■ 下街道

白山神社 瑞浪市明世町戸狩

明世町戸狩 白山神社

瑞浪市明世町戸狩字別荘886
【祭神】岐久理毘売命
【例祭日】10月第2日曜日
【由緒】戦国時代の終り頃、武田勢と織田勢の争いの中で、ここは武田方の砦があった所で、今でも石垣は残っている。神社の目の前の山頂にあり、昔は四方八方見渡す絶好の場所であった。戦国の苦難に生きて来た人々と神社、この白山神社にある一番古い棟札は安永(1777)に再建されたと記したものだが、おそらくずっと昔から社が祀られていたものと考えられる。一説には応永17年(1410)という説もある。稀に見るけわしい石段。185段あって、途中休所のない急勾配のきびしい石段。今は、あまりに危険なために通行止めにしてあり、脇参道を使用する事にしている。中央自動車道の開通で神域が一変して、前の社殿より更に高い所へ遷座。鉄筋コンクリート造りで重厚な構えの立派な神社である。祭当日は親子の獅子が村中を一巡して、厄払いするという巡行が行われているが、今日子どもさんが少なくて、頭の痛い課題の一つになっている。
(岐阜県神社名鑑より)

祭神 岐久理毘賣能命(きくりびめのみこと)
白山神社
瑞浪市明世町戸狩886番地(宇別荘)

戦国の苦難に生きた人々の社
 この白山神社にある一番古い棟札は、安永6年(1777)再建と記したものですが、応永17年(1410)創建という言い伝えがありますから、おそらくずっと昔からこの地に社が祀られていたものと考えられます。
 戦国時代の終わり頃、このあたりは武田勢と織田勢のぶつかり合う所で、武田方の砦が築かれ、今もその跡が残っています。
 この砦の大将が実に情容赦のない人物で、矢を防ぐ楯にするため、家々の戸を残らず狩り集めてしまったことから戸狩という地名が生まれたといわれるほど、人々はひどい目に合っていました。
 そうした苦しい暮らしの中で、村人は山上に祀った神様に、ひたすら平安無事を祈ったのではないでしょうか。

中央自動車道開通で神域一変
 かって、この白山神社は現在地より約40メートル南の静寂そのものという杜の中に奉祀されていました。
 ところが、中央自動車道の工事により、ちょうど社殿のある所が削り取られてしまうことになったため、昭和49年に移転改築されました。
 今の社殿は、周囲のひらけた山腹にあり、鉄筋コンクリート造りながら、銅板葺の屋根と白い壁がよく調和した重厚な構えになっています。
 周囲には石玉垣が巡らされ、鳥居、燈籠、狛犬等が整然と配置された美しい境内ですが、杜をもたぬため森厳さに乏しいのは致し方ありません。

稀に見るけわしい石段
 遷座の前は、杜の下から急な石段を上って参拝したものです。この石段は幅約1.5メートル、たいへんな急勾配で、しかも途中に踊り場が一つもないというきびしいものです。今もこの石段を仰ぐと、先人のひたむきな神明奉仕の心に打たれます。

珍しい獅子頭の御輿
 秋の例祭には、重さが30キロもある大きな獅子頭を中にして、前後に牡牝一対の子獅子の頭がつき、村内を一巡して厄祓いをするという珍しい御輿巡行が行われています。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)

明世町戸狩 白山神社

 この白山神社にある最古の棟札は、安永6年(1777)再建と記したものであるが、応永17年(1410)の創建との言い伝えもある。現在の社殿は中央自動車道の工事により、昭和49年に移転改築されたものである。

(瑞浪市下街道マップより)

灯籠

(明和六・一七六九・単・円・奉寄進・願主伊藤氏)

(ふるさとの石碑と灯篭より)

戸狩白山神社 祭神 白山比咩命 旧村社 最古棟札 安永六年(一七七七)八月再建 明世町戸狩
 白山社は安永六年再建の棟札を最古とするも、同社由緒書には応永十七年(一四一〇)創建、享保六年焼失同十一年(一七二六)再建とし、明世村誌には宝暦十年(一七六〇)再建とする。両者不一致につき今は不詳。天明・寛政以降の棟札あり、このうち
に林・加藤氏および村中による寛文十三年(一六七三)十一月若宮社造立の古札あり、もと若宮八幡なるか末社のものか今知らず。


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