■ 古墳

丁奈平遺跡 馬頭観音 いぬの墓 瑞浪市陶町


丁奈平遺跡

 昭和35年、猿爪地区の丁奈平において、時の中学生によって縄文時代の遺物(石鏃、土器片)が発見されました。
 時代は、縄文時代中期から後期にかけて、3000~4000年前ぐらいのものとみられます。
 遺跡から100mぐらい離れたところに、奉りの対象となっていたかもしれない花崗岩の大岩があります。
 詳しい調査が待たれます。

(1)人の足跡…縄文時代
 昭和35年、猿爪地区の丁奈平において、時の中学生によって縄文時代の遺物(石鏃、土器片)が発見された。その当時の学校の先生によると、「今から3000~4000年前の頃の物だ。」ということなので、その頃には、すでに人は住んでいたということになります。
 以下にその時の中学生が、発見当時を思い出して書いた文章を現文のまま記載します。
★梨ヶ根の丁奈平の縄文遺跡
 瑞浪市の縄文遺跡として文化財などとして調査されたのか、文化財登録されているのかは判らない。
 場所は岐阜県瑞浪市陶町梨ヶ根の丁奈平。時代は縄文時代中期から後期にかけてのもの。大体今から3000年から4000年くらい前のものとみられる。当時中学の体育教諭であった乾教諭が見て、縄文中期から後期のものだと言った。
 瑞浪市教委の後藤が調査に訪れ、案内した事もある。
 以後、本格的な調査が行われたかどうかは判らない。後藤は畑の中にある炭片を見て「炭があればそれで時代を測定できる」と言っていたが、それに対して俺は「昔のものもあるかも知れない。だがここは畑なので、火を焚いたりしてるんではないか」と言った。
 当時、カネ太のおじさんが中日新聞の通信員をしていて、撮った写真を新聞に載せたこともある。中学に下記の石斧と幾つかの石鏃、土器片と共に保管されていた。
 新聞の写真には俺と一馬が写っている。ただ記事には一馬が見つけたことしか載っていないし、写真も遺物を探している写真で、顔は写っていない。
 その後、中学が火災に遭い、これら遺物は消失した。
発見のいきさつ
 1961年頃のある日、小生が中学生の時、伊藤一馬が石鏃と土器片を学校に持ってきた。場所を聞いたが断片的な事しか言わない。ただ人によって言う事が違っているので沼田龍男との話を総合して大体の場所を突き止めた。
 現場は沢に囲まれた小さな尾根で桧林に囲まれた畑である。畑の回りには畑を開墾するときに出た石などを積み上げてあった。 畑の上で表面採取をすると土器片と共に石匙や石鏃の他、石器を作る時の石刃等が採取できた。特に沼田が握り勝手がいいと使っていた石は畑の縁に積んであった石の中からのもので、この石を見て、俺は「なにこれ、石斧じゃないの」と言った。これは長さ10㎝くらいの磨製石斧であった。石斧の形は各地で出土するものとほぼ形が同じである。その後、畑の縁に積んである廃石を全部見たが石斧やその他は見つからなかった。
 畑の周りの廃石の中には平たい花崗岩片がたくさんあり、幾分は焼けたものもあった。
 平たい花崗岩片は大きさが30㎝角くらいあり、厚さは5㎝くらいと整っていた。これはきっと住居に敷き詰めたもので敷石住居の存在を伺わせた。
 ある時、敷石住居ならと、鉄の棒を持って林の中を刺して歩いたがこれというのは見つからなかった。いま思うと、林の中では直径数mの大きさで窪地ができていたのでこれが住居趾かもしれない。機会があれば見てみたい感じもする。
 遺跡から近くの100m位離れたところにはただ一つ独立した直径10m以上の花崗岩の大塊がある。この花崗岩の大塊は遺跡の存在する場所と同様瀬戸層群の砂礫層よりなるので、自然にもどうしてここに存在するのかは判らない。市教委の後藤は「昔の
人にはこういう大きな岩も奉りの対象になる」と言っていた。あるいはこの岩の下などに何か遺物が埋められているのかも知れない。
 廃石中の板状の花崗岩は花崗岩塊のある沢を下った小里川(田代川)流域や遺跡のある沢を下った猿爪川の下流に存在するのでこの辺から運ばれてきたものと思う。ただ、小里川は小里川ダムによって水没し、小里川湖となっている。その他現在では小生の手元にこれらの遺物はない(石鏃以外の石ナイフなど数点があったが捨てられた)が、報告書というものではないが日記に幾らかの記事があるのかも知れない。また石斧や石匙の実物大スケッチがある(はず)。若しかすると伊藤一馬が石鏃くらいを持っているかも知れない。
 石器類は近くの瀬戸層群中の燧石で造ったものが多く、中には煙水晶、黒曜石で造ったものがあった。黒曜石は薄片はやや透明なので今思うと長野県和田峠産のものと思う。
 煙水晶は蛭川や苗木方面の花崗岩ペグマタイト中に産する。近くでは笹平に色の淡いものを産するが。
 私は陶中学校の職員室前でこの石鏃が展示されていたことを覚えていますが、平成24年に教頭先生に「あの石鏃はどうなったのでしょう?」と聞いたところ「引き継いでいない。あったことも知らない。」とのことでしたので、おそらく平成4年の学校焼失の際、なくなってしまったと思います。非常に残念ですが…。
 今、現地を訪れると石で囲んだ所があります。瑞浪市史によると、これが丁奈平遺跡のようです。中には、馬頭観音が祀ってありました。文中の花崗岩の大塊は、西側の林の中にあります。
 縄文時代は狩猟中心の時代ですので獲物を求めて移動するのですが、やみくもに移動するのではなく、道しるべとして川沿いに移動したと思います。生活用に水も必要です。そう考えると、小里川沿いに上ってきた縄文人が、その支流の猿爪川に沿って上ってきて、沢の尻あたりで生活した(川沿いで少しばかりの野原があり、ここを拠点に山へ狩りに入った)と考えられます。

(陶町歴史ロマンより)

豺馬の墓(豺 はやまいぬのこと)

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 昔猿爪村に伊藤源右衛門と云う人があって、或日子持ちの馬をつれて、丁奈平の山林に行き、馬をつないでおいて、自分はせっせと薪を切っていた。よく晴れた日で、日はサンサンと降りそそぎ風―つなかった。そのすきをねらい一匹の大豺が現われ、馬にとびかかり、これを噛み殺し、その肉を食い、去っていった。
 伊藤さんは、しばらくたってからこれを発見し、大いに驚き恐れ、里に帰って人々に告げた。これを聞いた水上村の腕自慢の猟人九名が相計って、早朝より現場に来て、繁みにかくれ、銃をかまえて待っていた。死馬の肉にありつこうと出て来た大豺を見事射止めた。
 小馬程の大きさであったとか…
 後の崇りを憚って、松の木の元に葬り、いぬの神といい、馬は馬頭観音として祀った。ここを豺馬の墓といい、陶町水上丁奈平の山和製陶所の北側に祭られてあり、時折花や線香が供えられている。
 土地の人は、略して「いぬの墓」と呼んでいる。

(陶資料より)


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