細久手 南蔵院跡
真言宗に属し当主は修験者で不動明王をまつり加持祈祷をした。
珪化木の石灯篭が当時の名残りを留める。
細久手長寿クラブ
(現地看板より)
南蔵院跡
昔、ここには、修験者が住んでおり、日吉・愛宕神社や庚申堂をお守りし、加持祈祷を生業としていました。今は珪化木の石燈寵だけが名残をとどめています。
(細久手宿より)
大山氏後世遺録抜粋(村政関係)
〇日吉町細久手 大山元輔氏所蔵
文化十酉年十二月廿六日
宿中壱円焼失致し、南蔵院斗り壱軒残り、此時御領主尾州様より御救金被下置候、但し間ロ金としてハー間につき、座敷金としてハ壱畳につきの両割合に候
安政五午年十ニ月十四日
宿申壱円焼失、南蔵院壱軒不焼残り、右焼失之節殿様より御救ひ御手当間口金、座敷金被下候、右焼失節尾州御家中よりも御手当被下、其割合金壱両弐朱宛頂戴、殿様より拝借金・割合金拾三、四両之事
(瑞浪市史 資料編より)
「細久手宿」は、村高は無高で山村氏の知行地であった。問屋は二人で本陣の白倉(現在の本郷大山)の小栗氏と、平岩の酒井氏が当たるのが通例で年寄は二人・宿方は二五戸で運営していた。
町並三町四五間 宿内戸数六〇~八〇戸平均で大湫よりやや小宿、旅龍屋は二五軒内外で通常の部にはいる数であった。七軒屋時代の慶長十四年(二八〇九)・寛政十年(一七九八)・文化十年(一八一三)・安政五年(一八五八)に、それぞれ宿中全焼し、大湫宿同様宿疲弊のもとになっており、文化・安政の大火では南蔵院が類焼を免がれたただ一戸である。
慶長年中の仮宿時の大火のほか寛政十年・文化+年・安政五年に宿中全焼し、小宿のこととて宿復興に対する尾州藩の助成も大変で、宿の西端の南蔵院は文化・安政の大火にも類焼を免れたと記されている。
南蔵院 明治廃庵
(瑞浪市史 歴史編より)