■ 神社 神様

刈安神社 瑞浪市釜戸町大久後

釜戸町大久後 刈安神社

瑞浪市釜戸町3770-1(大久後)
【祭神】西尾式部道永
【例祭日】10月第2日曜日
【由緒】刈安神社は「権現様」と呼ばれ、先の大戦中は戦勝と武運長久祈願の神様として、参拝者の列が絶えないほどであった。急峻な参道を登りつめた山頂には屹立した巨巌を背にして本殿・拝殿・授与所が建てられ、傍らに大きな籠所がある。その柱、板壁から天井の隅に至るまで参籠した若者達の残した落書きがびっしりと、当時の緊迫した雰囲気を伝えている。参拝者のために茶店が二軒もあり、絵はがきまで出されていたのが、今は夢である。現在では、祭礼の時以外参拝する人は稀なようだが、氏子の方々の崇敬の念は篤く、例祭には雅楽も奉納されている。
(岐阜県神社名鑑より)

祭神 西尾式部道永(にしおしきぶみちなが)
刈安神社
瑞浪市釜戸町3770番地1(大久後)

戦勝祈願の神刈安(ひろやす)権現
 刈安神社は「権現様」と呼ばれ、先の大戦中は戦勝と武運長久祈願の神様として、参拝者の列が絶えないほどでした。
 急峻な参道を登りつめた山頂には屹立した巨巌を背にした本殿・拝殿・授与所が建てられ、傍らに大きな 籠 所 があります。その柱、板壁から天井の隅に至るまで参籠した若者達の残した落書きがびっしりと、当時の緊迫した雰囲気を伝えています。
 参拝者のための茶店が二軒もあり、絵はがきまで出されていたのが、今は夢のようです。

刈安城から刈安神社へ
 ところで、刈安神社が戦争の神様として崇められるようになったのには、次のような言い伝えがあります。
 戦国時代の初め頃、この地域を支配していた土岐氏が、木曽、飯田の連合軍の侵攻に対抗してここに刈安城(砦)を築きました。この砦はやがて落とされてしまいますが、その後、元亀年間になり再建されることになります。
 戦国末期、織田、武田の激しい攻防の中で、織田は東濃に十八の砦を作りました。その一つが刈安城で、尾張小牧の武将西尾道永が三百の兵をもって守っていましたが、武田軍二千の前に敗退し、道永は今の肥田まで逃れて遂に戦死してしまいました。
 死に臨んだ道永は、「我が霊は永久に我が軍の武運を守るであろう。」 と言い遺したということです。
 江戸時代になって、この土地の人々が道永を偲び、刈安権現として祀ったのがこの神社で、戦勝祈願の神様と崇められることになったわけです。
 現在では、祭礼の時以外参拝する人は稀なようですが、氏子の方々の崇敬の念は篤く例祭には雅楽も奉納されています。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)

刈安神社

 刈安神社は、権現様と呼ばれ、先の大戦中は戦勝と武運長久祈願の神様として、参拝者の列が絶えないほどでした。
 現在、参拝する人は稀になりました。

(釜戸再発見mapより)

大久後刈安権現神社

 祭神 西尾式部(伝) 旧無格社 最古棟札 延宝五年(一六七七)二月建立 釜戸町大久後

 祭神はもと権現山城主西尾道永(東春日井郡野口=現小牧市) の末畜で関ヶ原東濃合戦土岐浅野河原の戦に敗戦し、大久後で自
自仭した治郎八を慰めるため里人が小祠を建てたと伝える。延宝五年産土神として神野(河野)氏ら村中にて刈安権現として、戦国期の権現山城跡に祭祀。享保・天明・寛政以降の棟札存す。

 神田の白山権現、釜戸刈安権現、藤白山権現は三権現と呼ばれた。

釜戸権現山城跡 釜戸町大久後

 応仁乱中の文明五年(一四七三)、東軍の小笠原・木曽両氏は東から東濃に侵入し、荻ノ島・大井城が陥され、鶴ヶ城が対信濃の最前線基地となり、恵那郡は天文年中まで小笠原氏の勢力下となった。城跡は現刈安権現の地という。

【今見砦】

 岩村近辺城主覚に「今見砦、六十九年程以前(元亀元年・一五七〇)、竹折の市川式部と申す人、半年程に取立て申され候由、岩村殿家臣西尾喜太郎と申す人居られ候」とある。また、老人物語に「天正ニ年(一五七四)木曽軍の砌、城之助卿(織田信忠)丹波之国人西尾道永に命じ、中仙道の圧えとして兵三百を給って釜戸権現の城を固む」とある。一方は今見砦とし、一方は権現城とするが、ともに守将は西尾氏とあるから、これは東春日井郡野口の城主式部道永と考えられ喜太郎(城主覚)と日吉酒波神社再建の日吉代官千代丸とは親子である (永禄二年・日吉酒波神社棟札)。道永とは喜太郎の別名または親子と考えられる。昭和三十五年、釜戸町大久後向鍛冶屋地内で、執筆者によって城砦跡が発見、報告された。 一〇〇×八〇メートル四方、高さ一メートル平均、石積みの上に盛土がなされ、武並、釜戸境の土岐川を眼下に見おろす山の突端である。城主覚の「竹折の市川式部と申す人、半年程に取立て(構築)申され、西尾喜太郎と申す人居られ候」などから、今見砦はこの向鍛冶屋の城砦跡と考察され、この時代の中仙道は鎌倉街道(下街道)を指すから、老人物語の「西尾道永が兵三百をもって守った」という権現の城もこの城砦跡を指したものと考えられ、さらに「応仁の乱」の荻之島城跡も実はここで、刈安権現はこの城の物見として使用していたものかもしれない。権現山に半年を要したといわれる築城の跡はなく向鍛冶屋には大規模な石塁跡が現存することから、老人物語の「権現の城」の字句にこだわらねば今見砦はまさしくこの釜戸町大久後向鍛冶屋の石塁跡である。


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