■ 寺院 石仏

陽光寺跡 岐阜県瑞浪市稲津町須之宮

陽光(向)寺跡

 桜ケ丘団地入口の墓地の一角にあった。寛永16 年(1639)から延宝3年(1675)頃に興徳寺の全源和尚が創建し、明治5年(1872)に廃寺になったと伝えられている。

釜糠地蔵堂

 釜糠集落の中心にある小高い丘の上にあり、堂には寛政4年(1792)の地蔵堂錦戸帳と文化7年(1810)の須之宮村の記録がある。これによると、地蔵堂は桜ケ丘団地入口にあった陽光(向)寺の支配下にあったようで、境内には陽光寺建立と同じ頃の寛文11年(1671)の名号碑、宝永2年(1705)の灯篭があり、その他、元禄3年(1690)の庚申塔、寛政3年(1791)の名号塔、寛政12年(1800)の合掌観音、文化5年(1808)の千手観音、文化10年(1813)の霊場供養塔、年号不明の宝生地蔵、手洗石等がある。地蔵尊への信仰が熱心であったことがうかがえる。

(小里川ダムのふるさとより)

稲津村青年団報 第四号所載 加納満治村議提供記事ヨリ抜粋

一、陽光寺=寺址ハ須宮墓地付近及其付近宝暦年間興徳寺末寺観瑞和尚創建 明治廃寺

(萩原・水穴より)

妙心四流ほか諸書留抜粋 〇山田町上山田 渡辺遥三氏所蔵

高百七拾壱石大斗弐升壱合 公
須宮村
  興徳寺又末 陽光寺
 松原利左衛門・松原源助

(瑞浪市史 資料編より)

末寺帳次第

 寛永九年・寛文ニ年・元禄五年と引き続いて全国の寺院に対して「末寺帳」が作られ、元禄年中にはどの村々の寺もいずれかの法系に明記されることになったが、前記のように、そのころまでの村の寺々は「無本寺」といって、すべてがいずれも確たる法系下にあったわけではなかったから、多くの地方ではこの時に領主の意向も加味されてその地方での寺の序列が決められることがあった。
 このことは、同一支配者の領内にいくつかの寺がある場合に多くみられ、市内では日吉・釜戸・稲津地区などについて知ることができる。
 釜戸では天猷寺と光春院・宝珠庵・極楽寺(中切)、日吉町では開元院と増福寺(南垣外)・慈照寺(宿洞)・福寿寺(半原)、稲津では興徳寺と禅躰寺(市原)・永泉寺(小里)・陽光寺(須之宮)との本末次第である。
 稲津地区では興徳寺が慶長六年に小里氏の菩提寺として建てられ、同十四年城山の崩壊によって流失、同十六年旧大蔵寺跡に再建された。元和九年(一六ニ三)小里氏の絶家から大檀那を失って荒廃し、寛永十六年(一六三九)臨済宗妙心寺派竜泉門派の全源宗耽が修覆し、大徹法源を勧請開山として中興している。
 陽光寺・永泉寺とも現在廃寺で不詳であるが、禅躰寺は当初天台系と伝えられ、近世では興徳寺同様大徹法源を勧請開山、義山祖拭を中興とし、その時期を正徳三年(一七一三)としている。



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