一日市場 八幡神社 御朱印
販売場所:一日市場八幡神社
販売日:土、日のみ販売
販売価格:1枚300円
美濃源氏発祥の地 一日市場館跡 神戸館(ごうどかん)
瑞浪市の一日市場館(神戸城)を中心にして土岐郡を治め、美濃源氏第一の勢力を得ていた源 光基の子光衡は、寿永三年(1184)一族を率いて鎌倉の頼朝の幕下となりました。
源家鎌倉幕府の開府によって美濃守護となり、土岐町 一日市場館(神戸館)を居館とし、神箆城(鶴ケ城)ほか各地に一族を配して本拠を整え、美濃国内の兵馬の権を掌握してその任にあたったと伝えられます。
八幡神社一帯は、土岐氏が平安末期から室町時代にかけて美濃国を統治する拠点とした一日市場館(ひといちばやかた)がありました。
もう舘の面影は残されていませんが、古屋敷・馬屋が崎(さき)・大門・大垣外(おおがいと)などの地名が残っています。
文献では群書類従本土岐系図・尊卑分脈光衡の付記に「美濃国守護となり、土岐美濃守と号して土岐郡神戸城に住す」とともにあるほか、土岐氏系図ほかの頼貞の付記に「一日市場の里に頼政(明?)の下屋敷あり」などと記されており、現在、八幡神社境内の周囲には土塁のあとが認められ、神戸館が鎌倉時代守護光衡および南北朝時代守護頼貞時の美濃国府の館となったことは確かといえます。
土岐氏の館はこのほか、清水(土岐町)、大富・浅野・高田(以上土岐市)などにも設けられ、下屋敷的なものは稲津・日吉・釜戸などにもあったと考えられるが、詳しくは伝えられていない。
土岐氏の分家に、本能寺の変で有名な明智光秀がいます。一日市場館の井戸水で湯あみしたという言い伝えがあります。
幕末の尊攘派の志士清河八郎の紀行文『西遊草』にも「明智光秀生まれたる処なり」と記述がありますが、他地区が有力であろうといわれています。
一日市場 八幡神社
祭神 応神天皇 旧村社 最古棟札:貞享四年(1687)六月修造
古くは土岐氏勧請による宮社といい、土岐氏一日市場居館(神戸館)跡にあります。正保年中(1644-7)岩村城主 丹羽初代氏信その小祠を再建し、さらに荒廃によりこの貞享四年 丹羽氏五代 氏音が大檀那となって再々建しました。別当社僧に快寿院・寿宝(保)院名らあり、寛保.文化以降の棟札が残っています。寛政六年(1796)在銘の陶製狛犬一対があります。岩村藩主代々崇敬の八幡神社です。
一日市場 八幡神社
瑞浪市土岐町402
【祭神】誉田別命
【例祭日】10月第2日曜日
【由緒】本社、御祭神は譽田別命であり、謚号を応神天皇と申し上げ奉る。天皇は、母后の胎中に在りて三韓を征伐せられ、後皇位に即かれた。文学工芸を外国より採用して、文化の基を開かせた、文武両道の神として朝野の尊信篤き神である。正保3年(1646)丙戌年8月岩村城主丹羽荘之助氏が、志願により建設された神社である。明治6年癸酉年1月13日村社に列したが、その他縁由は不詳。大正2年幣帛料供進の社格である。
正保3年(1646)岩村城主庭式部小輔氏信創建。貞享4年(1687)岩村城主庭庄之助氏音再建。爾来寺僧に祭祀を奉仕させ、郷土氏子に維持経営に当らせ、明治維新の頃神仏分離により寺僧を廃して、神職として専ら祭祀を勤めた。平成17年社務所を改新築した。又、土岐氏の家臣明智の子孫として光秀誕生の碑が境内に立てられている。
(岐阜県神社名鑑より)
祭神 譽田別命(ほむたわけのみこと)
八幡神社
瑞浪市土岐町402番地(一日市場)
土岐氏一日市場館跡に鎮座
境内は土岐氏の本拠一日市場館跡で、今も本殿の裏には土塁(どるい)の跡が残っています。
古くは土岐氏勧請の神社といわれていますが、現存最古の棟札は貞享4年(1687)六月修造を記したもので、岩村城主第五代丹羽庄之助氏音造営となっています。
その棟札には「正保丙戌年(1646)吾祖氏信が小祠を再建し、その後歳を経て基礎も傾き社殿が朽ちてきたので修造した」という意味の事が書かれています。
江戸時代、一日市場村は岩村領、木曽領、久々利領に三分されていましたが、この地は岩村領だったため城主の崇敬が篤く、社殿造営も成されたものと考えられます。
安政の大造営・安政7年還宮
江戸時代の終わり近くまで20〜30年ごとに屋根の葺き替えや小修理が行われてきましたが、その棟札には城主の名は残っていません。
そして、現在の立派な本殿が安政年間(1854-1860)に再建されました。嘉永六年(1853)春思立之事・再建取掛安政四年(1857)、還宮安政七年(1860)と造営の経過が、庄屋をはじめ時の役職をもつ人々の名とともに書き残されています。
棟梁は、立川建築で名高い信州諏訪郡の立川長三良、軒まわりの見事な彫刻は立川幸助真友・中澤源三郎2名の彫師の手に成るものです。
市内でも屈指の立派な造りで、幕末の騒然たる時代によくもこれ程の社殿を建てられたものと、当時の人々の情熱に深い感銘を覚えないわけにはまいりません。
珍しい木偶(でく)の首
棟札とともに十体あまりのの木偶の首が所蔵されています。大人の頭くらいのものから子供の頭ほどのものまで、表情もさまざまで、内部は刳(く)りぬいてあります。
市内では他に例のないめずらしいものですが、製作年代も使用目的もわからず、今後の研究が待たれるものです。
七夕祭安全祈願祭斎行
毎年8月のはじめに行われる七夕祭に先立って安全祈願祭が斎行され、以前はその後武者行列が街を練り歩くのが恒例となっていました。これも土岐氏ゆかりの神社として、特筆できることの一つです。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)
源土岐三郎光衡公
平安時代末期、清和源氏のいくつかの流れが美濃に勢力を広げ、美濃源氏と呼ばれていました。土岐氏は美濃源氏の名族で、十二世紀末、源光衡が美濃土岐郡に土着して名字に土岐の地名を冠しました。土岐一族の発祥です。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に、源頼朝の御家人として「土岐三郎」と出てくる人物が光衡です。
土岐氏は鎌倉時代には美濃の武士団で最大の勢力となり、南北朝動乱の初期(十四世紀前期)、土岐頼貞が足利尊氏に従って美濃守護となりました。三代目守護の頼康は美濃のみでなく、尾張・伊勢の守護をも兼務し、幕府内にも隠然たる勢力を持ちます。以来土岐氏は天文年間(1532~55)、土岐頼芸が斎藤道三に美濃を追われるまで、十一代 二百余年間にわたって美濃守護を歴任し、室町幕府では三管領職家に次ぐ家格をもって遇されました。
また、鎌倉時代以来、土岐氏は美濃一国はもちろんのこと、尾張・伊勢をはじめ全国各地に、明智・浅野・池尻・池田・石谷・稲木・乾・揖斐・今峰・大桑・小里・下石・久々利・郡戸・小柿・御器所・小弾正・佐良木・志段見・島・島田・曽我屋・高山・多治見・妻木・徳山・外山・長沢・長瀬・長森・長山・羽崎・蜂屋・浜・原・肥田・肥田瀬・深坂・船木・穂保・本荘・満喜・村山・屋井・世安・鷲巣など、領地の地名を名字に冠した数十家に及ぶ支族を分派しました。室町幕府では足利将軍の側近に、奉公衆と呼ばれる五ケ番編成の親衛隊があり、土岐支族で奉公衆となっている家は十数家を数えていました。本能寺の変で著名な明智光秀も土岐明智氏の出身です。
土岐一族の家紋は「水色桔梗紋」です。中世を通じ、水色桔梗の家紋をあしらった土岐一族の旗や幟が、数々の合戦場にはためいたのでした。土岐の桔梗紋は、ある合戦で桔梗
の花を手折って兜に挿したところ大朥利を得、これを嘉例として土岐家の定紋にしたことが始まりです。桔梗花を挿したのが何人であるか、確かな史料はありませんが、一説に光衡であると伝えています。
2020年(令和二年)は、土岐一族の歴史の研究と普及を目的とする美濃源氏フォーラムの設立三十周年に当たり、また、土岐一族出身の明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放映される年でもあります。
それらを記念し、ここに土岐一族の始祖である鎌倉幕府御家人 源土岐三郎光衡公の銅像を建立しました。
一日場館跡
現在地周辺は江戸時代の村名(一日市場村)にちなんで「一日市場」と呼ばれています。その村名の由来は明らかではありませんが、毎月一日あるいは一の付く日(一日・十ー日・二一日)に付近で市が立てられていたことによると考えられています。そして、この八幡神社付近は土岐一族の始祖とされる光衡が、その本拠として館を構えた場所と伝えられており、上記の地名から「一日市場館跡」と呼ばれています。
現在、明確な館の名残を見ることはできませんが、当地は北東から南西に流れる土岐川から10mほど標高差のある高台(段丘)の南端部にあたります。一般的に武士の館は見晴らしの良い高台や交通の要所に築かれることが多いことから、当地も武士が館を築くのに適した場所であったとみられます。また、明治8年に描かれた周辺の絵図(土地の境界を描いた絵図:地割図)には、八幡神社を含む周囲の土地が方形となるような地割が描かれており、この方形の地割が館の名残を示している可能性も考えられます。
さらに周辺には“税の免除された武士の直営田”を意味する「門田」・「佃」などの字名も残されているほか、詳細な場所は不明ながら「古屋敷」・「馬屋が崎」・「大門」などの地名(通称地名)も残されているなど、かつて武士の館が存在した可能性を濃厚に暗示しています。
加えて、八幡神社の周辺ではこれまでに平安時代末期~南北朝時代の中国陶磁や古瀬戸などの高級食器、また宴会などに用いられる土器の皿(かわらけ)などの破片も採集されており、付近には大きな経済力・権力を有する人物・一族が居住していたと考えられます。
以上のように、間接的な証拠ではありますが、当地に“土岐一族の館”が存在した可能性は十分に想定でき、今後は発掘調査や新史料の発見などによって直接的な証拠が見つかることが期待されます。
明智光秀公伝承
清和天皇に発した美濃源氏は一日市場館に土岐頼貞を初代守護として発祥した。
頼貞の九男頼基(よりもと)の子頼重が明智氏初代となった。八代頼尚の子頼典が文亀二年(1502)に土岐信友の高屋館に故あって居住、その孫として生まれたのが光秀で、一日市場館尾形の井戸水で湯浴み、二歳にして明智城代光安に引き取られたと古くから伝承されている。
長じて信長に仕え、坂本城等多くの城を構え推任日向守となり、天下統一の中核をなしたが、本能寺の変後、歴史からその名が消える運命となったが、今ここに蘇り、彗星の如く輝かんとしている。
平成十八年七月吉日 瑞浪明智光秀公顕彰会
灯篭
(享保九年・1724・対・甲辰八月十五日)
ー日市場八幡神社の陶製狛犬
一日市場八幡神社の寛政六年(1794)平野氏奉納のものは「大平窯妻木千石助庄右門作」 とあり、大川浅間神社の享和二年(1802)の川野氏奉納のものと同様式の「萱刈型」で同一人の作と考えられる。とすると前記大川八王子神社の享和のものとこれは大平窯千石助庄右門の作品となろうか。