■ 寺院 石仏

神田桜観音堂 瑞浪市大湫町神田


神田桜観音堂

 神田桜観音堂は宿の北東、神田集落の北手にあり、元禄七年(一六九四)尾州藩木曽御領林の川並奉行所の守護仏(十一面観音)として建立され、以来御領林関係者の信仰だけでなく、桜の名所としても親しまれ、天保五年(一八三四)の尾州・近江らの同好者を含めての奉納観花旬額は貴重で、現堂宇は文政十一年(一八二八)の再建である。

(中山道ガイドブックより)

神田桜観音堂と石仏群

名号碑
 大湫町神田桜観音堂(文化八・一八一一・角柱塔・ ・未三月十五日・村中)

西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑
 大湫町神田桜観音堂(延享二・一七四五観音像・四国(四国順礼供養塔)

 大湫町神田桜観音堂のものは、十一面観音石像の光背部に「西国順礼供養塔」 とある古い部のもので、他の観音、地蔵石像らと並んで造立されており、ここでも四国順拝が行われていたことが知れるものです。

 神田の奥権現登り口にある桜観音の石仏群も享保十六年(一七三一)の地蔵から安永・文化の十一面観音と仲々のものです。文化二年の穴弘法、そして一面八背の享保十八年の弁財天石龕も明治の軍馬安全馬頭文字碑も見忘れてはいけません。四月末ならここの桜も見事で、かつての花の名所でもありました。

 

神田観音堂と石仏群

 元禄六年の神田の戸数は八戸、江戸末期でも十数戸を数える小村で、大湫観音堂に匹敵する立派な堂宇を建設していることには頭が下がる。
 享保十六年辛亥年の丸彫り地蔵尊、宝暦六丙子年観音、明和三丙成年観音、安永八、文化八年などすばらしい観音様が祀られている。

大湫神田馬頭観世音

神田権現社下穴仏

神田観音堂 青面金剛 安永八己亥ニ月吉日 庚申連中

神田観音堂 地蔵尊 不明

神田観音堂 馬頭観世音 明治二十七・八年 日清戦争軍用馬

 

 大湫・同神田観音堂をはじめ益見込山・木暮・羽広・論栃・高松などのものは立派で、これが村民たちの篤志によるものかと驚かされ、当時における庶民信仰の強さが改めて痛感される。

 神田観音堂は「桜観音」と呼ばれた桜の名所で、ここの桜の古株は文政十一年(一八二八)の現堂宇再建時の記念樹の名残りで、いずれもふるさとの歴史に関する古木といえます。

第七ニ話 神田桜観音堂の話

 神田といえばもともとは、旧大神田のことで、現在の字細久手・鴻ノ巣などは大湫に属していて北区の耕作地でした。
 その大神田の洞垣外に桜観音と呼ばれる観音堂がはじめて建立され、沢山の桜の木が植えられたのは、いまから三百年ほども前の元禄七年(一六九四)のことでした。
 それは、この年に尾州藩によって木曽御領林(ごりょうりん)伐採のための川並(かわなみ)役所が大湫宿に設けられ、奉行役所のほかに足軽長屋二〇棟も建てられ、尾州藩から赴任した上田五兵衛・水野和忠(五千石)両奉行の肝入りで、木曽谷中の山仕事の安全のための守護仏として創建されたことにはじまるのです。
 以来桜の木も大きくなり、本数もどんどん増やされて、川並奉行所や各番所、それに木曽御領林での山仕事に従事する三〇世帯ほどの樵人夫たちの深い信仰も受け、神田部落だけでなく、大湫の名所にもなって親しまれてきました。
 そのころの神田は、まだ「神田六軒」といって桐井二戸のほかは三輪・渡辺・三戸・吉村各一戸の計六戸だけでしたが、奥権現(白山社)と共に部落の寺社と思って大切にし、享保十六年(一七三一)に三輪氏が境内に地蔵尊石像を建てれば、同十八年には桐井氏が弁財天石像を寄進し、延享二年(一七四五)には残り全戸で十一面観音石像を建てるといった具合に境内整備にもつとめてきたのです。
 ところがその後、そうです。桜観音が創建されてから丁度九〇年ほど経った天明年中に、尾州藩の行政改革で山元(木曽福島)・川並(大湫)両奉行所が廃止されることになり大湫川並役所は大湫白木番所となり、大神田への樵(きこり)人夫の常駐制度も無くなってしまったのです。
 それでも部落の人々は桜観音堂を大切にし、文化二年(一八〇五)に穴弘法様を寄進したり、同八年には部落中で名号碑(念仏碑)を建てたりして、この桜観音堂を部落中の心の寄り所として守ってきました。ですが十戸に満たない部落とて仲々本堂の改修までは手が廻らず、一年一年痛みが酷くなり、享和・文化ころには流石の「桜観音」も荒廃しきって境内の桜だけが美しい名所となり、何んとかしたい!何んとかせねば!と思う数年がつづくようになりました。(S六三・四月号)

第七三話 神田桜観音堂の句額

 桜の名所として親しまれてきた神田桜観音堂が、すっかり昔の面影を失ったことから文政十年(一八二七)神田区では、宿役人とも協議を重ねて再建を決意し、大湫宿中の発起として尾州藩へ許可願いを出しました。
 なんと時の尾州藩の寺社奉行は、かっての創建者水野知忠の子孫忠栄(知多緒川・五千石)でした。自家との因縁だけでなく、もともと尾州御領林作業の守護仏であったという由緒のことからも水野奉行は大いに心を動かされ、「再建に協力しよう」という確約がなされたのです。こうして、直ちに工事の手配がなされ、立会人には本陣・脇本陣の両庄屋保々氏が当り、直接には神田の三輪・吉村両氏が、そして残りの全戸も連帯責任をもって完成させるということで着手されたのです。
 こうして、部落中、いや大湫宿中待望の、以前に勝るとも劣らない立派な本堂が完成したのは翌文政十一年八月のことで、棟領は釜戸村の小栗弥蔵父子。本尊以下の諸仏も名古屋城下の仏師によって塗金され、落慶式の導師は宗昌寺和尚。宿からは両保々氏のほか宿役五〇軒の者も、白木番所役人も出席し、近郷からの参詣者も参集して神田部落始まって以来という大法会が行われました。
 神田桜観音堂が立派に再建された三年後の天保二年には、有志による天保銭の見事な五重塔額も奉納され、さらに三年後の天保五年(一八三四)春には「桜観音・桜の名所復活」を喜んだ大湫宿と各白木番所の俳句グループ連中によって美濃・尾州・近江三国大句会も挙行されます。題は勿論『桜』で、現土岐市分九人・恵那郡四人・八百津六人らのほか尾州藩領からも二三人といった俳人らも集っての大句会で、当時の郷土先人たちの心意気に驚かされます。この時の六五人、一三〇句の俳句はニ枚の句額にして現在も大切に奉納されていますが、二・三名句を紹介するとつぎのようです。
〇 氷餅 出来るこの里 遅ざくら
〇 白雪も 歎くや峯の 桜かな
〇 行過ぎる 人も後見て 桜かな
〇 道問えば 花に指さす 主かな
〇 暮しよき さまよ桜の ーつ家
〇 常に目は 付けぬ山にも 桜かな
 郷土先人たちの活躍に、私たちも頑張らねば! と思います。 (S六三・五月号)
(平成九年春、区・町民の浄財で再び二度目の大改修工事完了!メデタシ!、メデタシ!)

 大湫町内一番目の古い地蔵尊は、皆さんもご存知の宝永八年(一七一一)の十三峠の「尻冷やし地蔵」と宗昌寺旧墓地のその兄弟地蔵で、ついでが享保八年(一七二三)の大湫観音堂境内の大型のものと、同十六年の神田桜観音境内のものです。

 神田桜観音境内には日清戦争に徴用された軍馬の無事を祈った明治二十七年建立の「軍馬安全」の文字碑もあり、大切だった馬を思う先人たちの心をこれら町内の馬頭石仏に知ることができますね。

「十一面観音」は「十一の顔で一度に数多くの衆生の苦悩を聞いて下さる仏」ということで信仰を受けた観音様で、町内では神田桜観音境内に延享二年(一七四五)と文化八年の二体が建てられています。
 延享といえば今から約二五〇年も前に当たります。また文化のものには「西国順礼供養塔」と彫られていて、この頃には大湫でもすでに西国三十三所霊場への順礼信仰があったことが判りますね。
 ついで、大湫町内では一体だけ、それも十一面と同じ神田桜観音境内に建立されている「千手観音」についてです。この千手観音も六変化観音のーつで「千本の手で一度に数多くの衆生を救済して下さる観音」ということで信仰を受けたものですが、安永十年(一七八一)建立のここのものは「十一面千手観音」といって六腎・十一面の像形に彫られた大変欲深い願いの「一度に何人でも、どんな悩みでも救済して下さる」という有難い、有難い観音石仏です。

 「弁財天」が神田桜観音境内に一体建てられています。弁財天は「利水・治水の水神、農業神」で、やがて音楽・知恵の神ともなり、さらに七福神にも加えられて「福徳の神」にもなったもので、建立場所は池・沼・川辺などの「水神」としてです。
 神田観音の桐井氏によるものも境内の池の中の立派な石竃(せきがん)に祀られており、天女姿でなく教典通りに剣・弓矢・鎌・斧などを持った八腎に彫られており、日吉町内の中山道弁天池のものより百年も古い享保十八年(一七三三)建立のものです。

 大湫神田組の鎮守は延喜式内社の神田明神を前身とすると伝えている神田白山権現神社(祭神 白山比咩[はくさんひめ]命)で、通称奥権現の名で呼ばれている。現在最古の棟札は寛延二年(一七四九)のものであるが古い部類の札には神明宮とあるものもあり、天明五年(一七八五)以降では白山大権現とあり、また里伝では釜戸刈安権現神社のある権現山城の武将が戦に破れて戦死(文明五年一七四三の応仁美濃乱時の大井・荻之島落城か)し、合戦坂から峯伝いに逃れた奥方は、ここに庵を建ててその菩提を弔った場所といい、また戦国期における藤村の三白山権現(藤・刈安・奥の三権現)はいづれも砦で、この奥権現社もそのーつともいい、式内社神田明神のことも合わせてその社歴は今後の研究を待つものである。現社は大岩を背にして建てられており、境内には五輪塔・宝箆印塔各一基があり、境内の整備は寛政九年(一七八九)になされているが、社前の低地には庵跡・尼池跡などと伝えられる跡があり、山頂に続く尾根には鷲岩と呼ばれる巨岩もあったりして前記里伝の信愚性を思わせる。またこの白山社への表参道ロに当る部落の洞垣外には桜観音の名で呼ばれる観音堂がある。これは荒廃していた小堂を尾州藩の大湫川並役所奉行水野和忠(知多郡緒川庄知行主・現東浦町緒川)が木曽川沿い見廻りの折りに参詣して惜しみ、元稼七年(一六九四)木曽御領林作業の守護仏として再建(本尊十一面観音)。その後荒廃して水野氏の子孫忠栄(尾州藩寺社奉行)が自家との由緒を聞いて文政十一年(一八二八)に大檀那となって現堂宇を再建したものであるが、境内にはこの再建以前の享保+六年(一七三一)をはじめ同十八年・宝暦六年(一七五六)のほか明和・安永・寛政らの石造物も多く残っていて由緒の古さが知れる。また境内の弁財天は桐井氏による享保十八年の、弘法大師石窟は組民による文化二年(一八〇五)の建立である。

(ふるさと大湫百話より)

大湫神田桜観音天保大句会

 さて瑞浪市内では、宝暦から寛政へと約三・四十年続いた第一期の文化開花のあと、約四十年ほどの間を置いて、天保年間から明治初年にかけての三・四十年間に再び第二期の文化開花期を迎えます。
 その第二期の文化開花のはじめと見られる奉納句額が、この大湫神田桜観音堂の天保五年(一八三四)と同十四年の小田高松観音のものなどです。
 さて、大湫町神田の桜観音堂は、元禄・宝永以来、桜堂薬師と同様に桜の名所としての由緒を持ちながら荒廃し、これを惜しんだ尾州藩木曽川白木役所奉行水野忠栄(知多郡緒川村知行主)が、大檀那となって文政十一年(一八二八)に現堂宇を再建したもので、この神田桜観音堂での観花句会は「元禄のむかしの春に立ちかえり 咲くや桜の観音の庭 氷山下亀遊」の再建棟札の一首のように再建後の天保五年に行われました。
 立派な奉納句額には俳譜でなく、俳句百三十句が選ばれており、この観花俳句会の参加者は大湫の十人、日吉五人、現土岐市分の久尻・妻木・浅野・柿野から九人、多治見一之倉から三人、恵那市分二人、落合二人、八百津錦織六人、太田ほかで四人、尾州から二十三人、近江竹生島から一人の総計六十五人という大勢で、さぞかし賑やかな句会、そして酒宴であったと思われるものです。
 ただ、この神田句会の参加者が瑞浪市内分では大湫の十人と半原の五人だけで、あとは妻木・久尻・一之倉らのほか、久須見・落合・錦織・太田・名古屋と片寄っており、どうも他所からの参加者は尾州藩木曽御領林の白木番所、つまり現在の営林署や山林・材木関係者を招待しての観花句会であったように思われます。
 願主は、神田の喜山と半原の土菴、世話人は大湫の花樵・雪耕・玉山・山裡・可仙、選者は名古屋の西竹堂得芝と半原雪堂山人土菴とあり、参加者の中には高松観音の天保十四年や慶応四年の光春院句額にも選ばれている人々の名も見られます。

 

 神田桜観音堂の享保十八年(一七三三)の弁財天像も一面八臂でやはり特記されます。

 神田奥権現境内に五輪・宝篋印塔各一基が伝説と共にありこれも特記されます。

十一面観音石像

 大湫町神田桜観音堂 (文化八・一八一一・十一面観音・二手・右手蓮華)

千手観音石像

 大湫町神田桜観音堂(安永十・一七八一・先手十一面・六臂・立・独尊)

馬頭観音石像

 大湫町神田桜観音境内(明治二十七年・一八九四・文字碑・軍馬・観音堂境内)

 大湫町神田桜観音堂の明治ニ十七年のものは「日清戦争用馬ニ付キ」山田町至重庵の昭和十五年のものは「軍馬貸付八十余頭霊位」とそれぞれ刻まれていて、出征兵士と全く同様に、村内から軍用馬として徴用出征して行った愛馬たちの安全を祈念した「馬頭観音文字碑」で、このころの先人たちと馬との関係に胸を打たれる造立例です。

地蔵菩薩石像

 大湫町神田桜観音堂(享保十六・一七三一・丸・立・合掌・講連中供養建立)
 神田桜観音の享保十六年の三輪氏と講連中による二体が共に丸彫りの立像で特記されます。

弁財天石像

 大湫町神田桜観音堂池(享保十八・一七三三・石寵・坐・八臂・境内の水神)

 大湫町神田桜観音堂のものは、向って左手の池の中の石龕に祀られています。尊相は慈顔ですが天女相とはいえず、八臂の坐像で奥壁に浮彫され、主手は右手に剣・左手に壷、第二手以下は弓・矢・鎌・斧などが認められ「享保十八発丑十二月吉日 神田村 施主桐井銀右衛門」とある古いものです。

弘法大師

 大湫町神田権現登口(文化二・一八〇五・丸・坐・石室に祀る・村中・三輪氏)

 神田桜観音堂の東端の奥権現登ロのものは石室に祀られた「穴弘法」で「文化二乙十一月 村中 三輪宗右衛門」とあるものです。

 


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