法明寺(桜堂薬師)系下の天台系寺院として草創し継承すると伝えられています。
正徳3年(1713)興徳寺 一玄法弟義山祖拭禅師によって中興され、安政2年(1855)十一世恭邦和尚によって本堂が再建されました。
土岐頼貞定林寺殿の位碑などを伝え、土岐氏累代の墓のある光善寺(廃寺)から土岐頼貞公の位碑が移されていて土岐氏に関係の深い寺と考えられます。
御本尊:釈迦如来
聖観世音菩薩
宗 派:臨済宗妙心寺派
御詠歌
ふるさとの れきしをひめて
禅体寺
ひそかに聞こゆ み仏のこえ
三十三所観音石像
(天明六・1786・主尊とも三十三体・完全)
信州高遠の名工 守屋貞治作と伝えられるものです。
西国三十三所観音供養文字碑
(寛政四・1792・文字碑・西国三十三所供養)
庚申(青面金剛)塔(関東様式)
(元禄二・1689・像文字混合碑・三猿)
「庚申供養塔 元禄二己巳五月」の文字碑の下部に三猿が浮彫りされた文字・像混合碑で、貴重な造立例です。
庚申講
神仏信仰はグループ組織のものが多い。その組織を「講」と云う。そのーつに「庚申講」がある。
その起源は道教の説に基づくもので「庚申の日、眠っている人間の体から三尸(さんし)の虫が抜け出して天に上り天帝に、その人間の罪業を告げると、その人間は命を奪われる」と云われ、庚申(かのえさる)の夜は善根を尽さなければならない。と伝えられ、江戸時代に盛んになって、庚申待、庚申講が村々で行われました。
供養塔を建てる習わしは室町末期に起った。
碑の下部に三猿が刻まれているのは、庚申の申が「猿」の信仰と結び付いたからである。
庚申信仰では、庚申の夜、男女の同食を禁じた。それはその日に出来た子どもは盗人になると伝えられるからである。
よって夜通し起きている行事が出来たとか。又一説には庚申の神は祟りやすい神であるから、その祭日は戒慎して夜も寝ないで過ごすと云う風習が広まったとも云われる。
眠らず一夜を語り明かす行事がいつしか農民のレクリエーションの様になってきたが、庚申を信仰する事は庚申が「百姓の神」であり「健康の神」「金運の神」と信じられていたからです。
子安観音
その昔、帝釈寺(市原南山俗に帝釈寺洞と呼ぶ地に在った天台宗の寺で、元禄、享保の頃に廃寺された)に建立されていたものです。台石には正徳三年(1713)一日市場山には子安観音堂があって今も信仰する人が多い。
弥勤菩薩石像
(正徳三・1713・丸・坐・宝塔印・定光山帝釈寺)
土岐町禅躰寺の弥勤像はやや大型で、両手の掌に捧げられた宝塔も明確で、端正な像容のものです。
この像は廃寺となった地区内の帝釈寺のものを移したもので、台石裏面に「正徳三癸巳年四月 定光山帝釈寺」とあるもので、正徳三年は禅躰寺の再創年でもあります。
夜念仏供養塔・無量寿如来碑
(宝暦四・1754・文字碑・夜念仏供養塔・西方無量寿如来)
市原禅躰寺のものは文字碑で「西方無量寿如来 夜念仏供養塔 宝暦四戌十月連中十三人」とあるもので、無量寿如来とは無量光如来ともいって阿弥陀如来の本名で、西方とは阿弥陀仏は塔四方仏・金剛五仏・胎蔵五仏のいづれでも西方に彫られることになっているからです。
西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑
如意輪観音石像
(元禄二・1689・光・坐・二臂・思惟・蓮華座)
馬頭観音石碑
大銀杏(2024年伐採)
樹齢約300年といわれ、おとな3人でやっと抱えられるほどもある銀杏の木でした。地上6mのあたりから大枝小枝が天に向かって無数に広がるその堂々たる姿はみごとでした。毎年秋になると、鮮やかな黄葉が背後の森にくっきりと浮かび上がり、遠くからも禅躰寺の在りかを知ることができました。また、ギンナンが鈴なりに実り、境内一面に落ちた実は、最盛期の頃には2俵(120kg) もとれたそうです。
御尺神
禅躰寺の隣の白山神社の木立ちの中に、稲荷神社、金比羅神社、山神神社、秋葉神社といくつかの石祠に並んで、御尺神社と刻まれたものがあります。
天正年間太閤(たいこう)検地が行われた際に測量に用いた縄、杭などを埋めた所に石祠を建ててそれを祀ったと伝えられるもので、市内でも珍しいものです。