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土岐頼貞の墓 瑞浪市土岐町市原

 土岐氏は美濃に土着した清和源氏の子孫で、頼貞の5代前の光信の頃から土岐氏を称するようになりました。
 頼貞は土岐氏中興の祖と呼ばれ、以後11代続く美濃国守護としての基礎を築き、また、文武に秀でた武将としてその名を知られています。
 土岐氏惣領を継いだ頼貞は、その子頼清や頼遠らとともに元弘の変(1333年)に後醍醐天皇の令旨に応じて、足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒に功を挙げました。
 その後、建武新政に不満を抱いた尊氏が挙兵すると、それに従い、「土岐絶えば是(足利)絶ゆべし」とか「諸家の頭、筆頭の将」と称されるほどの信任を得たといわれています。
 瑞浪市土岐町一日市場、土岐市泉町大富にその居館を構え、晩年は守護職を賴遠に譲り、暦応2年(1339年)、69歳で卒しています。
 頼貞の墓は、土岐氏の菩提寺であった光善寺跡にあり、道路によって東西に分かれた東方の墓所には五輪塔10基、西方の墓所には五輪塔5基、宝筐印塔4基が建っています。頼貞の在銘のある宝筐印塔は、西方の墓所の五輪塔に隣接して建っており、その他の石塔群は、頼貞以前の累代や一族のものと伝えられています。
(岐阜県史跡指定 昭和31年3月28日)


土岐頼貞の墓

 南北朝時代に美濃国守護となった土岐頼貞とその一族の墓です。
 この辺りは江戸時代には中島村と呼ばれ興禅寺(光善寺)跡とも言われています。
 墓所は明治21年の道路改修工事によって東西に分断されました。
 東側には五輪塔10基、西側には五輪塔5基と宝薩印塔4基があります。
 高さ1mの宝篋印塔の頼貞の墓には『前伯州大守定林寺殿雲石孝公 暦応二年己卯二月廿二日亥刻逝去』(1339)の文字が刻まれています。在銘のものは頼貞のこの一基のみであり、ほかのものは頼貞以前の累代の墓だといわれていますが不明です。
 この墓所は、どれも立派で当時の土岐氏の勢力を偲ばせ、これだけの墓塔がーカ所に建てられているのは県内でも珍しく、県指定文化財となっています。

土岐氏中興の祖

 頼貞は文永7年(1270)北条八代執権(しっけん)、貞時の娘を母とし、光定の七男として浅野館(土岐市)に生まれました。
 承久の乱により土岐氏の浅野にて隠れ住んでいましたが、力を得て代々の旧領瑞浪市方面をも勢力を広げていきました。
 頼貞は12才で父を失いますが土岐家を相続すると一日市場館に移り、曽祖父光衡(みつひら)にならって、鶴ヶ城を本城とし、小里・萩原・猿子・市原・深沢・浅野などの一族によって周囲をおさえ、子では頼遠(よりとう)を大富、頼基(よりもと)を戸狩、頼兼を神箆(こうの)、頼明を釜戸に配置して、治政をしきました。
 建武の新政の元弘3年(1333)に、美濃国守護に任命されました。建武の新政の失敗後も、足利幕府から度重なる土岐一族の戦功に対して「土岐絶えば足利絶ゆべし」「御一家の次、諸家の頭たるべき」といわれて依然美濃守護として続いていました。
 従五位下 伯耆神(ほうきのかみ)となり、暦応二年(1339)二月69才の一生を終えました。
 墓は土岐町市原光善寺に葬られました。

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