■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第02番】瑞巌山 信光寺 瑞浪市土岐町

御本尊:十ー面観世音菩薩(三十三観世音菩薩、達磨大師)
宗 派:臨済宗妙心寺派

御詠歌
のちの世を てらさざらめや この暮の
  まことをてらす 寺のともしび

 永正元年(1504)土岐城主、延友三郎兵衛尉信光が稲葉寺として創建しましたが、天正元年(1573)武田・織田対立の兵火にかかり、堂宇と共に古記録ー切を焼失し、元亀天正以前の寺歴等は定かではありません。この稲葉寺には、織田信長が甲斐の武田を攻める為、泊まったともいわれております。
 慶長十二年(1607)延友信光の旧屋敷跡に寺は再興され、外護(げご)となり、信光の名を取り信光寺とし顕孝大和尚を迎えて再興されました。その時十ー面観世音菩薩を安置します。寛永十六年(1639)に哲堂和尚により堂宇を改築、加藍を整備し中興されました。元禄八年(1695)土岐巡礼三十三札所が定められた折に、四番札所に指定されました。
 山門である鐘楼門は、宝暦五年(1755)建立されたもので、当時としては画期的な楼門建築です。焚鐘は名古屋の鋳物師の手により、鶴城の山峡において鋳造されたと伝えられ、この場所は鐘場と呼ばれています。その鐘楼も戦争で供出されてしまいました。
 十三世静山和尚が檀信徒より浄財を得て、三十三観音を観請し、位牌堂の最上段円周に祀ってあります。



稲葉寺跡

 中京学院大学の寮のあたりに稲葉寺というお寺がありました。
 織田信長の妹が苗木に嫁に行き、その子どもが雪姫様で稲葉寺に泊まり、歌を詠んでいます。
 木曽の流れに恵那山(えなやま)浮かび 里につつじが咲いたとて
  雪姫悲しや 悲しき門出 戦の見栄と召され行く みかえる苗木の城思う
 織田信長が敵国と手を結ぶ為には嫁を出すのが一番と考え、雪姫は12歳のとき信長の養女となるため、苗木から安土へ行く途中この寺に泊まりました。14歳になって、今度は甲斐の武田勝頼の所へ嫁に出され16歳で子どもを生んだのですが、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまったそうです。


六地蔵石幢

(寛文二・1662・笠・憧・中台とも六角 竿のみ有節の丸竿)
 ズン胴型の太目のもので「玄黙摂提格夷則 寛文貮天吉辰下町」とあり、六地蔵は坐像に彫られており、竿部は丸竿で石灯篭と同様に節が付けられています。石造物としては古いものです。
 これは中近世に亘って庶民に流行した六地蔵信仰と結合した現れです。


子安観音堂の絵天井

 慶応3年(1867)11月木暮組女人合力によって建立され、明治2年(1869)3月18日に入仏開帳されました。昭和60年にここで子安観音様のご開帳をした折、水野辰雄先生が絵天井を描かれています。


義人 松田治兵衛の墓

 岩村藩神箆村(こうのむら:現在の土岐町東部)の庄屋 松田治兵衛は、時の岩村藩主 丹羽氏の年貢の取り立てが厳しく、村人が苦しんでいることに心を痛め、藩主の交替の時に村の石高帳を密かに書き直しました。しかし、3年後の宝永2年(1705)に藩の役人の知るところとなり、捕えられ、厳しい責め苦の後、死罪の言い渡しとなりました。そのことを知った信光寺の和尚をはじめ村のおもだった者が命乞いをし、藩主から処刑の中止を取りつけ、二騎の早馬が知らせに走りましたが、時すでに遅く処刑場である下沢の田んぼで、治兵衛の処刑は終わっていました。宝永2年(1705)6月11日のことでした。村人たちは、義人 松田治兵衛の死をいたみ、信光寺の裏に墓碑を建て後世にその徳を伝えました。
 治兵衛の妻子は村民の薦めと助カによって村を逃れ大湫宿(尾張領)へ落ち延びその生家に隠れ、生家の加藤姓を名乗って余生を送ったといいます。
 治兵衛が処刑された田んぼは、獄門田と呼ばれるようになりました。ここは耕作すれば祟りがあると云って手を触れる者もなく荒地として放置されていたが、太平洋戦争中、食糧増産のため、開墾され耕地となりました。
 昭和60年頃、無縁仏の中にあったものを見つけここに祀られています。罪人であるがために、庄屋さんであるにもかかわらず、信士(しんじ)という一番下の位になっております。土岐町の人にとっては大恩人の方のお墓です。


襖絵

 この襖絵は、狩野探幽(かのうたんにゅう)の娘婿が描いたとされる襖絵です。
 狩野探幽とは、1617年幕府に仕えた山水、人物画を得意とする、駿河台(するがだい)狩野(かのう)家の始祖である。


お籠

 昔の住職さんが使われたお籠です。


聖観音石像

信光寺山門前
(享保十四・1729・丸・立・左蓮華・右施無畏印)
 信光寺のものは大型の丸彫りの立派な立像で、台石には「外町念仏講・享保十四己酉八月二十四日」とあり、旧下街道沿いからここへ移したものです。頭部がやや小さく、或いは他の観音の頭部かと思われます。


十一面観音石像

(文化十四・1817・十一面観音・三十三所観音中)


弘法大師

(寛延四・1751・丸・坐・山門横の石仏群に並ぶ)
 信光寺のものは下街道からここへ移したものです。


念仏供養塔

(寛政五・1793・自然石碑・念仏供養塔・奉拝誦大般若経)
 碑高135cmの大型で「念仏供養塔 奉拝誦大般若経 寛政五癸丑十二月望日連中一百有余人」とあるもので、 百余人とあることから、殆んど旧神箆村の村中による建立であることと、何日かによる般若経六百巻の読誦(どくじゅ)法要が行われた上での記念の供養塔であることがわかります。


名号碑

(寛文十一・1671・剣型碑 ・寛文十一年六月十三日)


聖号碑

(享保三・1718・笠塔婆・七字聖号 彫聖号)
 信光寺のものは大型の笠塔婆で、「彫聖号以伸供養 享保三戊年仲夏吉日」とある唐破風(からはふ)型のものです。


西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑

(明和元・1764・台石・西国四国秩父坂東(奉順礼))
 霊場順拝は西国三十三札所に秩父(三十四札所=霊場)、坂東(三十三札所)を合わせて「百番札所(霊場)」となり、これに四国(八十八番)を加えて百八十八番札所、西国と四国では「百二十一番」と呼ばれ、一ヶ所でも多く順拝すれば功徳も多いとされたので労力もお金も時間もかかる大変な旅だったことでしょう。



信光寺参道の石橋

 伝えによると、寛文年間(1661~73)に架橋されたといわれます。この橋は木暮・清水方面からの参道で、擬宝珠(ぎぼし)のついた標柱で板石、枠石共はめこみ式で立派なものです。四枚石で計173cm巾、長さ154cm、刻銘はありません。


奥名大般若会(え)

 信光寺には、文久2年(1862)と記された12代住職謙令和尚(けんれいおしょう)の覚書があります。
 今からおおよそ150年前の文久年間(1861~1864)、奥名地区に原因不明の高熱が出る疫病が流行し、死者が絶えませんでした。山間の奥名地区は交通の便もわる<、近くに医者もなく煎じ薬を命の綱としたものの病は癒えませんでした。困り果てた里人は、知識人であり有力者であった寺の住職に訴えて仏の加護と信仰によって解決したいと考え、代表として兼松順助、遠山浅七の二人を信光寺に遣わしました。二人は当時の住職であった謙令和尚に懇願しました。しばらく耳を傾け聞き入っていた和尚は、奥名地区の人々の窮状(きゅうじょう)を察し、病魔を追い払う祈祷をすることにしました。
 「それには般若十六善神像を迎えて奥名地区の守り本尊にせよ。毎年1月28日に、大般若経をあげて祈祷すれば病魔は永久に退散させることができる。祈祷料は一切いらないが、般若十六善神像の掛軸は1両2分かかるがそれでよいか」と言いました。地区の人々は相談の結果、命が助かり病が退散するならと、この大金を工面して住職に祈祷をしてもらいました。すると二度と疫病は流行することはありませんでした。


桜堂薬師

 幕末・明治維新における神仏分離等の時勢により、明治元年(1868)八月、檀家を有さない楼堂薬師は岩村藩から廃寺を命じられ、明治十年(1878)(明治六年?)三月には近隣の臨済宗寺院、信光寺の受け持ちとなった。


土岐学校 三好 学

 岩村で生まれた三好 学は、十八才で土岐村の土岐小学校の校長先生となりました。しかし、もっと勉強するため、毎土曜日犬山まで村瀬太乙(たおつ)先生に教えをうけました。土岐小学校に在職した3年間に、木暮の信光寺を仮校舎としていた光迪(こうてき)学校を、一日市場の三省(さんせい)学校と合せて、新校舎を造りそこへ移しました。
 土岐郡の地理をまとめ、『土岐郡地誌略(ちしりゃく)』を書き、生理(せいり)小学という理科書や、小学修身読本という教科書を書きました。
 ニ十一才になると、もっと勉強したいと東大に入学し卒業後、ドイツに渡って植物の研究に励み、帰って東大の教授になるころには、日本の植物学者・世界の植物学者といわれるようになっていました。


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