■ 神社 神様

気比神社 瑞浪市西小田町

小田町 気比神社(けひじんじゃ)

瑞浪市小田町1655
【祭神】伊奢沙和気大神
【例祭日】10月15日に近い日曜日
【由緒】創祀は不詳であるが、天保11年(1840)の標札に記されているのを見ると96代後醍醐天皇の御代ではないかと思われる。当社の由来は、天保11年に記されているのを見ると、「コノ気比大神ハ、文保三年(1319)九月、正禎寺ノ元祖大勧進坂上房次質ガ正禎寺ノ守護トシテ勧請シ、ソノ後、幾度カノ再興造営ヲ経テ、享保十四年(1729)二村中ガ始メテ氏子トナルニヨッテ小社ヲ大社二請成就シタルモノデアル。然ル処、天保九年(1838)八月大風ニヨリ御屋根ノ破損ノタメ、境内ノ苗木ヲ以ッテ御屋根ノ普請ヲ成シ、八月十八日遷宮ノ儀ヲ修行シタ」と記されている。
 文保3年は第96代後醍醐天皇の御代で、690年余り昔のことで、当時この地に正禎寺という寺があり、その寺の守護神として、越中一の宮、気比神社の御分霊を勧請して祀ったものだと思われる。気比神社のすぐ脇に、市桛島姫命を祀った稚児神社があり、子守の神様ということで子孫繁栄と、子どもの健やかな成長を願って子ども連れの参拝者がよく見られる。例祭日には、四町内の子ども御輿が区域内を練り巡り、神社に再び集まり、盛大な餅投げが行われ、元旦は、熱い甘酒が振舞われる風習になっている。
(岐阜県神社名鑑より)


気比神社(きびじんじゃ)

祭神 伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)

瑞浪市小田町一六五五番地(下小田)

 創建は御醍醐天皇の御代

 当社の由来は、天保十一年(一八四〇)の棟札にかなりくわしく書かれていますので、まずその概略を記してみます。
 コノ気比大明神ハ、むかし文保三年九月、正禎寺ノ元祖大勧進坂上房次資ガ寺ノ守護トシテ勧請シ、ソノ後幾度カノ再興造営ヲ経テ、享保十四年村中ガ始メテ氏子トナルニヨッテ小社ヲ大社ニ普請成就シタモノデアル。然ル処、天保九年八月大風ニヨリ御屋根ガ傾イタタメ、境内ノ苗木ヲ売って御屋根ノ普請ヲ成シ、八月十八日遷宮ノ儀ヲ修行シタ。
 天保十一年
 文保三年(一三一九)は、第九十六代後醍醐天皇の御代で、六百八十年も昔のことです。当時この地に正禎寺という寺があり、その守護神として、越中一の宮、気比(けひ)神宮の御分霊を勧請して祀ったもののようですが、ここはキビ神社と呼ばれ、古い燈籠の桿(さお)に吉備神社と彫ってあります。しかし、吉備というのは祭神を考えると誤りであるとして、昭和七年十月十五日付で、気比神社と社名変更の許可を得、現在の社名となっています。

 昭和六十二年鎮座地移転遷座(せんざ)

 現在の本殿は総欅(けやき)造りで、先の棟札の通り屋根こそ造り替えられていますが、享保十四年(一七二九)造営当時のものです。
 ただ、鎮座地は昭和六十二年区画整理事業のため移転、旧鎮座地より約二百メートル山手の高台を聖地として、延長百三十メートルの新しい石玉垣に囲まれた神域を造成し、遷座の儀が行われました。
 拝殿、幣殿はその時新築されましたが、御本殿は享保十四年造営のものをそのまま遷(うつ)してあります。


境内社に稚児(ちご)神社

 本殿の脇に、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀った稚児神社があります。子守りの神様ということで、子孫繁栄と愛児の健やかな成長を祈ってこれを奉祀した先人の心を継ぎ、子ども連れの参拝者がよく見られます。


元旦祭には甘酒の振舞い

 秋の例大祭には、四町内の子ども御輿(みこし)がそれぞれの区域を巡った後、神社に集合、そこで盛大な餅投げが行われます。
 元旦祭には、毎年厄除けの祈願も行われ、婦人会の皆さんによって熱い甘酒が振舞われます。こうして、神社が新しい街の人々の心を結ぶ大切な場となっております。

(瑞浪市の神社より)


気比神社参道の石橋(下小田)

 石橋の四隅は円柱経六九cm、橋の長さ一九三cm、橋の巾八枚石で二五〇cm、枠石巾十五cm、橋の枠石に 昭和七年 寄進 伊藤 勇 と刻銘されている。

 


気比神社

 祭神は伊奢沙別命 下小田 八剣神社同様後年転書の書札に「文保二年(一三一八)坂上氏創立、嘉慶三年(一三八九)三条中将の妻が再興、元亀二年(一五七一)再建す」と伝説を記している。現存の最古棟札としては享保十四年(一七ニ九)のものがあるのみにて真偽・詳細は一切不明。


下小田気比神社
 祭神 伊奢沙別命 旧村社 最古棟札 享保十四年(一七二九)再建 小田町下小田

「文保三年(一三一九)坂上房次勧請、嘉慶三年(一三八九) 三条中将政所再建、元亀ニ年再建」の天保十一年(一八四〇)の後年書あるも八剣神社の後年書と同一の筆跡の上、三条中将の年代も両社で相違していて信じ難く旧棟札の紛失は惜しまれる。
 享保十四年より村中氏子となり再建しこれ以降の棟札あり、またそれ以降祢宜職代々あり隆昌を知る。

(瑞浪市史 歴史編より)


昔の気比神社

 区画整理以前の気比(きび)神社は、うっ蒼とした木々に囲まれた荘厳な感じの神社でありましたが、現在は、わずかに4・5本の杉の古木を残すのみでそのなごりをとどめています。
(千寿の里西小田の駐車場の隣り)

 咲夜姫(さくやひめ)を祀る社と云われる気比神社。千寿の里西小田の上を都市計画道路が東西に走っていますが、このにぎわしい道路ぞいに現在気比神社は移されて居ります。


現在の気比神社

 咲夜姫尊を祀る気比神社は、中納言の大政所(おおまんどころ)、弥生の前が祈願されて建立されたと云い伝えられて居ります。
 「享保14年(1729)再建の棟札を最古とする」と記されていますが、この気比神社には「文保2年(1318)坂上資次(もとつぐ)造立」「嘉慶3 年(1389)三条中納言政所再建」などの棟札写がそれぞれあるそうですが、「後年における同一筆跡でもあり正しくは不詳」とのことです。現在、殆どの樹木のない明かるすぎるほどの気比神社、昔の荘厳さは全くみられません。


拝殿裏に残る石塔

 下小田、気比神社内、拝殿裏手にならんだ、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)等の古い石塔「慶應三年十二月」と、かすかに読みとる事が出来ます。


気比神社に残る道標

 下小田地内に昔からの大榎(おおえのき)があり、そのもとに自然石の道標があり、榎之木辻の道標として「右 みたけ、なごや、いせ」「左、ひだ、おろし」が建てられていましたが、その後「気比神社に移された」と書き残されてはいますが、今はどこにもその姿を見る事は出来ません。
 現在の気比神社入口に建てられて(大正十一年、瑞浪町青年会)「右、和合、土岐津」「 左、上肥田ニ至ル」と読み取れます。


 三条中納言の大政所、弥生の前の祈願によって気比神社が建立され、又、中納言の菩提寺として小松山道城寺が建立されました。

(生涯学習読本No6 ふるさと再発見より)

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