南垣外の田の神は、字石神に岩神と名つくる大盤石あり、その上に祀ってある。新撰美濃誌によれば「境外の南の田の中に、頼政石と名つけし大石あり。」
濃陽志略に「謹按頼政領二神箆一不二経見一或云土岐兵庫頭頼明領二美濃一頼政嘗任二兵庫頭一且其名共有二頼字一故後世以頼明為二頼政一然可児郡有二左馬允奉政城跡一奉政乃頼政之弟則頼政於二濃州一不無所由一姑侯後君子」としるせり。
頼政石とは伝説になっているようだが水田の真只中の大岩の上の田の神はみごとである。
頼政伝説「平家物語」
源頼政(1104-1180)は、平安後期の武将で源三位(げんさんみ)頼政、源三位入道とも称され、源氏のなかでも特に文武に秀でた有名人です。
仁平3年(1153)、京の都では御所の空に黒い雲がたちこめて、帝(みかど)が高い熱にうなされていました。雲の中に魔物がいて帝を苦しめているというのです。頼政が神仏の御告げを受けて、33の斑の尾を持つキジを探し、その尾羽根を使った矢で魔物を射れば、退治できるという事でした。
日吉町の大岩「頼政岩」に登って、キジを探していたといわれています。近くの「酒波神社」には末社に「頼政神社」があり頼政とかかわりがあるとも言われています。
頼政は論栃の東山(「屏風山」)でこの山鳥をみつけ、8本の矢でまずこの山鳥を射とめました。8本の矢を射ったということで、その地が「八本ヶ射」と呼ばれるようになりました。
そのキジの亡骸を埋めた所に地元の人が社を祀りました。「錦鶏八幡神社」がその場所だということです。
キジを追い出した犬は、キジの毒に当たって死に、釜戸町芝原(町家)に埋められました。今は「天猷寺」に移され犬塚として残っています。
頼政はその矢を持って都へ帰り、御所の屋根に上って黒い雲に向かい、力強く弓を引きました。矢は見事に雲の中の魔物に当たり、御所の前庭に転げ落ちてきたのです。見ると、その魔物は頭が猿、体は狸、足は虎、尾は蛇という怪物で、ヌエ(鵺)という名がつけられました。
駆けつけた郎党の猪早太(いのはやた)が太刀で仕留め、その後頼政は仕留めたヌエの体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流しました。
魔物が退治されると、帝の病はたちまちよくなりました。
現存する平安期の日本刀に「獅子王(ししおう)」の号が付けられた太刀があり、このヌエ退治の功により、朝廷より頼政に下賜されたものであるとの伝承があります。
日吉町酒波神社縁起に「昔従三位源頼政美濃神箆村を領せし時之を創建」とあるほか、同社の境内に末社頼政神社があり「永禄二年(1559)再建」 の棟札ほかが現存し「頼政石」と呼ばれる岩が同地区内に残っている。
源頼政(1104-1180)は、平安後期の武将で源三位頼政、源三位入道とも称され、源氏のなかでも特に文武に秀でた有名人である。禁裏を悩ませていた怪獣、ヌエ(鵺)の退治伝説でも名高い。彼は、神仏の御告げを受けて土岐城(鶴ケ城)近くに自生している双生竹で作った矢を用いて、見事にヌエを射落とした。以後、そのあたりを神箆(こうの)村と呼ぶようになった、と伝えられている。「箆」とは、矢竹の古名で、「神箆」は神の矢竹、神威ある矢竹ということである。
瑞浪市内には、この話以外にも酒波神社をはじめ日吉、釜戸、稲津などに、いくつかの頼政伝説が残されているが、頼政が神箆に在館またはこの土岐群を領していたという確かな記録はない。
(『酒波神社誌』より)
「頼政と頼明」について
頼明は兵部(宮内)卿律師、兵庫頭といい、一方の伝説の頼政も兵庫頭(守)である。頼明は前記のように影の薄い人物であり、頼政は有名人である。
こうしたことから瑞浪市における「頼明」は多く「伝説の頼政」になったのではなかろうか。 この推理は私においてのみでなく濃陽志略にも「頼政神箆を領するのこと経見せず。或いは云う土岐兵庫頭頼明美濃州を領すると。頼明も嘗て兵庫頭に任ぜられる。 旦つ其の名は共に「頼」の字を有す。 故に後世頼明を以って頼政と為すか(詞宮伝)」と載せている。
これらのとおり伝説の 「頼政」がつまり「三代守護頼明の伝説」とすると「頼明」と「瑞浪市」との関係は濃くなり、中世における瑞浪市東部の支配者の一人として彼の墓の市内存在も当然可能な地域であり得ると考えられる。
頼政岩の明確ないわれは不明ですが、源頼政(頼明かも)の酒波神社創建説や末社頼政神社が存在することで、何か関りがあったことと思われます。