■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第26番】巌谷山 清来寺 瑞浪市明世町

巌谷山 清来寺

御本尊:不動明王(聖観世音菩薩)
宗 派:天台寺門宗

御詠歌
かみとなり ほとけとなりて みずのなか
  かえんの中に たつも世のため

 岩屋不動で知られるこの寺は、天台寺門宗 三井寺の末寺で、源三位頼政が信奉する行基菩薩作の不動明王がありました。

 仁平3年(1153)京都の皇居(御所)紫宸殿(ししんでん)にヌエが現われ、天皇はなやまされ、頼政に退治を命ぜられました。
 この時頼政は信奉する不動明王の加護を祈願して、矢を放つと、首尾よく射止め退治することができました。
 それ故益々信仰を高め、治承4年(1180)自分の領地美濃 寺河戸村に天徳寺を建立し不動明王を奉安しました。

 旧天徳寺は、土岐氏の守護寺として神戸館(一日市場館)の北方、土岐町一日市場天徳に建立されていたと伝えられています。
 永徳年代(1381-1384)寺河戸村(一色)の南波氏が荒廃した天徳寺の跡から、不動明王を山中村(戸狩)の岩窟に遷したのが現在の岩屋不動の名をなす所以です。
 大永三年(1523)寺河戸村 河合円海師は岩屋に小庵を設け、村民の信仰を高めることとなりました。
 寛文元年(1661)地頭の許可を得て不動山 大聖寺となりましたが、明治維新の廃仏毀釈の難に遭い、この由緒ある大聖寺も途絶えてしまいました。
 延享四年(1747)中興しますが詳細不明、現寺は明治14年に巌谷山 清来寺として建立され、翌15年天台宗寺門派寺院として再々創されました。
 境内には、新四国八十八ケ所石仏、聖観音菩薩、地蔵菩薩、歓喜天、恵比寿大黒天、水子地蔵、稲荷大明神、縁起大明神等が祀られています。


前本尊 不動明王(焼失)

 天徳寺より移されていた不動明王は、昭和44年5月2日に焼けてしまいました。
 明世町清来寺の「岩屋不動尊」として知られていた前本尊の後背には「観応二年(1351)カノトノウ十二月廿三日」という片仮名まじりの銘文がありました。
 観応二年(1351)ころの美濃守護職は、尾張・伊勢の守護職も兼ねた土岐頼康の時で、瑞浪市の寺院は土岐氏の庇護(ひご)によって栄えていました。
 ヌエ退治の伝説による旧天徳寺の本尊と伝えられる一木彫成の立像で、制吨迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の二童子像を左右に供した見事な尊像でした。



新四国八十八ケ所石仏

三十三所観音石像

 (新旧三種にて新四国八十八所弘法尊と共に並ぶ)


六地蔵石像

(年代不詳・光・立・新四国石仏群の左端に観音と並ぶ)
 明世町戸狩清来寺のものも刻銘はありませんが、いづれも正しく彫られて、いまも新四国八十八霊場の観音・弘法石像らと共に参詣者の崇敬を受けています。


不動尊石像

(文化 三頃・1806頃・光・三十三所観音らと並ぶ)


刻経塔

 (宝暦三・1753・刻経塔・四面種子・四面陀羅尼文)
 清来寺のものは全高1.9mと基礎部がやや低いものの同様典型的な塔型のもので「岩屋山不動院大聖密寺現住 松岩智全快・仁山法師宜旦」とあって経典の供養塔であり、清来寺の前身が大聖寺であった史実を実証する塔でもあります。


納経供養塔

 この納経塔は、中興より8年後の宝暦五年(1755)とあるので、延享四年(1747)中興された頃に建立されたものと思われます。


開山無縫塔

 刻銘は、天和二(1683)壬戊十二月十七日、大阿闍梨(あじゃり)元瑞園海法印(中興開山は河合園海)権大僧都(ごんのだいそうず)とある。
 中興開山の無縫塔は、海抜230mの巌谷山の山頂にあり、東は恵那山・木曽連山を遠くに、近くは屏風山に対面し、眼下は瑞浪市中心部を一望できる所で、桜の不動山にふさわしい眺望佳良の頂点に建立されています。


大黒天尊


文殊菩薩


弘法大師像


縁起明神

 加納家の普請工事で田中より出土、安政三(1856)丙辰年梅月吉祥日の霊符あり。高さ18cm、頭部周33cm、下部31cm、茎部の長さ10.5cmで霊符裏に「安政二(1855)乙卯年八月 就安宅普請東方の田地より此石掘出す実珎石故に神と崇め家内安全子孫長久金神昇風水旱虫除平日の心願に仰って更に縁起明神と称し祀を取建祭る。願主 加納亦助 国道拡巾工事で詞をとりこわし、清来寺へ移祀す。」とある。


五日恵比寿

(1月5日)
 享和元年(1801)1月、寺号清来寺となる前の岩屋山 大聖寺(だいしょうじ)が無住職時代に、戸狩村有識者が岩屋の岩窟に新社を造り、西宮大神宮より大黒天尊を迎えました。戸狩村では1月7日を祭日として祭りを行っていました。
 その後一時途絶えていましたが、先代住職、武田俊照師が昭和10年(1935)1月7日午前0時、再び開帳し祭りが再開されました。
 昭和27年(1952)に主催を寺から瑞浪商工会に一切移し、祭りも盛大に行うようになり、参拝客も年々多くなってきました。しかし、平成9年(1997)、瑞浪スタンプ店会(前瑞浪商工会)が解散し、再び清来寺に祭祀(さいし)の催しが移されました。
 五日恵比寿は他の地域にもありますが、ここには近郊近在より多数の人々がお参りに来られ、家内安全、商売繁盛のお札を手にした参拝客で終日賑わい、寒さにもかかわらず長年の行事として続いています。
 祭り元は戸狩区の役員数十名で、年末から諸準備に取りかかり、当日は午前2時より五平餅・田楽・おでん・甘酒などを用意し、参拝客のもてなしをします。


清来寺のいろは紅葉

 清来寺はJR瑞浪駅の北西の山中に位置し、中央自動車道のガードをくぐり長い参道を登りきった所にあります。近くにある岩屋不動でその名を知られています。
 ここはかつて桜が有名で、夜桜見物にたくさんの人が訪れ、夜店が出るほどの賑わいだったそうです。
 しかし、桜は老木となり、その多くは伐られてしまい、現在では紅葉が主となっています。
 この紅葉は、寺を取り囲むようにおよそ40本程あり、古いものは樹齢100年以上になるのではないかとの話です。秋になると、それはそれはみごとに色づいて真っ赤になります。寺を訪れた人が、とてもきれいだからと枝をもらい挿し木をしても、育った木は不思議なことに赤く色づかないということです。


稲荷神社


厚見伊兵衛

 30代で教職を退き、大正から昭和の時代まで、瑞浪地区をはじめ恵那方面に、「活け花」を献身的に青年団を中心として普及された厚見伊兵衛氏は昭和3年、同18年に活け花の写真集も発行され、清来寺には今も大切に保存されています。


ビカリアの森

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