関屋庚申堂
庚申堂には三猿の絵図がかけられています。「見ザル」「聞カザル」「言ワザル」でちょうど「爪」の文字に見えます。猿をマシラともいうことから、マシラツメがマシヅメとなり村の名前の猿爪となったと言われる地名由来の庚申堂です。
(陶町の歴史散策マップより)
庚申堂
猿爪本町にある庚申堂は、石段を登ること数十段、その上に桜と椿の古木にかこまれて、ひっそり歴史の香りを漂わしている九尺二間の古堂がそれで、これが珍名「猿爪」の地名の由来地であると言われている。
本尊は青面金剛童子で、ここにある三猿図は謂ゆる「見ザル」「聞ザル」「言ワザル」で丁度その姿が「爪」の字に見える。猿「サル」「去る」と語音が同じで縁起が悪いといわれ、マシラと読むところから、マシラツメ…猿爪(ましづめ) と言われるようになった。と言われている。
土地の永井家の方々が、昔から氏神として尊崇し、青面金剛童子の合籠の中には、永井家の系図が保存されていると云う。
(陶資料より)
猿爪関屋の庚申堂前では、西国巡礼供養塔に「宝暦5年(1755 年)西国巡礼講中」の刻印があります。同場所には他にも文政3 年(1820年)と嘉永5年(1752年)の二つの西国巡礼供養塔があり、いずれにも講連中として永井、伊藤、中村など永井以外の複数の方の氏名が刻印されています。特に文政3年の巡礼供養塔には実に24名もの氏名の刻印があります。この人数は、この時代の猿爪の推定戸数79戸(1戸には1人のみ講参加として)の3割にあたります。これは永井一族の庚申講が、やがて近所の人や、巡礼同調者を含めた西国巡礼講に発展的解消したことを物語っているのではないでしょうか。
または、庚申講は引き続き行われていたが、庚申堂という場所をお借りして西国巡礼講が開催されていたということかもしれません。それにしても相当な参加率です。今の本町辺りの人々は参加しないと村八分にされそうな空気だったかもしれません。
(陶町歴史ロマンより)
関屋庚申堂の石仏石碑
陶町猿爪関屋庚申堂の延享のものは、観音石像に「奉供養三十三所順礼講中」中村・小木曽氏らの名があり、宝暦五年の聖号塔に「奉供養西国順礼講中 同行十人」とあるもののほか、文政三年・嘉永五年のものと順礼記念塔と明白に判るものが四例もここに建立されていています。
関屋庚申堂の聖号塔
陶町猿爪関屋庚申堂(宝暦五・1755・角 塔・九字聖号・奉供養西国順礼講中)
関屋庚申堂の西国霊場順拝碑
陶町猿爪関屋庚申堂(延享三・1764・観音像・奉供養三十三所順礼講中)
関屋庚申堂の西国霊場順礼
猿爪関屋庚申堂(宝暦五・1755・聖号塔・奉供養西国巡礼講中十人)
陶町猿爪関屋庚申堂(文政三・1820・角柱塔・西国順礼供養塔・講十八人)
関屋の庚申堂は 「ここの庚申様の三猿が爪の字に見える」 ということで「猿爪」の村名が生まれたと里伝にいわれますが、猿爪の村名は桃山時代にすでに見られますから、それはどうでしょうか。
(ふるさとの石碑と灯篭より)
猿爪庚申堂
水鉢1、「南無観世音」碑1、石祠2、「西国巡礼供蓑塔」2、不明1
(資料より)