市の南西に位置するこのお寺のご本尊は釈迦牟尼仏です。白壁が美しい本堂はお寺には珍しい北向き。子安地蔵の子育守本墓で、厚く信仰されています。
「開創由緒」によると応永廿癸巳年(1413)8月、石見国の正善によって万場という場所に万場観音(辻御堂)として開堂されたと伝えられています。爾後正保3丙戊年(1646)8月(寛文五年[1665]12月とも)、瑞林寺の法弟加茂郡比久見妙楽寺五世絶心の隠居寺としての弟子一岩恵超にて再創され、下組を檀家とし大悲山通源寺と改称されました。
勧請開山妙楽五世絶心和尚、その後本寺九世鰲潭(ごうたん)和尚が来てここに住んでいましたが、明和5戊子年(1768)(明和6年[1769]とも)4月同村字紺屋原の現在地に移転建立し、明治43年京都妙心寺へ寺籍調査表が提出され、宗派図に記載されています。明和8年(1771)下石村林清次右衛門により楚鐘を寄進されました。明治21年4月21日 に通源寺山門が建てられました。明治24年通源寺の管理であった高松観音(馬頭観世音)を正宗寺に渡しました。
当寺は臨済宗正法山妙心禅寺の末寺で、東海派下仁済門派の本尊は聖観世音菩薩と古書に見られますが、いつの頃からか釈迦牟尼仏本尊となりました。
その裏には子安地蔵堂があり、子どもの安全健康を祈る姿が見られ、夏の地蔵盆には多くの参拝者があります。
子安地蔵菩薩
通源寺本堂南側の別堂に祀られている子安地蔵菩薩は、そもそも明治40年(1907) 9月に建立されたものです。当時は本堂東側の別堂に祀られていて、毎年4月10日に御供養の行事がされていました。しかし、昭和34年(1959) 9月の伊勢湾台風でお堂が崩壊し、子安地蔵は止む無く本堂内に持ち込まれていました。今から31年前の昭和55年(1980)、篤志家(とくしか)から子安地蔵堂建立寄進の申し出があり、本堂南側に新しいお堂が建立されました。それ以降、毎年8月に子安地蔵祭礼を行うようになりました。また、下小田区の夏祭りを共催し、地域の人たちのコミュニケーションの場となっています。
子安地蔵菩薩は子どもが授かることを願い、安産と子どもたちの健やかな成長を祈願することにより、ご利益が得られると言い伝えられています。
御詠歌
だいひさん こうえんかすか
風はこぶ
ほとけにつうず もとの山でら
宗派/臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
所在地/瑞浪市西小田町2-2
TEL0572-68-3994
累代僧侶
開山 絶心大和尚 天和二戊年三月十五日迂化
二世 一岩超公首座(一岩恵超) 宝永元申年七月十六日迂化
三世 積岩智普 宝永四亥年九月廿大日寂
四世 模(僕)道恵諄 宝暦五亥年正月十八日寂
五世 鰲潭和尚 安永八亥年九月廿五日迂化
明和五子年ョリ同六丑年両年ニ下まんばヨリ今ノ地え堂宇不残移し給ふ、依て中興開山ト云、現今ノ地ハ上下入会ノ井山ヲ鰲潭和尚村方ョリ貰ひ被成候
六世 寂堂(寂道)禅師 寛政十二申年四月四日寂
七世 万栄宗俊 弘化四未年三月廿四日寂
内臓・外科医者上手ナリ、浅井マガイと申候、信州善光寺開帳え参詣、同所大地震ノ夜、美濃宿坊ニ止宿、家潰即死
八世 測州智黙 嘉永七寅年六月八日寂
前住宗俊ト肉縁ノ兄弟ナリ
祖敬 主
嘉永三戌年二月廿八日、正宗寺弟子入寺、安政三辰年十一月迄七カ年住持致候処、正宗寺宗詮首座迂化ニ付、引戻しニ相成
九(十一)世 的叟恵班
加茂郡細目村大仙寺玉凾和尚ノ弟子ナリ、釜戸村光春院ヨリ移ル、安政三辰年十一月入寺、慶応三寅年三月首座号請、慶応四辰年四月十二日転職、的叟和尚ト号ス、同年閏四月五日晋山、伝法ハ小本山妙薬寺■洲和尚ヨリ分法ナリ、(此時ヨリ始メテ和尚地トナル) 明治元年~明治二九年 加茂郡鵜沼八百津大仙寺出身
(十一世) 比佐田澄訓 明治三〇年~明治三七年 多治見永保寺出身
十世 澄訓和尚
十一世(十二世) 白木無道 明治三八年~昭和二一年
十二世(十三世) 関宗信(関宗義信) 昭和二二年~ 山梨県北巨摩郡岐阜瑞竜寺
十三世 興道宗実
地蔵菩薩石像
小田町通源寺境内(寛文十三・一六七三(同年と判読可能か)・光・立・左宝珠・右錫杖・銘文)
小田町通源寺のものは、台坐ともで1.25mの像碑に二行も銘文が刻まれています。風化のために解読が難しく、僅かに「寛文十三丑歳仲春」とだけ読むことができます。像形も古い形式のものです。
刻経塔
小田町通源寺境内(宝暦三・一七五三・刻経塔・四面種子・戒名列記)
小田町通源寺のものは現在修理中ですが台座部に戒名が列記され「宝暦三癸酉二月 施主山野内村〇〇」とあって先祖の供養のために建立された刻経塔です。