御本尊 薬師瑠璃光如来
聖観世音菩薩
宗 派:曹洞宗
御詠歌
もろ人に しょびょうなかれと ねがひつつ
るりのくすりを あたえまします
慶安四年(1651)創立とされていますが、寛永五年(1628)の記録もあり、宝林寺由来記にも「妙仙寺天禅この里の薬師の草庵に住し、後に廃す」とあるので、前身に薬師の小庵があったともいわれています。
薬王山 宝林寺は、岩村城主の菩提寺妙仙寺の末寺であり、慶安四年(1651)岩村妙仙寺の前住斧峰牛により曹洞宗寺院として開山されたといいます。以降も妙仙寺の前住による隠住が多くあり、宝林寺四世密雲要芝もその一人で、彼は元禄八年(1695)土岐順礼集の前文や、同十二年には桜堂観音堂記を筆稿し、宝永元年(1704)には堂宇を再建して中興となっています。



納経塔



宝林寺納経塔は宝篋印塔で、11世大胤和尚の時代、明和三年(1766)頃、疫病が流行し、その退散と、平癒祈願のために建塔されたと伝えられています。碑文によると、その年、疫病が流行し、その退散と平癒祈願の為に建塔したもので、塔側に「一字礼観音心経 如来安置御門庭 全身舎施七宝塔 羅竦天宮入地冥、是経一巻三千五百二十三字 一字三拝而敬書大塔之中安置維時明和三丙戊花月日 宝林十一世大胤禅梁書」と印されています。銘文から宝林寺十一世の大胤和尚が観音経を三拝礼しては一字づつ写経して塔内に納経したことがわかり、その碑文は宝林寺十一世の大胤禅梁和尚の書です。
子安観音



交通安全地蔵尊















名号碑
宝林寺墓地(上野町墓地)(正保5・1648・剣型碑・正保五稔戊子初夏十五日)
題目碑・写経塔
宝林寺境内(延宝7・1679・題目・一字一石塔・南無妙法蓮華経・角柱塔)
宮前町宝林寺の一字一石塔は、納経塔(宝篋印塔)と並んでいる角柱塔で、正面に「南無妙法蓮華経」他面に「一石一字一番一頂一礼願 経塔〇写経〇心赫〇実相銘日 旹延宝七己未歳南呂念七月 土岐郡寺河戸村宝林禅寺住密雲謹書」とあるもので、銘文中の南路は八月、念七日は二十七日、密雲とは宝林寺四世で桜堂由来記や土岐郡三十三霊場の前文を書いた仲々の学僧密雲要芝和尚のことです。
銘文から密雲和尚が法華経文か七字題目を一石(普通丸石)に一字づつ書写して埋めてこの塔を建立した一字一石供養塔であることが判ります。
水鉢
上野町(宝林寺墓地)(享保9・1724・奉寄進・観音講・甲辰歳九月奉堂)
水面は扇型 上巾49cm、下巾26cm、深さ10cm、縦長26cm、縁の厚さ6cm、総高65cm、自然石。
刻銘は「享保九甲辰歳九月十八日 泰堂 奉寄進 観音講」とある。
三十三所観音石像
上野町宝林寺墓地(寛政五~天保十四・各種合わせて概ね半数有り )
地蔵菩薩石像
上野町宝林寺墓地(正徳3・1713・光・立・合掌・墓碑地蔵)
薬王山宝林寺 納経塔
本尊 薬師瑠璃光如来で、慶安4年(1651)創立というも、寛永5年(1628)の記帳あり、宝林寺由来記にも「岩村妙仙寺天禅この里の草庵に住し、後に廃す」とあればあるいは前身に薬師の小庵の存在が認知される。この寺の境内にある納経塔の塔身の下段の台石に「是経一巻三千五百二十三字、一字三押して敬書し、大角之中に安置す」(南側)維時明和三丙戊(1766)花月日 宝林十一世大胤禅梁書(東側)「一宇礼観音心経 如来安置護門庭 全身舎 七宝塔羅疎天宮八地冥」(北側)など該銘してある。塔形は、前述、月吉大応寺の構造と相似している。
碑文によると、その年、疫病が流行し、その退散と、平癒祈願のために建塔されたものである。
幕藩体制の確立が、農民に粗衣、粗食を強要し、その上重労働を課した。その上、現代のように防疫対策や予防注射があるわけでなく薬品による治療も不備な時代だったから、貧困な庶民は神仏の加持祈蒔や迷信的な呪い物、即ち護り札やお水、呪文に頼ることが多かったのではなかろうか。
こう推理してくると、宝林寺の供養塔に刻銘された文字は、当時を偲ばせる大切な記念物としなければならない。
宝林寺墓地内の水鉢
水面は扇型 上巾49cm、下巾26cm、深さ10cm、縦長26cm、縁の厚さ6cm、総高65cm、自然石。
刻銘は「享保九甲辰歳九月十八日 泰堂 奉寄進 観音講」とある。
寛永5年(1628)の帳あり、慶安4年(1651)岩村妙仙寺牛鈯創
慶応2年(1866)・宝林寺に寺小屋開講さる
薬王山 宝林寺 本尊 薬師瑠璃光如来 宮前町
慶安4年(1651)創立というも寛永5年(1628)の帳あり、宝林寺由来記にも「妙仙寺天禅この里の薬師の草庵に住し、後に廃す」とあればあるいは前身に薬師の小庵の存在を知る。慶安四年岩村妙仙寺の前住斧峰牛鈯請われて曹洞宗寺院として開山す。以降も妙仙寺の前住による隠住のこと多く、宝林寺四世密雲要芝もその一人にて、彼は元禄8年(1695)土岐順礼集の前文を賛し、同12年には桜堂観音堂記を筆稿し、宝永元年(1704)には堂宇を再建して中興となっている。慶安創立以降の累代は次のとおりである。なお始祖天禅はその縁によって宝林寺二代に載せられている。
斧峰牛鈯 天禅牛運 石峯牛鉄 密雲要芝 天綸雲章 見翁慧雲 曹滴一渓 地照紹天 希山禅苗 瑞国禅義 大胤禅梁 不徹梅橋 逸雄慧俊 寿岳太量 一参得明 霊鳳歓兮 常光密玄 密山海印 臥雲玄竜 大円黙通 天契隆道 穆山仙英
寺河戸、宝林寺境内に明和3年(1766)に建立した宝篋印塔がある。碑文によると、その年、疫病が流行し、その退散と平癒祈願の為に建塔したもので、塔側に「是経、一巻三千五百ニ十三字、一字三拝して敬書し大角之中に安置す」と印されている。
その碑文は宝林寺十一世の大胤禅梁和尚の書である。
宝林寺の過去帳に「即元意休居士」(医師)貞享ニ年(一六八五)正月五日没」とある。この医師の姓名は解らないが元禄以前に寺河戸村に居た事がわかる。
鎮守の祭りに狂言を催す様になった起源は分明しないが、「宝林権興由来記」(宝林寺蔵)は次の様に伝えている。(原文漢文)
四世中興大和尚(密雲禅師)此の山に住する初め、しばしば山王権現の奇瑞を感得する事あり。故に勧請(分霊を移す事)して当山に鎮守となして崇敬す(略)神徳新なり。故に里人信敬して常に参詣す。(略)当山祭記繁栄すること此れより発足せりと、毎年八月祭日において恭しく御供神酒を供えて法楽し奉る。時に村内壮年の衆、当寺に集りて酒興の余り各々思い思いに座敷の遊興を催して皆夫々芸能、歌舞なして祭日を賑わせり。毎歳神祭の日は打ち寄り祭酒の杯組合せ酒興募りて歌舞伎をなす。綿々として今に至る。けだし神祭出動の役者、幼年及び三十三により、当寺の席において各々議定すと云々。
これにより祭礼狂言が初められた時代を、推定すると享保(1735)以降の様である。祭礼狂言興行については何処でも若い衆が担当したものである。右の由来記によれば寺河戸村では、33歳以下の者が役者を勤める事に申し合わされていたと云うのである。
寺河戸村の集議所に付いては「本荘日記」に明治七年七月二十九日、寺河戸村宝林寺に区内集会あり、(議題として)同村集議所と定めし事とある、之に依り宝林寺に、集議所を置いた事が解る。
明治12年3月10日宝林寺梵鐘を犬山にて鋳直す。4月3日梵鐘来る、5月5日鐘供養挙行