■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第32番】妙理山 増福寺 岐阜県 瑞浪市 日吉町

 天文年中(1540年頃)の創建時は真言宗のお寺でしたが、その後僧侶が交代する際に曹洞宗となりました。
 増福寺という名を表すように、山門前では七福神の石像が福福しい顔で出迎えてくれます。


宗派/曹洞宗(御本尊:阿弥陀如来)
所在地/瑞浪市日吉町4059-1
TEL0572-69-2014

御詠歌

おいしとも 生きるかぎりは
 いまのいま
  ともにまいらん ぞうふくの寺

 当山は、日吉町南部のほぼ中央にあって、 「郷社 酒波神社」の奥の院として、天文年間(1532~1555)に、真言宗の寺として開創された。
 慶長5年に玄室芳頓首座(中興開基)が、元、久々利城主、地頭ー千村丹左衛門(開基)の力をかりて復興し、宗派も曹洞宗に改めた。
 寛文2年(1662)本末改め制度によって、開元院第十二世領外秀存大和尚を勧請して開山に迎え、浮沈の時代を経て、現在第二十世に至っている。
 本尊は阿弥陀如来で、観音堂には十一面観音や十王像など、古くからの仏像が祀られている。又、当寺には、「妙理の宝珠」という宝物がある。この珠は境内の池の中、蓮華岩の下から掘り出され、人体程の微温を発した霊妙不可思儀の珠であり、ここから山号を妙理山を名付けたのである。


西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑

日吉町南垣外増福寺(享保ころ・笠塔婆・西国四国秩父坂東)

 南垣外増福寺のものも古い部の立派な笠塔婆のものですが順拝者名などが判読できずに残念です。

廻国塔

日吉町増福寺境内(正徳四・一七一四・・奉納大乗妙典 日本廻国供養塔)

 南垣外増福寺のものも写真で判るように笠付塔の立派なもので「奉納大乗妙典日本廻国供養塔 東濃土岐郡日吉邑住人白岩全貞・西領白円 旹正徳四甲午歳九月二十三日 願主小栗貞右衛門尉」とあって三名同行で無事廻国勤行を終えたものと思われます。


境内灯篭

日吉町南垣外増福寺(元禄九・一六九六・単・角)

日吉町南垣外増福寺 (嘉永二・一八四九・対)

 増福寺入ロの右手には、往時のままの姿で天明五年(一七八五)の三十三所観音が並らび横穴古墳内の庚申祠は寛政十一年(一七九九)のものです。
 増福寺は中世では酒波神社の神宮寺であったと伝えられる古い由緒を持ち、江戸時代には木曽衆の一人久々里千村氏の菩提寺で、山門の線彫地蔵と馬頭観音、境内の順拝塔は見落してはいけません。


阿弥陀如来石像

日吉町南垣外増福寺口(天明五・一七八五・光・立・来迎印・願主六人の名)

 日吉町増福寺ロの三十三所観音の主尊としてのものも光背型の立像で「天明五巳年十一月吉日」願主として六人の名が刻られ像容は光春院のものと同一で、造立年代も一年しか違わないことから、天明年代ではこうした造立が普及したものでしょうか。ここの三十三所観音は安永七年(一七七八)の造立ですから、この阿弥陀石像は三十三所観音造立の七年後に主尊として建てられたものであることが判ります。


馬頭観音石像

日吉町南垣外増福寺(安永八・一七七九・立・一面二臂・旧中街道添)

 日吉町増福寺の安永八年のものは美しい像容です。


三十三所観音石像

日吉町南垣外増福寺口(安永七・一七七八・主尊とも三十四体・完全)

 村の寺である各寺の境内や入ロに霊場を設けたものです。


線彫り地蔵尊

日吉町増福寺(年代不詳・小型・像高四〇cm・左手宝珠・出土仏と伝う)

 増福寺のものは円池寺の寺跡の古井戸からの出土仏といわれて「コシキ地蔵」と呼ばれています。また「コシギ」とはコシキスともいって米をむすときに使うすのこをいい、普通は田の神が頭にいただきますが、増福寺のものは丁度日輪がコシギに見えますから、この名が付けられたものと思われます。


庚申文字碑

日吉町南垣外増福寺口(寛政十一・一七九九・文字石祠・庚申)

 増福寺入ロの横穴墳内のものは「庚申 寛政十一未年正月吉日」とある市内唯一の庚申石祠です。

南垣外増福寺前 三十三観音 天明二己十一月吉日 願主 六名連記

日吉南垣外増福寺入口 庚申詞 寛政十一末年正月吉日(横穴古墳内)

妙理山増福寺 日吉町南垣 阿弥陀如来 曹洞宗 福井永平寺 鶴見総持寺 酒波神社奥院として天文年中創、慶長五年、芳頓再創、寛文二年開元院十二世嶺外再興

一六〇〇・慶長五年・妙理山増福寺再建(日吉町南垣外)
一六六二・寛文二・妙理山増福寺本寺改め開元院の末寺となり再興

日吉南垣外増福寺由緒ほか書上帳
〇日吉町南垣外 小木曽卓郎氏所蔵

 差上申一札之事
一 本州土岐郡日吉郷之内、南垣外村妙理山増福寺開闢之年数分明ニ相知レ不申候、往古は諸宗猥ニ住持仕候由、慶長五子ノ年より吾宗之平僧地ニ相定無本寺ニて罷有候処、寛文二寅ノ年本末御吟味ニ付、同州同郡平岩村開元院末寺ニ罷成候、元禄元辰ノ年法地ニ願、開元院十二代嶺外秀存和尚勧請開山ニ仕、二代雄堂殊英和尚、只今拙僧迄三代ニ罷成大源派ニ紛無御座候、吾宗之地ト成リ当年迄百廿壱年ニ罷成候
 寺務助縁之覚
一 寺中山林 東西百三拾間程、南北百拾間程 右寺内山林、前々除ニて証文等は無御座候
一 客 殿 三間ニ六間 庫裡 三間ニ九間
一 檀 家 三拾四軒
一 上 田 壱反歩地頭除、但シ掟米壱石壱斗
一 桐 堂 金拾七両
右之通任御尋逐一遂吟味書付差上候、以上

 享保五年子ノ三月

龍泰寺御役寮
 土岐那日吉之内南垣外村
  増福寺徹漢

日吉南垣外増福寺鐘由来記
〇宮前町 宝林寺所蔵

(表紙)
「 鐘山来記 」
 妙理山増福禅寺鐘銘並序
美濃州土岐郡日吉郷南垣外村、妙理山増福禅寺ハ、不知天台乎真言乎、其開祖□艸以来、星霜暦於幾百亦不知、千村氏之先祖増福寺殿心外宗無居士起立之浄地也、己是寺云増福、是理之正当也、従二世英和尚、猶五十有四年以前、将二於二尺余之大鐘投一入、於開元大鏡之鋳二釜申ニ一、其後代々以大鐘為缺為愁、予住山以后十有余年間寝寤ニ難亡却、近来議諸檀越、募衆縁何乃言乎、公器為首者鐘也、叢林之常規、昼夜三通、各三十六下、摠一百八下、寅驚タ悟、遠近聞不聞、観無常、発菩提心、成仏道於此、予豈不為之銘巴哉(略)

 享和二龍次士戊春三月七日 当山七世緩応前歩謹銘

 施人金名前之末ニ云
当寺檀越、十万施者、喜拾浄財、園成大器
 当所庄屋 大山権右衛門
 当所組頭 木俣宇右衛門
 松野庄屋 小村吉右衛門


 南垣外の酒波神社を中心に分布する酒波古墳群(円四基)の一号墳は径一〇メートル、高さニメートルの墳丘で葺石を有して完全に残り、二・三号墳は尾根突端に築かれ、盗掘がされ、四号墳は増福寺入ロの東尾根に築かれていたが消滅に近く、残りの石材からその所在を知ることができるのみである。

 〔曹洞宗〕の日吉町増福寺(南垣外)は、千村氏の支族による慶長年間の創建以前にすでに酒波神社(帳内社)の奥院(神宮寺)としてあり、真言宗であったといい(寺伝)、同じく慈照寺(社別当)も日霊宮の神宮寺であったと伝えられている。

 増福寺 (現増福寺の前身)南垣外 日吉酒波神社の神宮寺、もと真言宗系と伝う。

 千村助右衛門重次の系は、木曽衆の一家として七百石を知行し、市内では南垣外三一一石余りを与えられて増福寺を再建したりしているが、三代重武(常無)の時に父の老後と部屋住みの弟丹左衛門充重(道無)のために隠居料として松枝・藤並を分けて分家させている。

日吉・稲津地区本末次第
 日吉地区では増福寺・慈照寺・福寿寺が本末制度によって平岩開元院の末寺と書き上げられることになったが、増福寺は酒波神社の神宮寺で真言系と伝えられ、近世では関ヶ原に戦功して日吉・茄子川・久々里七百石を領した千村助右衛門重次(久々里)の支配地となり、千村氏の支配とともに寺も再創され、曹洞宗系の芳頓和尚が中興祖として入寺し、寛文四年(一六六四)に重次が没して法名増福寺殿となると、二代重伯によって同氏の供養所となり、その法名を寺名として同氏の領村南垣外村に続いていた。
 増福寺では、寛文元年(一六六一)末寺帳作成のことについては、村役人や檀家と相談、三州篠原の永沢寺の法系をもって本寺と決定した。これに対して支配者重伯(道止)は、国越えの本寺は後年まで面倒であろうとし、開元院と交渉して諸役免除の条件をつけたので、寺・村役人・檀家も一応同二年に承諾して開元院を本寺として書き上げることに同意している。
 次いで元禄元年(一六八八)の末寺帳の際、正式に村中納得し、開元院一二代嶺外秀存を再々中興として寺社奉行と中本寺龍泰寺(下有知)へ届け出て、開元院の末寺として登録したものである。


妙理山 増福寺 本尊 阿弥陀如来

 古くは酒波神社神宮寺として建てられ、「一時真言の僧みだりに住す」などと伝えられるも詳細不明、慶長五年、久々里九人衆千村助右衛門重次(増福寺殿宗無)を檀那に得て、三州篠原永沢寺系下の芳頓によって再興され、寛文四年(一六六四)重次の逝去により千村氏二代重伯(道止)により増福寺と称し領内菩提寺となっている。この寛文二年(一六六二)本・末制度のことから重次の勧めにより開元院客末となり、同院嶺外を中興とし雄堂が再創している。寛永十二年(一六三五)の過去帳もあり、寛文二年はあくまで本未による法系の変更年をさしているものである。慶長再興以降の累代は次のとおりである。

芳 頓 雄堂殊英 徹漢筠筑 代道仙宗 栄堅越秀 慈海泰洲 緩応前歩 雄山大英 大義春孝 祖岩聯宗 喬山巨道 霊獄曇瑞 大鷲祖英 洞岳曹宗 天忠良義 密山海印 禅関密成 大雲龍峰 大宙智成


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