■ 下街道

土岐頼兼の墓 自仞洞 岐阜県 瑞浪市 土岐町

 土岐頼兼は、頼貞の十男です。兄が家督を継いで長森城に移ったのち鶴ヶ城主となりました。

 蒙古(もうこ)来襲の文永・弘安の役以後幕府の力が弱体化したことから、再び朝廷では討幕の企をし、正中元年(1324)後醍醐天皇から倒幕の密使を受けた土岐家は、頼兼以下一族を京都に送りました。

 土岐頼貞は幕府への義理を考え、事破れれば土岐氏滅亡につながることから慎重に考えた末、十男の頼兼を将とし副将多治見国長・一族尾里国定・萩原国実・市原国宗・深沢定氏・猿子国行・舟木頼春らとその郎党の二百名はどの軍兵を朝廷側へ参加させました。

 正中の変は、参加した一族の舟木氏の不注意により、六波羅探題(ろくはらたんだい)の知る所となり、決行の前日に急襲され、土岐頼兼を始め支族は全滅しました。

 家臣の根竹十郎は三条河原にさらされていた頼兼公の首級を奪い、この地に埋葬、自刃したと伝えられています。

 頼兼の墓は鶴ヶ城の東700mのところに位置し、自仞洞(じじんぼら)と呼ばれる山中に宝篋印塔2基と五輪塔4基が残っています。





 土岐頼兼は、頼貞の十男です。兄が家督を継いで長森城に移ったのち鶴ヶ城主となりましたが、正中元年(1324)『正中の変』にて戦死しました。頼兼の墓は鶴ヶ城の東700mのところに位置し、自仞洞(じじんぼら)と呼ばれる山中に宝篋印塔2基と五輪塔4基が残っています。

(土岐地区 郷土再発見より)


土岐頼兼の墓所

 正中元年(1324)後醍醐天皇から倒幕の密使を受けた土岐家は、頼兼(頼貞の十男)以下一族を京都に送った。
 一行は挙兵前の9月19日こ幕府方に急襲され全員戦死した。家臣の根竹十郎は三条河原にさらされていた頼兼公の首を奪い、この地に埋葬、自刃したと伝えられている。
(市指定文化財)

(瑞浪市下街道マップより)


五輪塔

鶴城自仞洞 (四基分・土岐頼兼の墓石と伝えられる)

宝篋印塔

鶴城自仞洞 (二基・土岐頼兼墓所、正中変の頼兼墓・市指定 中型)
 鶴城自仞洞の、四基の五輪塔と並らんでいる二基は正中変に戦死した頼兼の墓

 市営住宅北方の自仞洞の木立の中に苔むして並んでいる五輪塔・宝篋印塔が正中変(一三ニ四)に父頼貞の名代として京都で戦死した土岐頼兼の墓で「自仞塚」と呼ばれているものです。「増鏡」ほかの日本史にも登場する歴史上の郷土先人の墓だけに、もう少し整備して供養したいものですね。

 


 蒙古(もうこ)来襲の文永・弘安の役以後幕府の力が弱体化したことから、再び朝廷では討幕の企をし、土岐家へも追討の令をもたらした。
 土岐頼貞は幕府への義理を考え、事破れれば土岐氏滅亡につながることから慎重に考えた末、十男の頼兼を将とし支族の尾里(おり)・猿子(ましこ)・深沢(ふかさわ)・多治見の各氏を朝廷側へ参加させたが、志を得ずして全員戦死をした。頼貞は幕府側につき以後自重をして幕府の疑惑の念を持たせず領土経営に専念した。

土岐頼兼の墓

 鎌倉幕府の終末、民心も北条氏のもとを離れて新しい為政(いせい)者を求めていた。後醍醐天皇は、朝政一新、政治親裁を志され、腹臣の中納言日野資朝(ひのすけとも)・蔵人頭(くらうどのかみ)俊基・大納言藤原師賢らに謀られ、諸国の武士に討幕挙兵の令旨を発せられた。
 土岐氏は、高田勅旨田(てしでん)の地頭と共に、幕府の家人を兼ねている関係上 頼貞は、深謀の末十男 土岐頼兼を将とし、副将に多治見国長を決め、土岐支族(猿子氏、深沢氏ら)をつけ、頼貞の名代としてこの企てに参加させた。
 正中の変は、参加した一族の舟木氏の不注意により、六波羅探題(ろくはらたんだい)の知る所となり、逆に鎮圧され、土岐頼兼を始め支族は全滅した。
 頼兼の首は三条河原に梟木(きょうぼく)を設けて晒されの恥(はずかし)めを受けていたが、家臣の根竹十郎がひそかに首級を奪い南禅寺、日吉開元院にて会向(えこう)参らせ鶴ヶ城本城に安置し、厚く弔い、その後天神洞にて、首級を葬り、遥かに居邸根竹(桜堂)を振り返えり家人に心の別れを告げ、見事腹かっ切り主君に殉じた。今、この地を、自仞洞(じじんぼら)と呼び、二基の宝篋印塔は、主従のもので、数基の五輪塔は供養のため後世に立てられたと伝えられている。

鶴城 土岐頼兼の墓 宝簾印塔 正中元年 79x15cm 巾は塔身巾

(瑞浪の石造物より)


正中の変と頼兼

 文保二年(一三一八)に即位された後醍醐天皇は、以来北条幕府を倒して皇政政治を復活したいと念顧され、腹心の公卿日野資朝・同俊基らにそのことを謀られます。
 元享三年、両人によってその謀が土岐頼貞によせられます。幕府の勢力は衰えていた時でしたが、頼貞の母も妻も北条氏から来ている上、まだまだ北条氏の力は全国に及んでいましたから、彼にしてみればたいへんな決心でした。
 頼貞の伯父たちや一族、そして子たちも美濃国の各地に勢力を得ていましたが、幕府に洩れることを避け、手元土岐郷(鶴ヶ城)においていた十男の頼兼を大将にして、これに応じさせたといわれています。
 古書によると副将多治見国長・一族尾里国定・萩原国実・市原国宗・深沢定氏・猿子国行・舟木頼春らとその郎党の二百名はどの軍兵だったようです。
 朝廷の公卿方や、今一人この謀に応じていた三河国の足助重範らと謀議して、六波羅探題の急襲、占拠を九月二十三日と決めますか、このことか幕府方へ洩れ、九月十八日の夜、幕命を受けた数千人の武士に宿舎を包囲され、一行は目的を果たさずに戦死します。これを正中の変といい、公卿では資朝・俊基らも捕えられて鎌倉に送られ、京都の市民や全国の人々を驚かせたこの企てもこうして失敗に終わります。
 後醍醐天皇の親政の企てはこの後も続き、この正中の変が動機となって元弘の変がおぎ、そして元弘三年には父頼貞や足利・楠木•新田氏らの挙兵に発展して建武の中興になります。
 頼兼と国長には明治三十八年正四位の贈位がされ鶴ヶ城跡には土岐神社か建てられました。また土岐町鶴城の自仞塚が頼兼の墓だと伝えられています。戦死した一族と郎党は、主として瑞浪市の人々ですから、父や兄弟をなくしたそのころの祖先たちの間では、たいへんな事件であったことと考えられます。
 頼兼の城は鶴ヶ城で、一族の尾里・萩原・市原・深沢・猿子の各氏はそれぞれの地名の所にいたようで、城跡(砦)が今も市内に残っています。

土岐鶴ヶ城

 国府の城・神箆城とも呼ばれ、築城は土岐氏を称した光信の時とも、その父国房の時ともいわれていますが、明白ではありません。頼貞と正中の変に戦死した頼兼の居城と伝えられ、元亀・天正年間の織田対武田氏の攻防戦にも重要な役割りを果たしています。(土岐町鶴城、市・県指定史跡)

一二九四 永仁二年 土岐頼兼生まれる
一三二四 正中元年 正中の変 土岐頼兼・多治見国長ら戦死す
一九〇五 土岐頼兼公正四位贈位奉告祭


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