組を交えて、総勢約八十人にも及ぶという空前の大句会でした。
この時の寛政3年桜堂薬師奉納句額は、立派な二枚の額で奉納され、句は全部で約210句という大変なものです。
弘化観花句額(弘化2・1845・釜戸連中ほか・俳句24句)
この句額では、各務支考を抜いては考えられません。支考は美濃で生まれた江戸中期の俳諧人で、蕉門十哲の一人です。連句に長歌行、短歌行などの式を設け、また和詩を創(はじ)め特に体系の立った俳論を組織し、芭蕉没後は平俗な美濃風を開いています。いわゆる美濃派の始祖であり、編著には「葛の松原」「笈(おい)日記」「梟(ふくろう)日記」などがあります。
中世から「花の名所」といわれただけに、桜堂薬師堂には宝暦・寛政の奉納句額のほかに、弘化2年(1845)、慶応4年、明治初年、同15年(2枚)、同25年ほかの立派な句額が奉納されていて、これらを基にして詳細に調査を進めれば、瑞浪市内だけでなく広い範囲での庶民文学史の資料になるものと思い、今後に期待するものです。
このうち弘化2年のものは、釜戸公文垣内の俳聖句碑の美濃派15世化月坊(梅仙・国井氏)と同系の筆になると思われる実に独特の書体の額であり、慶応4年のものは狂俳百句、明治初年のものは観音堂の絵句天井、同15年の2枚は共に狂俳で百一句づつ、同25年のものも狂俳で百句のものです。
この句頷は恐らくこの地方の美濃派の流れを酌む俳諧人達が巻(かん)を捲(ま)いて薬師に奉納されたものと推察されますが、始祖の支考が、右下がりの文字を書く癖があったので、当時の風習に従い、始祖に真似て達筆な文字を配しています。
観音堂
市文 聖観音坐像
平安時代、鎌倉時代
桜堂区所蔵
観音堂の本尊で、秘仏である。後世の補修によって当初の姿は失われているが、頭体幹部は平安時代末期から鎌倉時代初期の制作とみられる。
江戸時代の古記録には「観音ハ其(峯山に住む)仙人ノ作也(中略)開山以前ョリ御座在ル観音也、其名世間流布シ昔西国巡礼ノ初観音札一番也」、「昔シハ峯山の観音ト申」と記される像である。
人々の悩み、苦しみを音で聞きとり、その状況に応じて、33の姿に変身して安楽を与えてくださる仏様です。
この観音様は、20年にー回公開される秘仏となっており、通常は見ることが出来ません。造立時期は平安時代末期から鎌倉時代初期と見られております。
観音堂 絵句天井
桜堂薬師観音堂絵句天井には30枚の絵句が張り込められています。肖像画の方に、チョンマゲ姿がないことから明治10年前後の絵と句だと考えられ、俳句仲間は現土岐町の桜堂を中心に下沢・鶴城・木暮・益見・奥名、それに釜戸からも参加しています。 (一枚に餘戸とあることから明治22年以降の奉納かも知れません)
この絵天井は絵(肖像)も字(句)も仲々よく、木暮・如是庵は信光寺の和尚で、所・恵康は桜堂薬師の尼僧さんと思われます。桜堂薬師には前述もしたように、このほかに慶応4年100句、明治15年202句、同25年100句ほかの句額があります。
この絵天井は、日吉の細久手に小木曽文州という尾張藩のお抱え絵師だった方が描かれたものです。釜戸の宝珠寺の子安観音様の絵天井も、小木曽文州が描いたものです。
小木曽文州という方は、尾張の殿様が、「木曽の桧を切って、それを筏を組んで運んでいるということであるが、それを絵にかいて貰いたいと言われたことから、その絵を描いて認められて、御用絵師となった方です。
「観音堂」は屏風山麓の大悲山に、峰山観音として祭られておりましたが堂宇荒廃を極めた為、移奉したものであります。本尊、聖観音は鎌倉以前の作と伝えられ、秘仏となっております。本尊右側には開祖「三諦上人の座像」左側には中興開山の「賢秀座像」が祀られており、体内には中興の由来が詳細に記録されていると伝えられいます。また、その横には岩村藩の殿様、松平和泉守乗寿公、丹羽家歴代の位牌が祀られております。
櫻堂薬師 奥之院跡
仙人山の山頂付近西側には、「櫻堂薬師奥之院跡」と伝えられる場所があり、現在でも小規模な平坦面と礎石と思われる石材が確認でき、かつては石垣も存在したとされる。
楼堂薬師に伝わる、『濃洲土岐櫻堂内院観音堂記』(元禄12年成立)によれば、現在境内に所在する観音堂は、かつてこの場所に所在したとされ、現在も観音堂には、本尊として木造の聖観音坐像が祀られている。
この木造聖観音坐像は、後世の補修によって当初の姿は失われているものの、平安時代末期から鎌倉時代初期の制作とみられ、櫻堂薬師に伝わる仏像の中では最古のものである。
そして、楼堂薬師に伝わる江戸時代の古記録には「此観音ハ当寺ノ奥ノ院、昔シハ峯山ノ観音ト申御像」、また「昔峯山ニ一人ノ仙人有リ(中略)観音ハ其仙人ノ作也」との記載もみられる。
右記の『観音堂記』には「元正天皇(在位:715年、724年)の皇女が病にかかり、ある夜「一人で山林に住み、観音を拝めば病が治る」という夢のお告げがあった。翌朝内裏南殿に山鳥が現れたので観音を念じると、山鳥は光を放って皇女を峯山へと導き、山鳥も仙人へと姿を変えた。仙人は皇女を岩の上に座らせると、加持を行ってその傍らにあった岩に皇女の病を移した。この時皇女が座った岩を児岩(ちごいわ)、病を移した岩を疣岩(いぼいわ)という。その後、しばらくすると皇女の病は癒え、京へ帰ることとなったところ、仙人が「貴方の病を癒したのは薬師如来であり、縁があって貴方をこの地に導いた。これからはこの山を敬うように」と述べた。皇女は京へ帰りこの次第を伝えたところ、元正天皇はすぐに峯山に使いを遣わしてこれを敬い、また謝意を伝えた。」
さらに「ある時、月吉、日吉という二人の武士が戦に赴いたが、激しい戦いにもかかわらずほとんど傷がなかった。これは観音が身代わりとなったもので、以後二人は観音像を奉るようになり、その後は薬師如来がこの山に顕現(けんげん)するようになった。観音堂はかつて毎月参拝されていたが、やがて惰心が生じて参詣路の途中でこれを拝むようになり、荒廃が続いた。その後歳月を重ねてもこれを再興する者はなかったが、実相院はこれを憂いて堂の再建を決意し、間もなく堂は落成した。」旨が記されている。
このように観音堂、観音山に関連する記述からは、かつて屏風山(峯山)、また観音山が信仰の対象となっていたことが窺われ、先に述べたように修験道との関連も十分想像されるところである。特に舞楽面の陵王面の頭部が付け替えられていることもその可能性を示すものと考えられよう。
さらに、この観音山の西側山麓の平坦面はかつて「観音ヶ平(かんながだいら)と呼ばれていたことが知られている。現在は八ヶ頭(はちがとう)遺跡の所在場所であるが、その地名の由来については、瑞浪市小田町に所在する高松観音堂の由緒書である『高松山馬頭大悲由来略記』(元禄4年成立)に記されている。
すなわち「平城天皇の御代であった大同4年(809)、小峯山(観音山か)の麓から紫雲がたなびき、夜になると忽然として白髪の老人が現れた。老人は「小峯山の麓には行基の作った馬頭観音像があるが、この地は山深くこの場所に観音像を安置しても衆生(しゅじょう)を救う事が出来ない。この尊像を探し、この庵に移すように」と告げて東方へ飛び去った。翌朝、智道尼は山へと分け入ると古いお堂を見つけ、尊像が鎮座されていると思い唱名(しょうみょう)をとなえ始めた。その時、強風が吹いたかと思うと今まで目の前にあったお堂が消えて無くなり、本堂の敷石と山門の跡とおぼしき石段のみが残り、傍らに観音の尊像を見つけた。これによりこの地は観音ヶ平と名付けられた」というものである。
また、釜戸町神徳には「ある時の事、観音ヶ峯の空が光り、明るい夜空を観音様が伊勢の白子(三重県鈴鹿市)へと飛び去った」との口伝も残り、「観音ヶ峯ふもとの原の観世音一夜に飛べり伊勢の白子へ」との歌も伝えられ、 一説には、白子不断桜(国指定天然記念物)も元は観音堂の境内に生えていたものとも言われる。
なお、観音堂が現境内に移された時期については、『観音堂記』に実相院(賢秀)が再建を果たしたと記されること、また寛文5年(1665)の絵図(現在の桜宮神社の位置)にその存在が描かれていることから、 1660年代前半の事であろうか。
そして、元禄8年(1695)に土岐三十三所順(巡)礼が定められた際、櫻堂薬師の観音堂は第七番札所に定められており、観音堂の上梁文等からは元禄12年(1699)に観音堂が再建されたことが知られる。
そして明治32年(1899)には、観音堂が現在地(本堂前方)へ移動されているようであるが、建立された堂宇は瓦葺きであったことが棟札から知られる。その後、平成元年(1989)には瓦葺きから銅板葺きに改められて現在に至るものであるが、外縁では市内でも類例の少ない明治期の絵天井を見ることができる。
櫻堂薬師舞楽面
桜堂薬師舞楽面(県指定)
・所在地: 土岐町5728番地 桜堂薬師
・昭和32年12月19日指定
舞楽とは、奈良時代から平安時代にかけて中国から伝来した音楽と舞のことです。舞楽面はその舞に使うお面で、舞楽の動作に合うよう象徴的に造られています。
わが国で舞楽か最も盛大に行われるようになったのは平安時代で、宮廷や神社・寺院などで行われ、この時代の代表的な舞楽面は春日大社・厳島神社・法隆寺などに残っています。
桜堂薬師には「陵王(りょうおう)」「抜頭(ばっとう)」「納曽利(なそり)」の3面か残されており、内「陵王」「納曽利」の2面は顎(あご)が動くように造られています。
「陵王」面は鎌倉時代の作と推定され、檜(ひのき)材を用いて精巧に造られています。外面は漆(うるし)を用いて盛上彩色(もりあげさいしょく)がなされ、内面も麻布が漆で固め張られています。他の2面もほぼ同時期の製作と思われ、県内でも数少ない貴重な資料です。
この3面の舞楽面は、元亀2(1571)年10月の織田信長の兵火を免れたもので、桜堂薬師の歴史を立証する貴重な文化財の一つです。
なお、展示の舞楽面は、瑞浪市窯業技術研究所に依頼し、陶器で作られたもので、実物を二倍に拡大したものです。
地蔵菩薩石像
土岐町桜堂薬師山中(宝永2・1705・光・立・右錫杖・左宝珠・賢秀)
土岐町桜堂薬師のものは、開山塔近くある薬師中興開山の賢秀和尚の墓碑地蔵で、光背部に「当山中興阿闍梨実相院賢秀 宝永二乙酉二月二十二日 六十九才」と没年が刻まれています。賢秀は寛文7年(1667)に現薬師を再建した名僧です。
夜念仏供養塔
土岐町桜堂薬師境内(享保5・1720・笠塔婆・夜念仏結衆十二人・名号共)
桜堂薬師のものは笠塔婆型の正しく立派なもので、正面に六字名号が刻まれ、両側面に「夜念仏結衆十二人 享保五年三月吉日」 とあります。この桜堂薬師は古い由緒を持っているだけに元慶3年(八七九)の県指定の開山塔や応永9年(1403)の題目石塔をはじめ、江戸初期の灯篭らもあって、市内でも特記される石造物群の所在地です。
千日念仏塔
土岐町桜堂薬師(寛文11・1671・笠付塔・千日念仏一賢秀ら六名)
土岐町桜堂薬師の千日念仏塔は、全高二・五mという立派な笠付塔で、年代的にも古く、四十cm角の塔身の四面に 「南無阿弥陀仏千日 法界衆生平等利益仏性常住結衆 寛文十一年九月十五日 住寺賢秀(僧侶名五人)桜堂村中立之」とあるものです。
古刹桜堂薬師は元亀2年(1571)に兵火焼失、再建後再び荒廃して、寛文7年(1667)永秀・賢秀の両和尚の努力と岩村城主丹羽氏の後援で現在の堂宇が再々建されたものですが、この千日念仏塔の刻銘文から、中興祖の賢秀和尚らは薬師再建が実現すると直ちに一大発心して千日念仏の勤行に入り、三年近くを了た寛文11年9月に満願成就してこの碑を建立していることが知れます。また勤行の内容としては五名の僧侶が勤行に加わり、桜堂村中がこれをささえ応援したことが判るもので、桜堂薬師再々建の史実の上からも資料となる貴重な造立例といえるものです。
国東塔
土岐町桜堂薬師(享保2・1717・国東塔・塔身部が刳られ薬師仏を安置)
土岐町桜堂薬師のものは国東塔型宝塔と呼ばれる様式のもので、円形の塔身内部が刳り抜かれて薬師金銅仏が安置され、全高2.5m、基礎第一座(最下部)の直径96cmという立派なもので、基礎第二座に「十万之以他力奉造立之有也 享保二丁酉年九月吉日 願主相阿 内有信施主」とあって、相阿和尚が近郷近在の寄捨によって建立したことが判ります。また国東塔という塔型は宝塔とは蓮華台座のあることで区別され、造立と目的が①寺院などの隆盛・仏法の興隆・国家の安泰を祈る。②法華経などの経典供養(納経)する場合に造立される塔、とされていて、市内では旭王寺の法華経塔の場合と共にまさにそのとおりの造立ニ例です。
名号碑
土岐町桜堂薬師境内(寛文7・1667・自然石碑・修善院永秀・実相院賢秀)
土岐町桜堂薬師境内(享保5・1720・笠塔婆・夜念仏結衆十二人)
観音供養塔
土岐町桜堂薬師境内(天明3・1783・自然石・観世音供養塔・観音講中)
題目碑
土岐町桜堂薬師 (応永9・1402・題目・笠塔婆・南無妙法蓮華経)
旧法明寺(桜堂薬師)境内、旧坊跡から集められた桜堂薬師石塔群の中の一つで塔身高31cm、塔身正面に「南無妙法蓮華経、応永九年十月」ほかが刻まれている。応永9年(1402)は、日吉開元院建立着工の37年前に当たり、応永9年という古さの題目塔は県内でも特記されて貴重です。南北合朝の十年目で室町時代初期に当たります。
西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑
土岐町桜堂薬師(明治41・1908・板塔・西国四国秩父坂東(二人))
桜堂薬師のものは共に四霊場順拝の記念碑で、ここでも熱心な霊場順拝の旅が行われたことが知れます。
境内灯篭
土岐町桜堂薬師境内 (寛文11・1671・単・円・宮地・今井・杉山氏)
土岐町桜堂薬師弁財天(延宝4・1676・対・円・奉寄進氏春・別当賢秀)
土岐町桜堂薬師境内(享保5・1720・単・円・市岡・永井・森本・伊藤・稲垣氏)
土岐町桜堂薬師仁王門(宝暦3・1753・単・円・宝暦七年のものもあり)
神前灯篭
土岐町桜堂薬師境内(享保2・1717・対・寄進小栗氏 )
石塔群
当薬師が嵯峨天皇の勅願寺であった頃の全盛時から、今日までの歴史の集積とも言えるこの石塔群は鎌倉から室町時代に亘る貴重な石塔群であり、全盛時には36坊とも24坊とも伝えられた面影も今はなく、開山の三諦上人、中興の師永秀、賢秀師のほか、中興二世、中興三世の代々住職の供養塔を中心にして、かつて桜堂の各地、奥山の山中に跡を残す坊跡に散らばる苔むす五輪塔、宝匤印塔を拾い集めて祀ったのがこの石塔群です。
応永9年(1402)10月13日の刻印のあるものもありますが、今や古老のなかの記憶となりつつある現在、かつての坊が地名として僅かに残っているに過ぎませんが、私達はこの数々の石塔が坊の名前と共に何故か身近に感じられます。由緒ある桜堂の歴史と共に生きてきたこの石塔群を、坊名と共に次の世代に末永く守り引き継いで行きたいと思っております。
・本坊…妙法寺、根本地山安院、東乃坊、西乃坊、南乃坊、北乃坊、金泉坊、洞乃坊、満月坊、家乃坊、吉祥坊、杉本坊
・被官坊…中円坊、不動坊、里乃坊、よりき坊、じやがね坊、宝林坊、金剛坊、寂乃坊、大通坊、中陰坊、多聞坊、荒神坊
五輪塔
土岐町桜堂薬師境内(約60基・旧寺院跡より移転、平安~室町のものと考えられる。大・小)
宝篋印塔
土岐町桜堂薬師境内 (十基分・旧寺院跡より移転、平安~室町のものと考えられる。大・小)
五輪の塔や宝篋印塔を屋敷に飾ると、家の格式が上がると言うので、町で近頃家を建てる一部の不届き者が盗んでいくために、こうして、途中に祀られていたものを、全部ここに集めた物です。明治の頃から沢山盗まれているようです。
土岐双生竹
双生竹は箭竹類の「矢竹」で、地下根茎の隣接の節から発芽するので一見して一節双竿、「ふたごだけ」に見えるところからこの名がつけられています。
株をなしている数本の竹幹を見ると、ほとんど太さや節間の揃っていることがわかります。
こうしたことから昔から武士の間で矢竹として珍重され「神箆」「一鎌箆竹」などとも呼ばれました。
伝説によると源三位頼政が仁平3年(1153)禁裏を悩ませた紫宸殿のヌエを見事射とめたときの矢も、自領のこの土岐の双生竹で作ったものであったといわれています。
また、土岐町東部のことを今でも神箆と呼びますが、この地名も双生竹から生まれています。
鶴ヶ城一帯に群生していたという双生竹も近年絶滅に近い状態です。
自生地は佐渡、伊予、美濃の土岐に限られ、「土岐双生竹」として県、市の天然記念物になっている。
弁財天(弁天池)
この弁天様は、昔、神箆村は岩村領だったことから、岩村の殿様が子どもが出来なくて、跡取りに困られ、その時に願立されお祀りされたと伝えられております。
弁天様は、弁舌、学業、知識、延命、財力、福徳、音楽、言葉の八つの願い事を聞いてくださる誠に有難い神様です。ですから、弁天様をお参りすると、人間良い事ばかりが続くと言うことのようです。
鶴池の蓮、亀池の睡蓮
仁王門を過ぎると左手に2つの池があり、上の池は鶴池、下の池は亀池と言われ、7月には蓮や睡蓮の花が咲きます。早朝に開花するので時期になると、朝早くからカメラを持った人の姿が見られます。
かつては、祭礼時(3月)に蓮根を掘り、区民の食用に供せられたこともあったようですが現在では行われていません。
亀池に浮かぶ亀島には亀池弁財天があります。岩村城主丹羽氏純公兄弟が本願主となり、延宝4年(1676)に再建されました。また慶安4年(1651)屋根替えの棟札もあり、江戸時代初期以前より祀られていたものと思われます。
現在も地元の篤志(とくし)家によって修理保存が図られています。
疣岩(いぼいわ)
元正天皇(715年即位・第44代)の第二皇女は、不治の病にかかられ、その平癒は絶望とされ、天皇の悲しみも深かったという。
或る夜、「姫ひとり山林に住み観音に救いを求めよ」という夢のお告げがあり、その翌朝、山鳥が来て姫を導き夢の如くに土岐の里の峰山にきたという。
山鳥は仙人に姿を変えて、姫の坐を「児岩(ちごいわ)」とし、観音経を唱えつつ、この「疣岩」に姫の病を移したということである。
こうして、姫の病はたちまち平癒し、喜んで天皇のもとへ帰り、この次第を報告された。
それ以来、病気平癒、家内安全、学業成就、願いごと達成等々として信仰が深く、特に「疣取り岩」として有名である。
このいぼ岩は,昭和52年に笹山から移転されたものです。
弁財天
桜堂薬師弁天祠は慶安4(1651)
和歌山県の熊野那智大社から出土した経筒
和歌山県の熊野那智大社から出土した経筒に「美濃国土岐郡洲田郷法明寺、僧道西、保元元年」ほかの銘文があり、平安朝末期のころの桜堂薬師の隆盛ぶりがうかがえます。
「美濃国土岐郡延勝寺御庄洲(津)田郷法明寺・保元元年九月二十三日」ほかの五四字で、現桜堂薬師の僧道西が供養のために納経した銅製の経筒に刻んだものです。保元元年(1156)は武士抬頭のもとになった「保元の乱」の年です。
仁寿仏(金銅仏)
土岐町桜堂薬師(旧法明寺)に伝えられてきた仁寿仏(金銅仏)の光背に刻まれている「仁舞元年正月三日」以下の二二文字の刻銘文です。この仁寿仏は「隋で造られたものではないか」ともいわれており、隋の仁寿元年は日本の推古朝9年(601)に当たり、聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)を営んだ年ですから、本物であれば国内的にもたいへん貴重なものです。
笹山遺跡
熊野那智大社に埋経を行ったのとほぼ同時期、楼堂薬師の周辺においても経塚の造営がなされたことが知られている。現本堂の南方約200m の丘陵に所在する笹山遺跡は、山頂の経塚群と山腹の中世墓群からなる遺跡で、特に山頂の経塚群は「桜堂経塚」としても知られ、地元では「経ヶ峯」等とも呼ばれている。
寛文5年(1665)に描かれた寺領寄進絵図には「経堂八部峯」の記載もみられることから、少なくとも近世初頭までは埋経の地としての認識があったと思われるが、その存在が広く知られるようになったのは大正5年(1916)のことである。
当時の記録によれば、松を植樹しようとした際に地元区民によって偶然発見されたもので、その際出土した陶製経筒外容器や和鏡、刀子(とうす)、桧扇(ひおうぎ)等は、現在東京国立博物館に所蔵されている。
平成22年度に瑞浪市教育委員会によって本格的な発掘調査が行われた結果、古瀬戸・古瀬戸系施粕陶器、常滑、山茶碗、中国陶磁等多数の遺物が出土し、これらの遺物から、山頂部の経塚群は12世紀後半から13世紀にかけて、山腹の中世墓群は13世紀から14世紀にかけて造営されたことが明らかとなった。
また、経塚群からの出土遺物には15世紀代の遺物が含まれることから、この頃まで何らかの祭記行為が継続した可能性も考えられ、中世墓群においても14世紀から15世紀にかけて造立されたとみられる石塔が多数確認されることから、長期間にわたって造墓活動が継続した可能性も考えられる。
さらに、特筆されるのは山頂部の経塚群から11世紀の製作とみられる経箱紐金具が出土したことで、全国的にも極めて類例の少ない出土事例といえる。
桜堂遺跡
桜堂遺跡はその中世墓群、さらにその周辺に広がる複数の平坦面からなる遺跡である。中世墓群の存在は比較的古くから知られていたようであるが、大小様々な平坦面は京都国立博物館(当時)の久保智康氏の現地指導によって、つい最近確認されたものである。
平成23年度に瑞浪市教育委員会により発掘調査が実施された結果、各平坦面からは古瀬戸、常滑、山茶碗、中国陶磁等多数の遺物が出土し、柱穴や土坑等の遺構も確認された。部分的な調査のため建物の規模や配置は明らかとなっていないが、出土遺物からは12世紀後半から15世紀後半にかけて坊院として機能していたとみられる。
特に、中世墓群に近接する最大の平坦面で確認された遺構の中には大型の柱穴がみられ、比較的大規模な建物が存在していた可能性が高いと思われる。そして、後背に存在する中世墓群を考慮すると、この平坦面に存在した建物は旧本堂である可能性が高いと推測され、その存続期間は桜堂遺跡内の中世墓群、さらには笹山遺跡の経塚群・中世墓群とほぼ同時期と推測されている。
桜堂洞横穴群
土岐町桜堂字桜堂洞
桜堂薬師から洞地形が南東方向に深くのびている。この北側斜面の約300mにわたって5基の横穴があったが、完全に崩壊してしまったためか、踏査ではひとつとして見出すことができなかった。昭和30年代の調査のときすでに崩落がひどく痕跡としか確認できなかったものが多い。
1号横穴
ホテルの真向かいの山腹にあった横穴らしい。56年台帳には「山腹にあり、全く流失し、奥底部のみ僅かに痕跡を残す」とあり、奥壁の下底部が痕跡程度に残っているようなスケッチが描かれている。
2号横穴
36年調書に「道路ノ右方中段、奥中後方部残シ前部崩ル、南向キ」とある。この時、奥行2m、幅2m、高さ2mの奥部か残っていたらしい。
3号横穴
洞地形の北側山丘を刻んで小さな沢が寺沢川に流れこんでいる。横穴は、この沢の左側の山丘突端あたりにあったものと思われる。ここに横穴の痕跡とも思われる凹みはあるが、断定はできなかった。36年調書に「奥壁部並ビ底部ノミ僅カニ残ル、南稍西向」とある。この時、奥行0.5m、幅1.4m、高さ1.3mの奥部が残っていたらしい。
4号横穴
36年調書に示された位置は、土岐児童センターの裏山にあたる。同センターの建設で壊されたのか、踏査では見出せなかった。36年調書に「奥部ノミ残ル、南向キ」とある。この時、奥行0.8m、幅1m、高さ1.3mの洞穴状の地形が残っていたらしい。
5号横穴
4号横穴のすぐ北にあった横穴らしい。36年調書に「奥部ノミ僅力ニ残ル、南向キ」とある。この時、奥行0.9m、幅2m、高さ1.5mの洞穴状の地形が残っていたらしい。
瑞浪市土岐町(字櫻堂)5728
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