■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第31番】恵日山 慈照寺 瑞浪市日吉町

 化石がご神体になった例は日本各地に見られますが、こちらのお寺でも巻貝の化石がご神体になっていました。残念ながら1960年代の火災でご神体は消失してしまいましたが現在も寺宝として巻貝の化石が大切に保管されています。

 天津日神社が平安朝に「萬世(よろずよ)をとぎ澄み神の日之御霊 ここより永世の明り立つらん 美濃御坂越記」と詠まれた日之宮で、慈照寺がその「日のおさがり」を探し当てた平将門の子が建立した一寺だと伝えられている寺です。

 天慶2年(939)関東で反乱を起し敗れた平将門の子(弟とも)の定丸は、信濃の国の山奥に隠れ住んでいましたが、平一族の菩提を弔うために修行をつんで慈照禅師と名のりました。この地に来て榎木のもとで37日間読経を続けたといいます。日の出前に、丑寅の方角にある大杉の元が輝いていました。そこで日の玉の糞(ビカリアの化石)なるものを発見し、禅師はその日の玉を安置し日の宮を造立しました。そして奥之院として榎木山慈照寺を築いたと伝わります。
 元禄の本未制度により、開元院十二世嶺外秀存大和尚を御開山に迎え、後に榎木山から恵日山に改号されました。
 その後原因不明の火災に合い全焼してしまいますが、再興され山門も再建され、梵鐘も鋳造され鐘楼堂も建立されました。
 天津日(あまつひ)神社は、古くから日の宮と呼ばれて崇められ、御神体は日の玉とか日のおさがりといわれる大きなビカリアの化石でしたが、昭和三十九年にそれを保管していた慈照寺の火災で燃失してしまいました。
 本尊は十一面観世音菩薩で、高山の廃寺となった寺から迎えたものです。

 慈照寺も元禄元年(1688)に同様嶺外秀存を再々中興としています。元禄の本末制度によって諸役御免・小使役不割当を条件にそれまで他門派であった開元院の末寺となることを承知したもので、本末制度の実態をここに知ることができます。

御詠歌

日の光 大慈悲照らす みめぐみに
 輝きわたる 御仏の里

宗派/曹洞宗(御本尊二十一面観世音菩薩)
所在地/瑞浪市日吉町6003
TEL0572-69-2700




百万遍念仏碑

日吉町社別当慈照寺(慶応三十八・一九〇五・念仏百万遍)

 社別当慈照寺のものは「明治三十八年」とだけある百万遍念仏碑ですが、ここでも大勤行が行われたことが判るものです。


廻国塔(日本六十六部)

日吉町社別当慈照寺(天明(1781-1789)のころか・奉納大乗妙典六十六部 日本廻国)

 社別当慈照寺のものは光背型の十一面観音石像で、光背部に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」とあるもので、廻国者名はありませんが場所柄から慈照寺の和尚さんの一人ではないでしょうか。


善光寺如来三尊碑

日吉町社別当慈照寺(明治十五・一八八二・善光寺阿弥陀如来文字碑)


日吉宿慈照寺日の玉縁起
 日吉町宿 鈴木秋声氏所蔵

 日の玉縁起

 三野国津田の庄青葉の里、日吉日天宮の来由を委しく尋ぬるに、天地開闢の昔より地気中央に集り、東国より西国迄晴ぎる叓年久く、然るに人皇七代孝霊天皇五年に当って、三野国中央石の際より靄気東西へ晴渡りて□□□ぬ、其時近州の水海・駿州の富士一時に見えそめけるとぞ、其時分此所の山々の麓、みな海にして美形の魚類・貝類多く日神・月神の食物なりと言伝う、年移り時去って陸地となり、諸木生じて若葉を栄へける深山幽谷の合間なりといえども、月吉日吉里をならべて陰陽和合の正中なれば、草木五穀豊熟にして、昔より一年も天災を請る事なし、爰に桓武天皇五代鎮守府将軍良将の嫡子相馬の小次郎将門別腹の弟に定丸といえる人有り、天慶弐年の冬の頃将門謀叛事顕れて、同三年の春将門始め家門郎党ことごとく討死におよびけるが、定丸一人幼少なれバ家人にいぎなわれ、信濃の国の山奥に隠れたまいけるが、共に冥途の道連と覚悟を極め被成しが、心中に深く慮りて今爰にて消果なバ、 一門郎等の菩提誰有って弔むやと無念の涙にくれながら、ある道場に入って御弟子と成り、法体して諸国行脚を志し給い、日夜の修業おこたらずして、愚怠なる者には法を説き、うへたる者には米銭をあたへ給う故、世の人其慈しみを感じ慈照禅師とぞ号したる、禅師常々思たるハ我日の本の日の本を尋ねんと、此里の榎の宿に来りたまい、里人に問わせけるが年暦久しき事にして、あえて知る人無けれバ、三七日が間、毎朝榎の木の本に出給い、読経し陽光を拝し給うに、ある日未だ日の出前なるに、丑寅の方に当って大杉の尾迄に日光輝く処有り、尋寄て是を見るにーつの名玉を得たり、其形十弐曲りにして霊形の貝石なり、西ニ当って陰光残りとゞ まる谷あり、同じく同様の名玉也、初の名を日の玉と号す、貝類ハ神代の食物なれバ、日の御下りとも、日の糞とも唱えて、慈照禅師一寺を築きて、日の玉を安置して一社を造立して日の宮を祭り、勅免有って榎の木山慈照寺と号しける、然るにしてより此かた霊験日々にあらたかにして、折ふし不思議の奇瑞度々なるにより、近国近辺ハ不申及、往来の貴賎歩みを運ぶ事とハなりき、中央大極の地なれバ陰陽順くわんの地にして四方五、六里の内ハ、たとへ干損水損の年たりといへども多分の甲乙なく成じようせずという事なし、是れ此神の奇瑞なり、依て陰不足陽不足の国所ハ深く信心の人々ハ寄得ありなりき、殊ニ蚕がいの違ふ事なく、親子不仲、夫婦不和合すべて陰陽つり合悪しき所より発する事、此宮寺に願をむすびて感応あらずといふ事なし、志有る人々ハいのりて諸願を懸け給へ、成就うたがい有るべからずと言
 宝永七年庚虎春三月板行 榎木山慈照寺現住
 嘉永二年乙酉秋九月再板 同 山同 寺現住
  一 寺院関係


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