★美濃源氏土岐一族

美濃源氏土岐一族

土岐光衡(とき みつひら)

 源頼光の末裔で、源頼朝に仕えて美濃国で初めての守護に任じられました。土岐郡の一日市場(現在の瑞浪市土岐町)に居館を構え、地名にちなんで初めて「土岐」の姓を名乗りました。武家邸宅の模範となる壮大な館を築き、美濃における土岐氏繁栄の基礎を確立しました。建永元年(1206年)に58歳で没しました。


土岐光行(とき みつゆき)

 光衡の長男で、武勇に優れ「浅野判官」と呼ばれました。承久の乱(1221年)では、幕府との縁を捨てて朝廷方(宮方)として参戦し、木曽川の防衛などで奮戦しました。乱の敗北により守護職を没収されましたが、その後は浅野の地に隠棲し、土岐氏の勤皇精神の模範となりました。建長元年(1249年)に没しました。


土岐光定(とき みつさだ)

 光行の五男で、土岐氏の総領職を継承しました。鎌倉幕府に仕えて隠岐守に任じられ、父の代に失った勢力の回復に努めました。彼の時代は元寇(モンゴル襲来)という国難の時期に重なり、一族を挙げて日本の防衛にあたったと考えられています。弘安4年(1281年)に75歳で没し、墓所は土岐町市原に現存しています。


源頼政(みなもとのよりまさ)伝

 源三位頼政は摂津(多田)源氏ですが一説には美濃守であったとも土岐三位頼政と称したなどとも言われ、瑞浪市の土岐・山田・小田・稲津などの各町には頼政に関する言い伝えやその遺跡といわれるものもあります。
 近衛天皇を悩ました鵺という怪物を仁平三年(1153)に頼政が土岐の双生竹で作った矢で退治したという話や、その加護を祈った土岐の不動明王は現在の岩谷不動と伝わる。又は土岐地方の主として一時は美濃に関係のある職にあったのではないかなどとも考えらます。
 戦いに敗れ、治承4年(1180)に自害し、下総国古河城(茨城県古河市)の南東龍崎に頼政の廟があり、美濃国山県郡上野村(関市植野)には頼政の首塚と伝えられる塚があります。これは平等院で長男仲綱、養子兼綱らと共に自殺した頼政の首を、家臣渡辺省が遺言により切落し、縁者の里であるこの植野に埋めて供養したものが金宝山 蓮華寺の首塚です。蓮華寺はその後荒廃していますが、江戸初期に尾州家の石河正光(一万三百石)の菩提寺として再興され、首塚には「蓮華寺殿正三位源頼政」の碑が建てられています。


初代守護 土岐頼貞(とき よりさだ)

 源頼光の末裔で、足利尊氏を援けて六波羅探題攻略に貢献し「諸家の頭・筆頭の将」です。室町幕府における初代美濃守護となり、土岐氏200年の繁栄の礎を築いた中興の祖とされます。文武両道に秀で、和歌を能くして勅撰集にも入集した文化人でもありました。夢窓国師に帰依し、虎渓山永保寺を建立するなど、地域の文化・宗教面でも大きな足跡を残し、暦応2年(1339年)に69歳で没しました。





正中の変 正中元年(1324)

 元冠の来襲などで幕府の権威が失墜という好機を得て、後醍醐天皇(九十六代)は皇政の回復を志し密かに討幕の計画がされ、頼貞にも密命が届きます。
 頼貞の母は討てと言われた執権北条高時の姉であり、妻は八代執権時宗の弟北条宗頼の娘で、破れれば美濃源氏土岐氏の滅亡を意味します。土岐一族の安全を考え、総領たる自分は動かず、十男の頼兼を自分の代わりにこの密命に応じさせ、以後の天下の動きとその結果によって土岐一族の進退を決めることにしました。
 頼貞の十男の頼兼は一族の多治見国長・尾里国定・深沢定氏・猿子国行・萩原国実・船木頼春ら東濃諸氏を卒いて、京都に上りました。
 この討幕の企ては残念にも一族の舟木右近蔵人左近将監頼春(頼春の妻が六波羅探題の奉行斉藤利行の娘であった。)の裏切りによって事前に幕府方に伝わり、九月頼兼を初め一味の者は六波羅探題勢の夜討ちを受けて掘川にて戦死し、正中の変は失敗に終り日野資朝・俊基は捕われの身となりました。
 三条河原に晒された頼兼の首を家臣の根竹十郎がこれを奪って、南禅寺の知僧に会向を頼んだあと、京都を脱出して故郷に入り、鶴ヶ城の東の隠れ洞に埋めたあと自尽したといわれています。(一説には首級を奪った根竹十郎は南禅寺で会向を頼んで自尽し、二人のしるしが知僧によって郷里に届けられ、遺臣によって隠れ洞に埋蔵されたとも、頼兼の首は晒されず、敵中で自尽した時根竹が奪って逃れたとも云われています。)土岐鶴城の隠れ洞は自尽洞ともいい、この墓所には、五輪塔 三基、宝篋印塔 二基が建ち、根竹十郎の館は土岐川をはさんだ対岸にありました。


二代守護 土岐頼遠(とき よりとお)

 頼貞の七男で家督を継いで土岐氏二代目の守護となり、父に代って尊氏の下で活躍しました。
 美濃守護になった頼遠は土岐大富館では国を治するのに東に位置しすぎているので長森城(岐阜市)を築いて移住しました。
 頼遠は長森城を美濃国の府城に定めると、この地を中心として益々兵力を養い、長兄頼直(福光氏)を初め、兄弟の頼衡(船木氏)、頼連(墨俣氏)、頼仲(麻生氏)や一族諸氏をよくまとめ、幕府方のために活躍し、北朝の主戦力として美濃土岐氏の名を挙げ、南朝方からはその強兵振りを恐れられたものです。
 足利幕府のために戦功を重ねた頼遠も(一族でも根尾・饗庭・石谷・猿子・落合らの諸氏は南朝宮方)猛将にあり勝ちな乱暴な面も多く傲慢になり、暦応五年(興国三年)九月三日、京都で光厳上皇の御行列と会ったときに無礼を犯し、不敬の罪でその幕府に捕えられ、その年の十ニ月一日六条河原で斬罪に処せられました。
 斬罪のために法名・墓地共に明らかでないが岐阜長森 手力神社境内の宝篋印塔がその墓石といわれます。



濃州青野ヶ原合戦

 青野原は関ヶ原合戦とほぼ同じ地点で展開され、結果は幕府方の敗北に終りました。
 青野原敗戦に驚いた足利尊氏は、この宮方の大軍の入洛を防ぐべく、高師冬を急拠出動させ、ついで高師、細川頼之を増援に送って藤川に布陣させました。
 青野原に勝った北畠軍の謎の南転から、負けた幕軍は大局戦では有利となり、頼遠らは武功の勇士となって大いに名を挙げました。


三代守護 土岐頼康(とき よりやす)(善忠)

 頼康は伊予守護職となりながら早く病死した頼清の子で、二代守護職頼遠の甥です。
 政治手腕においては歴代中並外れた人で、叔父 頼遠らと共に早くから武家方として足利幕府に戦功もあり、頼遠の刑死の後は一族から推されて土岐総領となり、これに加えて尾張・伊勢の二国を合わせて三国の守護に任ぜられ、土岐氏は東海随一となり、足利幕府の中でも一、ニを競う重家となりました。
 貞和(正中)年中に長森城から革手城(岐阜市下川手)を築いてこれに移り、続いて城の北面には土岐氏の氏寺として霊薬山 正法寺を建立しました。
 一方土岐氏は頼康の土岐総領就任を不満とした叔父頼連(周済、墨俣氏)・頼直(福光氏)・頼胤(船木氏)らによって観応元年(1350 正平五年)に「周済の乱」がおきました。
 これは盟友「土岐内乱」として足利尊氏らが懸念した事件であり、尊氏は頼康を助けるため嫡男 義詮(ニ代将軍)を主将に、高師直を副将として三万の援軍を派遣し、この反乱軍を鎮圧し頼康の功に報いています。
 頼康は主筋であり、朋友でもあり、共に信頼し合った尊氏の死を悲しんで入道し名を善忠とこの時に改めました。
 美濃国においても同様で、周済の乱で弾圧を受けた反頼康派がこの時に反乱を起し、苦しい中から義詮が派遣した畠山国清を将とする救援によってようやく尾張・伊勢のこれらの反乱軍(義長氏光ら)を鎮圧しました。
 嘉慶元年(1387 元中四年)に頼康は父 頼清の菩提寺として建立した揖斐の瑞厳寺で七十歳の波乱の多い生涯を閉じ、自ら氏寺として建立した正法寺で盛大にその葬儀は行われました。






四代守護 土岐康行(とき やすゆき)(康之、義行)

 康行は三代守護 頼康の弟 土岐頼雄(揖斐城主)の長男で、頼康の養嗣子となって土岐氏を総領した人です。
 頼康が嘉慶元年に没し将軍 義満は、土岐氏打倒に乗り出しました。義満は善忠征伐の失敗後も引きつづいて雄族 土岐氏の勢力削減の機会をうかがっていました。
 「康行追討」は嘉慶二年(1388 元中五年)のことで、養父 頼康のときの土岐征伐から十年足らずのことであり、その頼康が死んでからは一年しか経っていませんでした。
 明徳元年(1390 元中七年)近江、飛騨の諸氏も追討軍に加えられ、ことに三度攻撃され揖斐の小島城も落ち、この年の三月康行は美濃守護職を免ぜられました。
 土岐氏の三国守護の時代は終り、三代将軍 義満の土岐勢力打倒の計画は成功しました。
 康行の実父 頼雄の墓は、揖斐城のある城台山の東麓の雲龍山 大興寺(揖斐川町)にあり五輪塔が現存して県の史跡に指定されています。



仏岩山 禅蔵寺(揖斐郡池田町願成寺)

 嘉慶ニ年(元中五年 1388)に始まる三国大守、四代守護 康行「征伐」の将となり、戦勝のあと将軍義満から美濃五代守護に任ぜられた西池田の頼忠(頼清の末子で、頼康、頼雄、直氏の弟)の開基で、建武三年(延元元年 1336)覚源禅師の開山です。頼世は足利幕府が樹立して池田を領すると自領に願成寺を建立しました。
 康行征伐のあと頼忠は美濃守護となり、明徳三年(元中七年 1392)には南北合朝から美濃守になり、四年八月十一日に天寿を全うして法名を禅蔵寺殿正庵真兼大居士として葬られました。
 禅蔵寺は濃尾平野、岐阜地域の一望出来る願成寺の高台にあり、今その墓は「頼忠母子の廟」として整備され、宝篋印塔が一族のものと共に祭られています。


五代守護 土岐頼忠(とき よりただ) (頼世)

 頼忠は伊予国守護となった頼清の四男です。その長兄が三代守護 頼康であり、次兄が揖斐出羽守蔵人 頼雄(四代守護康行及び尾張守護満貞の父)・伊予守宮内少輔直氏(詮直の父)は三兄弟です。
 頼忠は西池田を治めていましたが嘉慶年間の「康行追討」に際して一族の私情を越えて、甥 康行の土岐勢を追討した勲功によって明徳元年(1390 元中七年)将軍義満から五代守護に任ぜられ土岐総領となりました。
 頼世は高齢だったので美濃国守護になって五年目、義満が北山第金閣寺を造営した応永四年(1397)の八月天寿を全うして、池田町の西山麓、濃尾平野の一望出来る願成寺の高台に葬られました。


六代守護 土岐頼益(とき よります)

 頼益は頼世の子で、池田を継いていましたが四代守護 康行追討の幕命を受けると一族、肉身の私情を越えて追討の将となり老父 頼世をよく援けて戦功したことにより、父の没後(応永四年 1397)土岐総領、美濃守、守護職となって革手城に入りました。
 頼益は、太政大臣になって益々権力を増した三代将軍 義満や四代将軍 義持に信任されて、山名・一色・赤松・京極・上杉・伊勢・土岐のいわゆる「幕府七頭」の一家となって従五位下、左京大夫、侍所所司となり幕府足利家の重臣の一人に数えられました。
 頼益はその後も専心将軍家に尽して土岐氏の家勢を伸ばし信頼してもらっていた将軍 義満が死んでから六年後の応永二十一年(1414)まで新将軍 義持を助けて六十四才で亡くなりました。
 西濃の不破郡垂井町宮代、真禅院には鎌倉幕府二位の尼 政子が亡夫 頼朝の菩提のために南宮神社に寄進した県重要文化財「真禅院鉄塔」がありますが、破損した鉄塔を応永年間に改鋳し整え直したのが頼世、頼益の親子で「応永五年戊寅八月十日」の刻印があります。
 慶長五年関ケ原合戦に参加した西軍の長曽我部氏の軍がこの鉄塔をかまど代りに使用したために破損し、現在は主軸部の重層が残っているのみですが頼益らの刻印部はよくわかります。
 各務原市鵜沼の北済山大安寺に執権 斉藤利永(雁厳大功宗輔居士)のものと並んで宝篋印塔が建っています。


北斉山 大安寺(各務原市鵜沼)

 頼世の子 頼益は父と共に康行征伐に戦功があり、応永四年父の没後土岐総領となって六代美濃守護、美濃守となりました。
 大安寺は頼益の開基で、将軍義満に信頼されて家名を挙げた頼益は応永ニ十一年(1414)六十四歳の天寿を全うし、四月四日に残してここに葬られました。
 墓は大安寺の南墓地に整備されてあり、土岐三代の執権 斉藤利永(法名 龐厳大功宗輔居士 寛正元年五月ニ十七日卒)のものと並んで宝篋印塔が残っています。
 頼益の法名は興善院殿寿岳常保大居士といいます。


七代守護 土岐持益(とき もちます)

 持益は頼益の嫡男で四代将軍 義持の名の一字を賜り、左京大夫に任ぜられました。
 持益は四代将軍 義持、五代将軍 義量、六代将軍 義教、七代義勝、八代義政と目まぐるしく変った足利の各将軍をよく助け、美濃国守護職の役を果したが、晩年土岐総領継承の内争のあと、康正二年(1456)職を成頼に譲って隠居し、十八年後の「応仁の乱」の終末も近い文明六年六十九歳で亡くなりました。
 墓は各務原市鵜沼南町 承国寺廃寺にありましたが、現在は墓も寺もありません。


承国廃寺跡(各務原市鵜沼南町)

 頼益の子 持益は七代守護を継ぎ、父以来の執権 斉藤利永の内助を得て四代将軍 義持から八代将軍 義政まで、めまぐるしく代った五代の各将軍に仕え、美濃守護の任を果しましたが、晩年の康正二年(1456)相続のことから、破れて隠居し八代守護には執権 斉藤利永のおした一色兵部少輔義遠の子 成頼がなりました。持益は隠居生活十数年の後の、文明六年九月七日に亡くなりました。その法名は承国寺殿前左京兆常裕大助(裕公)居士といいます。
 承国寺の跡は各務原市の鵜沼で、名鉄鵜沼駅の西北200m程の処にあり、土手の跡が僅かに残り、土中に石造物の部分も埋っていますが、持益の墓は確認できません。


加納城跡(岐阜市加納丸之内)

 六代頼益、七代持益、八代成頼の三代にわたって土岐執権職をよく勤めた斉藤利永の居城とし、さらに府城 革手城防備の要所を兼ねて文安二年(1445)築城され、これから代々執権 斉藤氏の嫡流の居城と定められた城です。
 土岐減亡後、江戸時代の慶長六年には加納十万石(厚見、方県、本巣郡外)の領主 奥平美作守平信昌が入り、そのあと松平摂津守源忠政、松平飛弾守源忠隆、大久保加賀守藤原忠秀、そして寛永十六年には松平丹波守藤原光重が加納城十万石の主となっています。


八代守護 土岐成頼(とき なりより)

 成頼は美濃に亡命していた一色兵部少輔 義遠の子です。(一説には土岐一族、饗庭備中守元明の子とも云われています。)
 七代守護 持益には早世した嫡子 持兼の子で三才になる亀寿丸があり、持益もこの孫に総領を譲ろうとしたので、当然のように土岐家相続の内争が起きました。成頼を従えてこの争いに勝った斉藤利永の土岐家中における権力を絶体的なものとしました。
 美濃国は応仁の大乱には西軍山名持豊(宗全)の陣営に味方し、総領成頼は美濃勢八千余騎を率い、常に西軍の一大主隊として、十余年にわたって各地に転戦し、東濃岩村城の遠山景則、子彦太郎成益もこれに従って戦功を挙げています。
 戦乱の後期、文明五年(1473)にはこの美濃勢が西行し、入京さえしそうな勢いであったことから、これを阻止するために行われた東軍の牽制作戦、信濃の小笠原家長、木曽家豊を将とする東濃侵入軍を、土岐地区で防ぎ(この時に大井、荻之島両城は落され、恵那地方はこれから信濃国の勢力下に入りました。)土岐鶴ヶ城を固めると、その兵力をもって伊勢まで長距離を走り、世保(土岐政康)、長野、冨島、関氏ら伊勢衆連合軍で梅津城に攻撃し西軍の胆を冷やさせ、さらには京極氏、叡山衆徒の連合軍に攻撃されていた六角軍を救援し、それに止まらずさらに京極氏の分裂に乗じ、その勢力の半分を西軍側に引き入れるなど、超人的と言えるほど各方面でめざましく活躍しています。
 成頼は老臣 妙椿の死後、家督のことから城田寺(岐阜市城田寺)の舎衛寺に隠居し、後に加納城に移り、明応五年には安国寺(池田町)で入道して宗安と称し、米田館(美濃加茂市)において明応六年に亡くなりました。


城田寺 船田両城跡(岐阜市)

 八代守護 成頼が家督を末子 元頼に譲ろうとしたことから、九代守護職の相続をめぐって「城田寺、船田」の両合戦が起きました。
 明応四年(1495)に加納城には政房を従えた守護代 斉藤利国が入り、船田城(茜部)には元頼を従えた小守護代 石丸利光が入って三月から合戦となり、七月五日には革手、正法寺一帯で激戦が繰返され、利国側が勝って政房が九代守護となりました。
 負けて墨俣から近江に逃れて六角氏を頼った元頼方の利光、利高父子は再度兵を集めて翌五年の四月、成頼の隠居している城田城に入ったので「城田寺の戦」が起きました。
 利国側は近江の京極、佐々木、尾張の織田、越前の朝倉らの救援を得てこれを攻撃して勝ち、政房の九代守護職は安泰を得ました。
 この戦いには美濃国内の諸氏も二分して戦い、下石、小里、馬場などは利光方でした。
 四月末利光は戦死、六月には元頼は自尽し、元頼に意のあった成頼は加納城に移されて入道し、翌六年四月に没して、「美濃応仁乱」と言われたこの両合戦も片がつきました。
 城田寺は鷺山城の北方、城田寺の山腹がその跡ですが遺溝ははっきりわからず、現在この地には城田寺が建立されています。
 船田城は茜部にありましたが遺溝は今はわかりません。


金宝山 瑞龍寺(岐阜市寺町)

 八代守護成頼を開基として、その執権 斉藤妙椿が応仁元年主君のために建立したもので、開山は悟渓国師です。
 岐阜市金華山の南麓にあり「開基土岐成頼公、悟渓国師古道場金宝山瑞龍寺」の名にふさわしい広大な境内と伽藍がありましたが、天文五年、永録七年、慶長五年兵火にかかり、さらに昭和二十年太平洋戦争で焼失しましたが寺運は衰えることなく今も法灯は続いています。
 成頼は家督を元頼に譲りたいとして起きた「船田、城田寺の戦」に破れて隠居し、加納城・安国寺・米田館で余生を送って明応六年に亡くなりました。
 成頼の墓は境内西側に妙椿(持世院 文明十二年ニ月二十一日卒 没年七十歳)のものと並んで土鰻頭があり、その法名は瑞龍寺殿国文宗安大居士といいます。


大桑城跡(山県郡高富町大桑)

 大桑城は南泉寺の北方約二里、椿野の金鶏山上にその跡があります。
 築城は親羅三郎 義光の八代の孫 逸美又四郎重代によると伝えられてますが、明応年中に八代守護 成頼の次子定頼が大桑氏を称して以後ここをその城としていたものです。
 兄 頼純を追放して十一代守護の座についた頼芸もその実権を道三に奪われ、革手城から長良館に、天文三年にはこの大桑城へと移されてしまいました。
 天文十一年秋には道三に大桑城を囲まれて美濃国守護の地位を追われ、十一代に及んだ土岐氏の美濃国守護時代は終わりました。
 その後織田氏の力によって兄 頼純と共に頼芸は帰城するが再び天文十六年十一月に道三に攻められて尾張へのがれ、翌年織田、斉藤和睦によってその秋帰城、天文二十一年三度攻撃されて、頼芸の東国落ちとなりました。
 今も石垣、井戸跡などが面影を残しています。


九代守護 土岐政房(とき まさふさ)(頼継)

 頼継は成頼の嫡男で、将軍義政から一字をもらって政房と改名しました。
 守護代 斉藤利国らの尽力、近国諸氏をも含めた「美濃応仁の乱」とまで云われた船田城、城田寺合戦などの争乱のあとで、ようやく土岐総領の座についた新守護 政房は「舞踊が上手で、文学をよくする風流武将」という以外はさしたることもなしえず、美濃の国内も家中も共に小康を得ていたと思われます。
 政房も次ぎの家督相続による内争によって永正十四年(1517)隠居し、亡父 成頼と同様の途をたどって城田館に移され、ニ年後の永正十六年米田館(美濃加茂市)で亡くなりました。


成就廃寺跡(岐阜市茜部寺屋敷)

 成頼のあと守護代 斉藤利国に守られ「船田、城田寺の戦」のあと、九代美濃国守護となった政房の墓所です。
 政房は守護在職二十二年間、永正十四年(1517)には家督を頼芸に譲ろうとして果さず、十代守護には嫡男 頼純がなり、自分は城田寺、米田館(美濃加茂市)に隠居させられ、二年後の永正十六年に亡くなっています。
 政房の墓は岐阜市下茜部寺屋敷の茜部神社の北、市立保育園の裏にあり、一石造りの五輪塔があり、地輪に承隆寺殿海雲宗寿大禅定門の法名と没年が刻まれています。


十代守護 土岐頼純 (とき よりずみ)(政頼、盛頼)

 政房には八男一女の子があり、嫡男が頼純、次男が頼芸です。
 政房は次男 頼芸を寵愛してこれを土岐氏総領にしたいと考え、守護代斉藤氏の補佐役であり、実力者である小守護代長井利隆に頼芸を大切に育てさせました。
 一方守護代 斉藤利親の遺児 勝千代(新四郎利良)はこれを非として嫡男 頼純を主張したので、家督をめぐって土岐氏に紛争が起きました。永正十四年(1517)冬、頼純を主張した利良側が勝ち、十代守護職に政頼がなって革手城の主となり、政房は城田館に身を移しました。翌十五年の秋、利隆は再び頼芸を従えて革手を攻めました。頼純、利良は敗れて越前の朝倉孝景のもとに逃がれましたが、この「土岐争動」は朝倉氏から幕府に通報され、彼は京都に招かれて事の次第を報告し、幕府の力によって革手に帰り再び美濃国の主の座を守ることができました。
 大永五年(1525)春、京極氏は枯衰し、江州の地へ新興勢力浅井亮政が入り、さらにその勢力を広げようと八千余の兵を卒い、美濃攻略を志して西濃垂井に侵入し、大垣を攻略してこれに入り引続いて越前朝倉氏と合併し、一挙に革手城を攻略しようとして西濃に陣をかまえました。
 守護頼純はこれを防ぐべく、美濃の主力をもって西濃に出撃させたが「牧田の戦」で大敗しました。この時は東濃地方の土岐一族の果敢な救援によって、ようやく事なきを得たが、全国に及ぶ群雄割拠、弱肉強食とい
う戦国世相の濃くなりだした時だけに「斜陽の名家美濃源氏土岐氏」の感を如実に物語る一戦でした。
 大永七年(1527)、頼芸を従えた五千余りの西村勘九郎(斉藤道三)の革命軍に加納城を攻められ、不意をつかれた頼純は一族の救援も間に合わず、逃れて再び越前朝倉氏の元へ走り、頼芸が十一代守護の座につきました。
 頼純は天文十六年十一月、城中で亡くなり、大桑城の南方、父政 房の開基した南泉寺に葬られました。


瑞応山 南泉寺(山県郡高富町大桑)

 九代守護 政房の開基、法嗣仁岫宗寿の開山で永正十四年(1517)に建立され、十代守護頼純の墓がここにあります。
 頼純はこの南泉寺の建立された永正十四年に弟頼芸との家督争いに守護代 斉藤利良の援軍により勝ち、十代守護として革手城の主になるのであるが、翌十五年の秋には一度その座を追われ、二度目は大永七年(1527)に頼芸を従えた道三によって守護の座を追われ、その頼芸が道三に十一代守護の座を追われた後、道三追討の旗挙げを兄弟で大桑の城中で策し、こうした動きの中の天文十六年に悲運四十九年の生涯を閉じました。
 大桑の南泉寺裏山の墓所に頼純の五輪塔はあり、その基台に南泉寺殿玉岑珪公大禅定門、天文十六年丁未霜月十七日の法名及び没年の刻印があり、南泉寺には天文十八年の第三周忌に書かれた土岐頼純画像讃の画幅があります。


十一代守護 土岐頼芸(とき よりなり[よりのり])

 父 政房に愛された頼芸は、守護代斉藤家の家臣 長井利隆に守られていましたが、家督争いに永正十四年(1517)破れました。翌十五年には成功して兄政頼を一度越前に追いやりましたが、幕府の仲介で事成らず、鷺山城にその後入り、大永七年(1527)、長井の家老西村氏を継いだ松波庄五郎(道三、西村勘九郎)が兵五千をもって八月に革手城の政頼を急襲して勝つと、十一代の守護の座を得て美濃の主となりました。
 しかしこの後の土岐家の実権は長井家を手に入れて小守護代となった長井利政(庄五郎、道三秀龍)に移り、頼芸は天文元年(1532)に革手城を出て長良館へ、そして天文三年には大桑城へ移り、名のみの守護となりました。
 天文七年には守護代 斉藤利良が病にたおれ頼芸は美濃の名家斉藤の名を利政(道三)に与え、こうして政治は道三が行うことになりました。
 頼芸を中心として土岐一族は相集い、さきに越前朝倉氏の一乗谷へ身を寄せていた頼純と連絡をとり道三追討の兵を挙げました。
 天文十三年(1544)八月十五日、土岐諸士の全力に加えて頼芸は織田氏五千、政頼は朝倉氏七千の救援を得て立ち、瑞龍寺西南の広野で道三軍と戦いました。
 目端が利く道三は不利と見て和睦し、決戦を避け翌十四年には織田信秀の仲介で幕府の斡旋があり、守護兄弟は織田氏・朝倉氏に助けられ大桑城へ入り一度はおさまりました。
 織田軍と美濃の新らしい領主 道三との合戦はそれからも互いに続けられ、天文十六年には織田軍は美濃に侵入し、稲葉城下まで迫ったが勝敗を決するまでに至らず、織田軍は帰国しました。
 この後斉藤勢は反撃して織田方の大垣城を攻略し、次いで十一月政頼が病死して動揺中の大桑城を攻め、頼芸は再び逃れて織田氏へ身を寄せました。
 翌十七年秋、織田、斉藤両家は互いに和睦し、信秀の子、信長と道三の娘 濃姫が婚約したりし、この和解によって頼芸は三度大桑城へ入るのでした。
 こうして大桑城は引続き土岐一族による道三追討の本拠となったので天文二十一年(1552)道三は三度大桑城を攻め、頼芸とその次男 頼師(頼次)は家臣に守られ、青波を経て岐礼へ移り、そのあと頼芸は上総、常陸に流浪し、後甲斐に寄寓していたといわれています。
 頼芸は甲斐にいることニ十余年、自国を奪った道三追討を願っている内に斉藤は亡び、旧領回復を武田氏に期待している内に天正十年(1582)三月にはその武田も織田信長によって制され、頼芸は織田方に捕われられるが、旧臣稲葉一鉄の請いによって許され、一鉄の所領内で一度身を隠したこともある揖斐の岐礼(谷汲村)に身を寄せ、この年の十ニ月ここで亡くなりました。
 こうして足利時代の守護十一代、二百数十年に亘った美濃源氏土岐氏の主系はここに終りを告げ、美濃国の統治は斉藤、織田、豊臣氏に移っていきました。


鷺山城跡(岐阜市鷺山)

 十代守護の座を永年十四年の冬、兄 頼純と争って破れた頼芸が居城としました。
 この後、道三の館は東方山麓(現在神社)辺に築かれ、弘治ニ年(1556)の斉藤家父子の戦い(道三秀龍対高政義龍)の道三の本拠地として有名です。
 土岐氏の城は山上に築かれていたということであるがその跡は残っておらず、鷺山そのものも土木工事のため姿を変えつつあります。


長良館(岐阜市長良)

 天文元年(1532)頼芸は道三によって革手城を出て長良館に移り、そして二年後の天文三年には大桑城へ移り名のみの守護となり、実権は道三が握るのであるが、そんな土岐氏減亡への歴史の中に登場するのがこの長良館です。
 現在の岐阜大学の場所がその跡とされているが遺構は今はわかりません。


関連記事

  • カテゴリー

TOP