■ 寺院 石仏

大牧地蔵堂 瑞浪市稲津町萩原大牧

稲津 大牧地蔵堂

四角型辻(村)燈龍 角竿

萩原大牧地蔵堂前
H一九四cm H二七cm
刻銘
 竿部
  常夜燈
  秋葉神社
  大正三年六月(一九一四)
 基礎石
  国家安全
  寄附人名
「笠一部欠損」

延命地蔵 丸彫立像

萩原大牧地蔵堂
H一〇四cm(蓮華座共)
刻銘
 なし
「右手の錫杖(しやくじよう)亡失」

読誦(どくじゅ)塔

 読誦塔は、経典供養塔の主流をなすものとも言われている。
 元来経典は読誦することを目的としているものであり、読誦することが仏道修行のーつであり、それによって心の安らぎを得、供養の目的も達せられて功徳が得られるというのである。
 己が信奉する経典を何部(回)又は何日と定めて読誦し、その完了を記念して、奉読した経典名、部(回)数或いは日数等を刻んで建てた石塔が読誦塔である。
 萩原大牧の地蔵堂境内、同沖平墓地、上平西北山中、小里興徳寺境内に読誦塔がみられる。

読誦塔

箱形石塔
萩原大牧地蔵堂境内
H一二四cm W四四cm
刻銘
 法華経三千部読論塔
 責山祖元首座禅師
 宝筐印陀羅尼円満
台石に
 元光山地蔵寺
 享保十五庚戊(一七三〇)十月念四日

(稲津の石造物より)


稲津村青年団報 第四号所載
       加納満治村議提供記事ヨリ抜粋

一、大牧地蔵寺 仝誌第弐号所載記録
 コノ寺ノ記事ハ同文ノモノガ二ツアル、一ツハ祐泉寺
二、一ツハ地蔵寺本尊菩薩厨子 ノ内側板二今尚黒色鮮カナ漢文体。
 前者ハ明治初年頃二絶エタ感応山神光寺和尚ノ記録
抑東濃土岐郡萩原村大牧地蔵寺ノ本尊ト申奉ル人皇三二代用明帝ノ皇子聖徳太子ノ御作伽羅ニテ作レル尊像ナリ。当村に安置シ奉ル濫觴ヲ尋レバ人皇九六代光明帝ノ御宇洛陽天竜寺開山夢想国師ト申ハ碩徳ニオハシテ、足利尊氏大将軍ノ帰依浅カラズ其ノ頃勅命ヲ蒙リ給ヒ虎渓山ニ霊場ヲ定メ給フ折カラ猶山深ク分ケ入リ給フテ此萩原大牧ニ一宇ノ尊庵ヲ結ビ此ノ本尊ヲ安置シ給ヒケリ。

 「伽羅佛(ちゃらぶつ)様というは、伽羅という香木で作った地蔵菩薩像で、聖徳太子の御作であると傳えられている。
 そしてこの伽羅佛様についても、やはり一つの古趾物語があるのだ。
 それ、あそこに見える小高い山ね。あれは大牧の墓地なのだが、あそこが其の昔地蔵寺というお寺のあった處だ。今から凡そ二百年ばかり前、元禄十六年の夏、加茂郡太田町祐泉寺の、聾堂(ろうどう)和尚の弟子祖元という方が其の師の仰せを受けて、ここにあの伽羅佛様を本尊として、地藏寺を營んだのが初めで、天保年間まで續いて住職があったのであるが、それからどうしたのか無住となってしまったのだ。そして遂いに明治の初め頃に廃寺となってしまった。そこで、迷はれたのは本尊の地藏菩薩だ。ある時は民家に、或る時は普濟寺に、そして又今の墓地の片隅に、といふ具合に轉々とせられたが、とうとう昭和八年夏、今お参りしたお堂の新築が出来て、目出度くあそこへ入佛せられたのだ。」

大牧元地蔵本尊「伽羅仏」

 夢窓国師創建小堂の後の中世の代官寺が廃絶し、元禄十六年(一七〇三年)太田の祐泉寺より聾堂(ろうどう)和尚徒弟祖元和尚が来て、地蔵寺として再建し地蔵菩薩を本尊としたが、天保年間以降無住となって、明治に至り廃絶し、普済寺に合併したという。
 その後、地蔵堂を再建して本尊を祀った。世に伽羅仏といい、今は大牧の集会所に祀り、お詣りしている。仏像は身の丈二尺三寸一分で、材は伽羅というが風化もひどく断定できない。
 寺の旧跡は、大牧地区の墓地となっている。

大牧の地蔵さん(伽羅仏様)の逸話

 大牧の地蔵様は元禄十六年(一七〇三)、美濃加茂市太田の祐泉寺の聾堂(ろうどう)和尚の弟子の祖元和尚が来て、其の師の仰せを受けて、伽羅仏様を本尊として、今の大牧の墓地に、定光山地蔵庵禅寺を開山したのが始めで、天保年間(一八三〇~一八四二)まで続いていたが無住職となって、明治の初期に廃寺となり、本尊は普済寺に預けておりました。
 大正時代に大牧の組(今の区)の人々が、其のまま普済寺に何時までも預けて居ると、普済寺のお地蔵さまになってしまうと心配して大牧の元あった地蔵寺の跡に仮のお堂を建て祀りました(今の大牧墓地)
 昭和の初めのある日、太田の祐泉寺から四、五人の方々が来て「お地蔵さまにお経を唱えないからお堂の鍵を貸して頂きたい」と組長宅へ参られた。組長さんは何んとも思わずに鍵を貸した。
 それから暫くして鍵を返しに来て帰られたが、その時の様子がなんとなく変だったので組長さんが若い衆に一度地蔵様を見てきてくれないかと見に行かせた。
 若者ですので急いで鍵も持たずに飛んで行き、釘で錠を開けた。何時もなら中々開かないのに、其の時は不思議と簡単に開いた、厨子を開けて見たら御本尊様が無い、さあ大変と大騒ぎとなり、日中は皆仕事に出て家に居る人も少なく二、三人で、手分けをして探した。
 若い者に瑞浪駅に自転車で(其の時代には大牧で自転車は一台か二台)探しに行き、他の者は近くを探した。そのうち普済寺ではないかと気付き普済寺へ行くと、丁度お地蔵様に晒を巻き荷造りをして、これから出発するところだった。太田から来た和尚さんの話では「大牧から御本尊様を抱えて出てくる時、手が震えてどうしても休まなければ行けなくなり已むお得ず普済寺に立ち寄った」とのことです。
 もし其のまゝ太田行ってしまえば、今の大牧には伽羅仏様は無くなっていた事でしょう、返してもらった伽羅仏さまは組長宅に保管することとし事後は組長回りとした。此の話から大牧の伽羅仏さまが有名になり毎日のようにお詣りが有ったと言われております。
 爾後組で何んとかして、地蔵堂を立てることとし組中で浄財を出しあって間口二間、奥行三間のお堂が出来上がりました。
 これでお祭りが出来るようになり、大田の祐泉寺の住職に来て戴き盛大な祭典が行われました。出店も多く出て賑やかな大お祭りでした、それ以降この様なお祭りはありません。
 その後大牧の皆さんは、何かにつけ伽羅仏様を信仰するようになり天気が続き水が無ければ「雨乞」、天気が悪く雨が続けば「日乞」又出産や病人が出れば千願経、戦時中は出征軍人の無事を祈願して見送りました。
 地蔵堂が出来て以来、毎月四日、十四日、二十四日を定日としてお茶を供え、お経を唱えて参拝して居り、今日まで七十数年間一度も怠ることなくお詣りできるのは本当に有り難い伽羅仏さまと思っております。

大牧讀誦(どくじゅ)塔

 表に 法華経三千部讀誦塔
    實山祖元首座禅師
    宝筺印陀羅尼円満
 台石に 元光山地蔵寺
     享保十五庚戌(一七三〇)
     十月念四日

讀誦(どくじゅ)塔

 讀誦塔は、経典供養塔の主流をなすものと言われている。
 元来経典は讀誦することを目的とししているものであり讀誦することが仏道修行の一つであり、それによって心の安らぎを得供養の目的を果たせ
られる功が得られると言うのである。
 この讀誦塔は元光山寺地蔵寺(今の大牧墓地)にありましたが大牧クラブを建てた頃この地に移しました。

(『萩原郷土誌 水穴』より)


法華経三千部読論塔(稲津町 大牧地蔵堂)

稲津町大牧地蔵堂(享保十五・一七三〇・法華経三千部読論塔・祖元禅師)

 

 全市的に見ても古いものとしては、地蔵尊像では承応元年(一六五三)の上平法海地蔵、行者碑では延宝二年(一六七四)の同法海碑、名号碑では寛文十一年(一六七一)の釜糠地蔵堂の名号碑、庚申碑では元禄三年(一六九〇)の釜糠地蔵堂の庚申文字碑があり、種類別では大牧地蔵堂の享保十五年(一七三〇)の法華経三千部読論塔が古いものとして挙げられます。

大牧地蔵堂の地蔵(稲津町萩原)

地蔵菩薩石像

稲津町萩原大牧地蔵堂(文政二・一八一九・丸・立・右錫杖・左宝珠)

大牧地蔵堂の文政二年のものは丸彫り立像で美しい像容です。

弘法大師

稲津町萩原大牧地蔵(浮彫・坐・笠付塔に浮彫)

 大牧地蔵堂のものは、笠付石塔に浮彫りされた珍らしい造立例のものです。

 


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