水上 田尻庚申堂
•本尊 十一面観音菩薩(盗難にあい不在)
本堂建立は棟木に明記されたものによると、慶長十六年三月吉日(1611)今から二八三年前と推定され、加藤景里が陶町水上に田尻窯を開いてより約九年後のことである。
庚申の日に祭が行われたものと思われる今も講人たちが寄り合い祭祀が行われている。
十一面観音菩薩
拝すると病気を除き、悩みごとを消し罪を滅する効験があるといわれる。変化した観音像の一種で、普通頭上に十の化物の面をつけているが、なかには十一面を有するものもある。
十一面の場合は、前の三面は慈悲相、左の三面は念怒相、右の三面は白い牙を上に向けた相、そして最後の一面は笑っている。
頭上のまん中の顔は、如来相といわれる仏の顔である。この菩薩は、救を求める瞬間にとんで来て、どんな苦しい悩みでも助けて下さる。病気も除き罪を滅する効験ありとされていて、庚申講の主仏として祭祀されている。
(陶資料より)
田の尻の庚申さん
慶長7年(1602年)大平村の加藤太郎右衛門景里が開いた田尻窯の跡があり、その近くに田の尻の庚申さんがあります。
田の尻から水上の市場平への山道(ゴルフ場への道)の途中の左側に窯跡があり、右の林の中に庚申堂があります。庚申堂も開窯の頃に神明神社と共に建立され、陶祖加藤景里の子孫の方たちが長い年月お守りされています。残念なことは、本尊の十一面観音菩薩が大変貴重な文化財であったにも拘わらず、近年盗難にあってしまったようです。
なお、この地にあった神明神社は大正2年に水上神社に合祀され、神明造りの社殿は水上の御嶽社に移築されたとのことです。
田の尻道の脇には田の尻窯の累代の立派な墓があり、往時の隆盛ぶりを偲ぶことができます。
庚申講
庚申(かのえさる、こうしん)とは、60通りある組み合わせのうちの一つで、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。そこで庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いが始まった。守庚申である。やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。
守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、庚申待は「申待(さるまち)」となり、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していったようである。
そして庚申講は、同志相寄って催す講となり、互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもあったようである。
前書きが長くなってしまいましたが、猿爪関屋の庚申さんは永井一族が、水上田尻の庚申さんは加藤一族が、庚申の日(60日に一度)の夜に集まって会食し、親睦を計りながら一族の繁栄を祈願したものと思います。そして、庚申信仰と仏教の結びつきを証明するように、田尻庚申さんは十一面観音菩薩を本尊とし、猿爪庚申さんは青面(しょうめん)金剛明王を本尊としている。
(陶町歴史ロマンより)