■ 神社 神様

八剱神社 瑞浪市北小田町

祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)
例祭日:十月第一日曜日

 「第十二代景行天皇の御代、日本武尊は西国のクマソを討ち更に東国の賊を平定する為伊勢神宮に戦勝祈願されました。その折叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から剣をいただかれたが、これが後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。
 尊はこの剣の力をもって見事賊を討伐されましたが、又もや伊吹山の賊徒が暴れたため、それも又平定されました。しかし、その時悪い神の毒に当たって重病となり、遂に亡くなってしまわれました。
 すると、尊の傍らにあった剣が鞘から抜け、白鳥の姿となって東へ東へと飛び、この小田郷の広野に降り立ったかと思うと白鳥の姿は消えて跡に一本の剣が残っていました。里人はこれを持ち帰って祠を立てて祀り、八剣の宮と名付けた。」という伝承があります。

 創建の棟札の写しに「嘉元二年(1304)小田大宝原小金の塚にありし社を三条中将宣卿の妻弥生がここに勧請す」とされています。寛永十四年(1637)再興の旨の後年書札もありますが、現在の棟札として残っている最古のものは享保二年(1717)です。
 八剣の名称は、外賊の難を防ぐ為に天武天皇の時代に草薙の宝剣八振を作って熱田神宮に奉祀したのが始まりといわれ、それに、なぞらえて木製の八剣が本殿の中に納められています。

 この八剣神社には「どんな難病もこの神社に祈願すれば必ず治る。特に婦人が信仰すれば安産まちがいなし」との言い伝えがあり、「赤ちゃんがするりと産まれますように」と底を抜いた「ひしやく」を奉納する珍しい風習が続いています。

 寛文十年(1670)本殿が再建されました。
 文化九年(1812)八月 小田八剣神社祭礼 上小田の若き者、太平記・白石噺を仕組む。当村初の奉納芝居なり、費用は井辻の池の鮒を与う 三両余りになった由。
 弘化二年(1845)八月 小田八剣神社祭礼 若き者芝居つとむ。とあります。



 明治期作と思われる陶製狛犬があります。

「右みたけなごやいせ道 左上ひだおろし道」の道標


境内灯篭

 宝永七年(1710)単体 円柱 三宅五右衛門信吉

 享保十六年(1731)単体 円柱

 文政九年(1826)単体 円柱 成瀬氏中



八剱神社由来記

 十二代景行天皇の二十七年十二月、都の西の地方で反乱を起したクマソ兄弟を、日本武尊(やまとたけるのみこと)が征伐した。続いて四十年六月、今度は関東地方で反乱が起きた。そこで天皇は再び日本武尊に討征を命じた。
 尊は同年十月都を発し、伊勢神宮に立寄って戦勝祈願をした折、叔母のヤマト姫から、剣と火打袋を貰った。この剣が後の「クサナギの剣」である。
 伊勢を立って東に向ったが、尾張の熱田へ来て、国司の家に訪れた時、国司の娘、ミヤズ姫を見染め、凱旋する時には結婚する事を約束して東国へ旅立って行った。
 駿河の富士の裾野の合戦を初めとし、三年間討伐を続け関東一帯を平定した。都に帰る道すがら尾張の熱田へ立寄り国司との約束通り、ミヤズ姫と結婚し、暫く滞在している内、又も近江の伊吹山の賊徒が、附近一帯の住民を苦しめている事を耳にし、日本武尊は討伐に向った。
 朝廷から討伐軍が攻め寄せると云う事を聞いた賊徒共は、間もなく降服したが、尊は何かの毒の為に足が腫れ、歩行が困難になった。療養のために伊勢へ引返えす途中、毒は体全部を犯す様になり、重病となって、ノボノと云う所まで来て遂に死去した。
 その時、尊の傍に置いてあった、クサナギの剣が、するりと鞘から抜け、白鳥の姿に変り天高く舞い上って行った。
 白鳥は東へ東へと進む内、美濃国士岐郡小田郷の広野へ降り立った。すると白鳥の姿は消え、一筋の白煙が立昇ったかと見る間にそれも消え、跡には一本の剣が残っていた。
 これを眺めた里人は、光り輝く剣を見て、瑞兆の現われだと思い、剣を持ち帰って安置する祠を建て、里の鎮守として崇め尊び、これを「八剣宮」と名付ける事とした。
(“古事記”によれば、日本武尊の死によって草薙剣は白千鳥に化身して天をかけり、海岸に向って飛んで行った。后(きさき)や御子(みこ)達は、山を越え谷を渡り、足が傷き破れるのも忘れて、白千鳥の後を泣き乍ら追い続けた。遂に河内の国の志幾(しき)の里に来て留まった故、其地に陵(はか)を作って「白鳥御陵」と名付け、霊を祀ったが、再び白千鳥はこの地より飛び立って行った、と在る)
 世は後白河天皇の時代となった保元二年(1157)三月、尾張熱田神宮の大宮司の弟、栗田図書太夫と云う人が、祈願の為に諸国にある大社順拝を志して、国々を巡っていた。その途中、土岐郡の小田の里を通り掛った時、広野から白い靄(もや)の立昇るを見て、里人に尋ねた。里人は
「あれは昔、白鳥が何処からともなく飛んで来て、降りた場所です」と答えた。図書太夫は、
「神話に、草薙の宝剣が白鳥になり天空を飛んだと伝えられているが、此処が、その場所であったか」
とうなずき、立派な御社を建立し、八剣宮の御神体を、それに遷し、信仰生活に入った。又、天神の尊像を彫刻して、その社に合祠し、里人の信仰を高める様になった。
 世人は此処に祭られた神が霊験あらたかである事に驚嘆し益々崇敬の念を広く伝え、祭祀に専念した。
「どんな難病も、八剣宮に祈願すれば癒らぬ事はない。特に女人が信仰すれば安産は疑いない」と吹聴されて、近郷は云う迄もなく遠国からも参詣者の数は次第に増した。
 この社の西北の地に、小さい池があり、昔、白鳥がこの池の水を求めて降りたと云う伝説に因って、白粉池と呼ばれていたが今では一般に「白箱池」と呼ぶ様になった。


八剣神社の杉と樅(もみ)

 道路脇の石の鳥居をくぐるとすぐ木製の朱塗りの両部鳥居があり、その右側に幹周り3.7 mの杉があります。杉は社殿側に少し傾いて立ち、地上3m位の所から太い枝が垂直に伸びています。樹皮はかなりはがれ、幹には所々縦に溝ができ古木の感じがします。その根元には、表面が少し波打ったような自然石と、お供えができるような平たい石が置かれています。

 もう1本の杉は、社殿と上小田公民館の間の小さな祠の後ろにあり、この神社の森で一番背の高い木と思われます。落雷に見舞われた形跡もなくみごとな姿で天を突いて立っています。
 樅(もみ)は公民館西側の林の中にあり、ほぼ真っすぐに伸び、太い枝を四方へ広げています。この椛のすぐ隣に少し細い樅(もみ)がもう1本あります。


天保年間の常夜灯

 小田、市場地内の辻に建てられていた常夜灯が、区画整理のために八剣神社横手に移されています。「天保六乙未(きのとひつじ)中秋」と彫られています。

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