萩原上平の諏訪神社は、経二〇糎ほどの球状の石が御神体として祀られている。
石神 自然球状石 経約20cm 萩原上平諏訪神社内
「古文書(諏訪森出入一件)に依れば、この石は昔工藤、愛知両家の先祖が信州諏訪大社から持ち帰った(寛政以前)もので、今も御神体として祀られている」
萩原諏訪神社境内の詞
氏神詞 流造型 H 50cm 刻銘 氏神
神宮詞 切妻型 H 50cm 刻銘 天神宮 願主 愛知氏 共に紀年銘なし
延命地蔵 舟形光背浮彫立像 萩原上平地内諏訪神社東小丘ノ上 H 62cm 刻銘
為法海行人 菩提 上平中 承応元年壬辰(1652)七月九日
上平の諏訪神社の境内には自然石に御嶽神社碑(明治三十八年一月日之出講と刻す)が建っている。
稲津には、江戸末期以降にかなりの御嶽山信者があり、講社も小里に覚明講、萩原に日之出講の二講社のあったことも明らかであるが、その二講社の経緯については、今後の解明を待つことにして、現在判明している事は、明治の半ばごろから現在に至るまでの間の稲津の御嶽講は、釜戸の(龍吟の滝を開いた先達)足立龍覚行者の講社系と天徳の源覚行者の講社系の二講社で、小里の講社は前者の覚明講社傘下で、萩原の日之出講は後者の傘下であるという。
覚明講は、釜戸の龍覚行者の死後は中津川の三浦喜三郎と坂本の小林善吉の両氏が講の世話をして来たが、昭和四十九年ごろからは小里の鈴木孝覚行者が龍覚行者の跡を継いで、東濃一円の覚明講の守護育成と御獄教の普及に専念している。萩原の日之出講は今のところこれという活動はみられない。
御獄神社碑 萩原上平諏訪神社境内 自然石
H 135cm W 78cm 刻銘 御嶽神社 明治三十八年(1905)一月良晨 台石に日之出講
(稲津の石造物より)
上平諏訪神社の起源
今から七百年ほど前(正応年間一二八八年)信州伊那郡小出村(現長野県紙伊那郡辰野町小野・諏訪湖の西)に工藤権右衛門・工藤縫右衛門の兄弟が居住して居た。
故あって、弟縫右衛門が住み慣れた諏訪を後にして、萩原に移住することとなり、名残を惜しんで鐙(あぶみ)の片足を持ってきたと言われた。
それから江戸時代(元禄の頃一六八八~一七〇四年)喜左衛門という人(小里城主助右衛門光明の妹を妻として男子二人女子一人が出来、女子は社家《神社に仕える家》愛知久太夫に嫁した)が先祖のことを確かめる為鐙の右片足を証拠として持ち愛知久太夫と同道し諏訪の嫡家を訪れた、名乗り合い鐙を引き合わせて工藤家の由来が判然とした。
よって信州の一宮である諏訪神社を参拝し、社頭の丸石一つを証として持ちかえり、萩原村の鬼門にあたる所(東北)に喜左衛門が願主となって工藤家一党の氏神として祀ったのが諏訪神社の起源である。
元禄十丑年十二月(一六九八)工藤久兵衛重明書を参考
※平成十三年九月 郷土出身の大竹四三氏(旧工藤)の浄財と氏子などの奉仕により石造りの祠に御神体を遷座鳥居を建立して境内を整えた。
(『萩原郷土史 水穴』より)