■ 三十三霊場

雲松山 大應寺【美濃瑞浪三十三霊場 第三十番】瑞浪市明世町月吉

 山門をくぐり、美しい波目の白砂を見ながら石敷きの山道を進むと、木々を背にした本堂が参拝者を迎えます。境内横には川が流れる、山間の静かなお寺です。本尊仏は聖観世音菩薩で、宗派は臨済宗妙心寺派です。

 古くは月の宮の神宮寺として創建されたと伝えられます。また慶長年間に再建されたと云われますが詳細は不明です。大応寺創建由緒に「慶安四辛卯年正月五日、月吉に大応寺と申す寺号を聞き候」とあります。

 慶安4年(1651)瑞林寺六世 伝宗和尚の法系で山の上村普門寺の弟子亀嶽和尚が招かれ、森下の成瀬家(成瀬七良左衛門)の書院に小庵を営み、山内庄右衛門(成瀬氏の妻の弟)の力をかりて明暦3年(1657)3月18日現在地に再建再創し以来続いています。

 文化5年(1808)に焼失、のち仙嶽和尚によって中興され、教嵒和尚の代に再中興、教宗和尚代に三中興と、法燈を高める努力が重ねられている。


宗派/臨済宗妙心寺派(御本尊:聖観世音菩薩)
所在地/瑞浪市明世町月吉912
TEL0572-68-3641



納経塔

 月吉大応寺の慶応3年建立の西行歌碑は、日吉下本郷のものと同じ「夜昼の さかいはここに…」の日吉・月吉を詠んだ歌で、納経所と大書された自然石碑の下部に刻まれており、造立者は地元の山内儀助です。

(濃州徇行記・美濃御坂越記・月吉大応寺 日吉本郷歌碑)
 よる昼の さかいはここに 有明けの 月吉日吉 里をならべて
   西行法師 (平安末期1117~1190)


月之塔

明世町大応寺境内(寛政10・1798・月待塔・塔身は火袋・露盤部に三仏・月天子宝殿・勢至菩薩)

 明世月吉大応寺の月之塔(宝塔)に至っては、その美しさと大きさの点で最も特記されます。寛政11年(1799)二十三夜月待の主尊の勢至菩薩の宝塔として信州高遠石匠の中谷氏の手によって造立されたものです。


刻経塔

明世町大応寺境内(元文2・1737・刻経塔・四面種子と四面陀羅尼文)

大応寺の刻経塔は全高2.6m、塔身四面には種子、台座部の四面には陀羅尼文がそれぞれ刻まれ、基礎部に「奉建立為菩薩(両親の戒名)元文二丁巳九月 願主山内氏」とある先祖の菩提供養のためのもので、典型的な塔型の刻経塔です。



雲松山 大應寺 岐阜県 瑞浪市 明世町月吉

御本尊:聖観世音菩薩
   :薬師如来
宗派:臨済宗妙心寺派
所在地:瑞浪市明世町月吉912番地
電話(0572)68一3641

御詠歌

 ありあけの 白梅かおる
  観音堂
   きょうのしあわせ 守らせたまえ

 この寺の古名は、神宮寺と伝えられているが、創建後に大應寺と改名された。
 開基は成瀬七良左衛門と山内庄右衛門(成瀬氏の妻の弟)が、力を合わせて行ったものである。
 瑞林寺第八世伝宗和尚の法系、山の上村普門寺の弟子亀嶽和尚が招かれて、成瀬氏の書院に仮住いし、その後約6年を経て、明暦3年(1657)現在地に創建したものである。
 その後の歴史を尋ねると、仙嶽和尚の代に中興、文化3年瑞巌和
尚の時庫裡が全焼、文化5年(1808)過去帖作成、教嵒和尚の代に再中興、教宗和尚代に三中興と、法燈を高める努力が重ねられている。
 この月吉は、日吉と並んで日本の中心と考えられてきた里で、西行法師の詠んだ
 よるひるの 境はここに 有明けの
  月吉 日吉 里を並べて
の歌碑が、寺の参道の中程に立っている。

(美濃瑞浪三十三霊場めぐりより)


 大応寺入ロには慶応の納経所碑があって、この碑にも西行の「夜昼の…」の歌が刻まれており、境内の元文2年(1737)の刻経塔や信州高遠の石匠中谷氏による寛政11年(1799)の見事な月之塔(月待塔)は是非寄り道をして見学したいもののーつです。

(濃州徇行記・美濃御坂越記・月吉大応寺 日吉本郷歌碑)
よる昼のさかいはここに有明けの 月吉日吉里をならべて
 西行法師 (平安末期1117~1190)

明世町月吉大応寺(慶応3・1867・納経塔・西行歌・夜昼の…山内)

 月吉大応寺の慶応3年建立の西行歌碑は、日吉下本郷のものと同じ「夜昼の さかいはここに…」の日吉・月吉を詠んだ歌で、納経所と大書された自然石碑の下部に刻まれており、造立者は地元の山内儀助です。

 明世月吉大応寺の月之塔(宝塔)に至っては、その美しさと大きさの点で最も特記されます。寛政11年(1799)二十三夜月待の主尊の勢至菩薩の宝塔として信州高遠石匠の中谷氏の手によって造立されたものです。

 


納経塔

明世町月吉大応寺(慶応3・1867・納経塔・納経所・自然石(西行歌碑))

 明世町大応寺参道のものは「夜昼のさかいはここに有明の…」の西行歌碑を兼ねたもので、正面には「納経所」と大書されており、このことからあるいは納経塔ではなく、大応寺を納経所だとする碑であるかも知れません。建立年が刻まれていませんが、願主の「儀助」は慶応三年に月吉村庄屋として出名しますので、この年もしくは前後年の建立と考えたものです。


刻経塔

明世町大応寺境内(元文2・1737・刻経塔・四面種子と四面陀羅尼文)

 大応寺の刻経塔は全高2.6m、塔身四面には種子、台座部の四面には陀羅尼文がそれぞれ刻まれ、基礎部に「奉建立為菩薩(両親の戒名)元文二丁巳九月 願主山内氏」とある先祖の菩提供養のためのもので、典型的な塔型の刻経塔です。


月之塔

明世町大応寺境内(寛政10・1798・月待塔・塔身は火袋・露盤部に三仏・月天子宝殿・勢至菩薩)


境内灯篭

明世町月吉大応寺境内(享保20・1735・対・円・奉寄進山内儀右衛門)


水 鉢

明世町月吉大応寺境内(享保20・1735・奉寄進・山内儀右衛門)


宝箇印塔

明世町月吉大応寺(一基・武田大膳太夫信晴(信玄)の供養塔と伝う 中型)

 


地蔵菩薩石像

明世町月吉大応寺(享保9・1724・光・立・墓碑地蔵ら五体あり )


月之塔

明世町月吉大応寺(寛政10・1798・月之塔・月天子宝殿・勢至菩薩)

 明世町大応寺のものは、全高4m余の市内最大と見られる宝塔で、今回の調査で発見された石板札に「雲松山大応寺現住祖戒 寛政十戊午年珠日 石工信州住人中谷幸蔵」、棟札に「月天子宝殿建立 施主十方壇家」とあり、塔身には「月」と三尊が彫られている立派なものです。月天子とは二十三夜月待の主尊宝吉祥、っまり勢至菩薩のことで、石工は信州高遠の石匠の一人です。


薬師如来石像

明世町大応寺境内(安政5・1858・角柱塔・浮彫り・坐・薬壷印)

 明世町大応寺の薬師如来石像は、ここの立派な二十三夜月待塔(宝篋印塔)の前に祀られているもので、角柱塔の上部に浮彫りされ「薬師如来 安政五午四月」とある薬壷印の坐像です。


地蔵菩薩石像

明世町月吉大応寺(享保9・1724・光・立・墓碑地蔵ら五体あり)

 


雲松山大応寺納経塔

 大応寺は慶長年間創建とされるも後荒廃し、明暦3年(1657)瑞林寺七世伝宗が再創。本尊仏は聖観世音菩薩で、宗派は臨済宗妙心寺派である。位置は月吉の中央部・南面した洞の入口にあり、寺域は小じんまりとよく整備されている。
 この供養塔は、元文二丁巳(1737)九月二日の建立で、願主は山内儀右衛門道元で先代鉄屋道柱居士、禅岳貞樹大姉の菩提の為に建立奉ると刻銘してある。
 塔身には、梵字で金剛界の四仏が刻まれ、その下の長方形の台面四方に、288文字の焚字が刻されている。刻された楚字は、六字名号、一切如来心秘密全身舎利宝簾印陀羅尼(だらに)のようだ。


大応寺納経所の標柱と西行の供養歌碑

 標柱の下方に西行の歌が一首、刻銘されている。
 夜昼の さかいはここに 有明の
  月吉ひよし 里をならべて
 寄進者は山内儀右衛門道之である。

 


雲松山大応寺 本尊聖観世音菩薩 明世町月吉

 往古は月之宮の神宮寺として草創と伝え、また慶長年中再建というも詳細不明。大応寺創建由緒に「慶安四辛卯年正月五日、月吉に大応寺と申す寺号を聞き候」とあるから、不詳ながら前身の存在は確かであろう。慶安4年(1651)瑞林寺六世伝宗の法系で普門寺の弟子亀嶽が招かれ、森下の成瀬家の書院に小庵を営み、明暦3年(1657)3月18日現在地に再建再創し以来続いている。文化5年に焼失、のち仙嶽によって中興された。
 伝宗永以 亀嶽永仏 法岫宗達 別岫祖伝 天応宗暁 平山祖均 仙獄恵芸 竹翁祖蜜 珠林祖戒 隣翁宗学 逸堂恵俊 全庸祖珍 瑞巌本光 元洞祖心 港安宗■ 暁山等一 済宗玄喝 霊巌逐玄

(瑞浪市史 歴史編より)

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