猿子七郎国行が砦の主で、国道19号線バイパス工事により少し削られました。
砦跡には、石詞(天明6年:1786)が祀られています。
築城の様式は、鎌倉時代の名門吉良氏により築かれた、東京世田谷の豪徳寺城内の世田谷城の様式と同じ造りです。
ここからは、瑞浪市街はもとより、東は鶴ケ城、西は土岐市まで見渡せます。
(土岐地区 郷土再発見より)
鶴ヶ城の出城
鎌倉時代の初期には、土岐氏の本城である鶴ケ城を中心にして、付近に出城(砦)が築かれ、一族が配置されてこれを守ったようです。
尾里砦(国定)・萩原砦(国実)・深沢砦(定氏)・市原砦(国宗)・猿子砦(国行)・市外では多治見砦(国長)・浅野砦(国氏)などの名が残り、正中の変にはそれぞれ従って戦死しています。