■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第29番】佛日山 明白禅寺 瑞浪市明世町

御本尊:釈迦牟尼佛(聖観世音菩薩、千手観世音菩薩、子安観世音菩薩)
宗 派:黄檗宗

 市内では珍しい黄檗宗の寺院です。唐の僧・黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来するこの宗派は、日本において臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗のひとつです。境内には花崗岩製の五輪塔があり、瑞浪市の有形文化財に指定されています。

御詠歌
しののめの  さとひろびろと 明白の
  しゃかのみこえを 花のかにのせ

 室町時代の後期(文明五年・1473または永正五年・1508)虎渓山の修行僧が招かれて明白庵を開基したといわれ臨済宗系の僧堂でした。永禄年中(1558-1570)に武田勢秋山・野村氏が東濃に侵入し、仁木(山中)藤九郎によって定林寺(土岐市泉町)とともに焼失したと伝えられています。以降明白庵は地蔵堂、定林寺は観音堂として復興されたといわれます。
 当山は延宝3年(1675)8月3日に法孫梅嶺の法弟雲峰元沖によって創建されました。雲峰は武田氏の家系といわれていますが詳細は不詳です。
 武田信玄の末孫 雲峰元沖和尚は、梅嶺道雪和尚に師事し、延宝3年嗣法をいただいたので、父為久の願っていた亡き武田勢慰霊のため行脚を志し、近江の国土田村正宗寺を旅立ち、甲斐に向かいました。
 三日を経て美濃国山野内村に入り、ちょうど日暮れになり一夜の宿を借るために庄屋に願い出たところ「この村は、武田勢の手先に多くの民家も焼失した」との話を聞き、雲峰和尚は、その場で明白庵の再建を村人の前で誓い、3年間の努力を重ねて完成し、明白寺としました。村人の誘めに随って住職として、のちに開山禅師として崇められました。この記録は、姉の了然尼に宛てた手紙に詳しく記されています。



明白寺開山五輪塔

 室町時代の後期に虎渓山の修行僧が招かれて明白庵を開基したと云われ、現明白寺地内より50メートル下の岩上にあった五輪塔を、明白寺開基と同時に、雲峯禅師に依って移祀されたと伝えています。
 いずれにしても、この五輪塔の高さは、137cmで、市内では最大級の五輪塔である。

開山納経塔

 納経塔は宝篋印塔に似ていますが、塔身以下の基壇が高く設計され、宗旨のお経を書写し、故人の冥福を祈ったものが多いようです。しかし時には、明白寺の五輪塔のように開山記念のために建立されたものもあり、名称は開山納経塔とされています。


万治の延命地蔵尊

閑唱真順阿闍利寄進 万治三年(1660)建立 堂に雲峰冲老和尚仮泊

(光・立・左宝珠・右錫杖(しゃくじょう)・高木地蔵)
 残念ながら造立年が刻まれていません。ただ92cmの像碑の側面に「山之内高木氏」とあり、古い像形であることから元禄期までの古い地蔵と思われます。


生飯台(さばだい)

 燈篭の下半分だけの様な台は生飯台という。生飯とは鬼界(きかい)の衆生(しゅじょう)に施す飯をいい食事に際し最上位者から飯を分けてこの台にのせるのである

享保八年癸卯霜月吉日(1723) 泉州石工半兵衛喜付


子安観音(子安観音供養像)

 山野内村の舟橋ぎんという産婆が子安観音を信仰し、取り上げた子どもは皆無事であった事から、霊験あらたかな掛軸を寺に奉納し、子安観音像を建立し毎年7月17日お祭りを行っています。


庚申像(青面金剛像)

(寛文五年・1665・明白寺入口辻・六瞥像・三猿)
 明世町明白寺入口辻のものは、市内庚申石像のうち寛文五年の古い造立で六臂の立像で三猿を伴っています。


三十三所観音石像

(寛政七年[1795]~文政六年(1823)ら・各年のものにて三十三体有り)

三十三所観音供養文字碑

(文政六年・1823・文字碑・奉納 十三所供養・村安全)


地蔵菩薩石像

(享保の頃・丸・立・右錫杖・左宝珠・裏扁平)
 明白寺のものは像高1m・台石ともで1.6mという丸彫りの立像で、造立年がありませんが享保ころ以前の古いものと思われます。


西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑

(昭和三・1982・板碑・西国四国秩父坂東(巡拝))
 山野内明白寺参道のものは松原氏による昭和三年の四霊場順拝碑で、昭和初年までこうしたことの行われていたことを後世に残す順拝記念碑でもあります。


経典読誦塔

(明治二十二・1889・般若心経百万遍供養塔(観音講中))
 明世町明白寺の参道右手のものも般若心経百万遍供養塔で「信者観音講中」とあり、黄檗宗高僧による見事な筆跡の読誦塔です。


境内灯篭

(宝暦十三・1763・単・角・弘法大師夜灯)

明白寺入ロ(年代不詳・単・火袋なし・総て自然石)


明白寺開山雲峯(うんぽう)大和尚の塔(無縫塔)

 江川正宗寺梅嶺の法弟、雲峰元沖が村民に招かれて明白庵の後にできた地蔵堂を引き、再創開山しました。


結界石(戒壇石)

 山門にあり「不許葷酒(くんしゅ)入山門」 とあります。

 延宝三年(1675)雲峯和尚創立の時には自然岩を山門として用いていましたが、現在の山門は昭和30年、大阪市の廃寺より譲り受けて再建したものです。
 自然岩は、縦240cm、横460cmの大岩で入口の左側、右側は連続する岩壁になっています。
 禁牌(きんぱい)の文字を刻銘してある所は、連子式短冊型(れんししきたんざくがた)で、縦167cm、巾25cm、文字の大きさは平均して縦横共20cm四角です。


延命地蔵

 像高103cm、蓮弁高19cm、円座高17cm、台石高18cm、像周囲100cmで刻銘はなしです。


山野内石篋(せっきょう)

 明白寺の山門東側の岩山の中復に建立された石篋は、明治22年と比較的新しいですが、刻銘中に、石工、信州高遠 平屋喜作 とあり、守屋貞治の高遠藩の政策の名残りと思えます。石篋内に木彫の如来像が一体安置されています。
 大きさは土台より屋根まで122cm 、塔巾は80cm、屋根巾106cm、高さ33cm、奥行90cm、覗穴縦9cm、横7cm、石篋の板石の厚さは21cm、これの右側には般若心経の経百万遍供養塔、願者観音講連中、164cmが建立されています。


治山治水碑(山野内井水論と治山治水祭)

 土地は農民の財産であり、凶・豊作は直ちに村の浮沈に関係した江戸時代にあっては、木草山における入会(いりあい)採草権以上に水利問題は大切であり、権利を犯されると村と村とが争論をおこしました。
 元禄十一年(1698)の岩村領山野内・河合両村は天狗沢(日吉川)井水論争をおこしたが話し合いはもつれ、遂に江戸評定所へ出訴し同十二年裁可があり山野内村が勝訴しました。
 享保十四(1729)山野内村と戸狩村が山論に及びこれも江戸へ出訴して勝訴したその後に、明白寺の和尚の提唱により、山野内村が安心して農業経営ができるのは先祖の遺徳であるから、感謝しなければならないと村役人に呼びかけ、これが機縁となって、毎年七月のお盆過ぎに明白寺の庭へ集まり、治山治水の感謝祭を行うようになったと伝えられています。
 このお祭りには水論で裁可された書類と山論で裁可された絵地図と裏書き証文を拡げ、村人に見せ、今後隣村と仲よくおつきあいすることを誓い合って延享元年甲子歳(1744)より今日まで続いていました。

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