■ 三河街道

瑞浪橋北詰 道標  瑞浪市寺河戸町

瑞浪橋北詰 道標

寺河戸町瑞浪橋詰辻・大正一一・一九ニニ 新駄知道と新西本町道との辻・「右明世村ヲ経テ多治見ニ至ル 約三里 左駄知ニ至ル 一里十町 三河ニ通ズ」

 

瑞浪橋北詰めの道標

刻銘 右 明世村ヲ経テ多治見ニ至ル約三里  左 駄知町ニ至ル壹里十丁、三河ニ通ス 大正十一年五月建立  土屋千吉・本荘貞吉  高さ一五五cm、台座コンクリート巻き高さ四〇cm 巾二三・五cm。

 

一九〇四 昭和三七年・瑞浪橋架設す ・土岐川大洪水、瑞浪橋をはじめ大半の橋流失する
一九〇五 昭和三八年・瑞浪橋再架設さる

(瑞浪市の歴史より)

瑞浪橋(常盤橋)

 中央線が開通して瑞浪駅ができると、瑞浪駅と稲津、陶、明智、岩村、駄知等各地を結ぶ道路の整備、橋梁の建設が必要になってきた。「瑞浪村議案及議決書」に三十六年度瑞浪村役場事務概況報告土木の項に常盤橋(現瑞浪橋)の工事の様子を伝える記録がある。

 土木事業に付いては昨年洪水の為め土岐川堤防において急破あり 大修繕を為したるは寺河戸区一 小田区一 亦道路橋梁にありては瑞浪停車場に至たりたる橋梁寺河戸区内に於て大に新設改修を要す 之れが請願のため同区有志者と共に村長出縣五回に及ぶ 既に新設成りたる者三着手中の者橋梁一道路二件あり 山田区は改修二修繕二件あり 小田区は改修一修繕一橋梁改修一件あり

 常盤橋は、瑞浪駅と駄知、三河を結ぶ道路の橋として、明治三十七年(一九〇四)五月に完成した。当時川南地区は、土地が低く橋を架けるには土を盛り上げなければならなかったため大工事となった。六月一日に開通式が盛大に行われた。

 ところがようやく完成した橋も七月十日より降り始めた豪雨によって、十一日午前二時に流失してしまった。直ちに修復工事が行われ、明治三十八年(一九〇五)に完成した。当時の橋は、現在の橋よりも低く板橋であった。その後老朽化が進み、昭和二年(一九二七)に長さ約五四メートル 幅約四・五メートルの永久橋が架けられた。工費は、三万六千円であった。現在の橋は、平成元年(一九八九)に架設された。

(瑞浪市史 近代編産業より)

 瑞浪駅前の道路が完成すると、駅前より西に折れ橋を渡って一色~山田に通じる道を「三河街道」 と呼ぶ様になった。
 この道路の開設に付いて問題となったのは「常盤橋」(現瑞浪橋)の架設であった。
 当時、河南地区は現在の加倉堂の辺が断層となり以北は低地であった為に架橋するには河岸(橋の南詰)まで土盛りをし道路を構築しなければならなかった。その大工事も完成し常盤橋が竣工したのは明治三十七年五月中旬である。
 かくして新三河街道、駄知道が完成したが翌三十七年七月十日より降り始めた豪雨は一大出水となり土岐川筋の橋梁を悉く流出して了った、新設の常盤橋も十一日午前二時流出し川沿い一体の被害は甚大であった。直に橋の修復工事が施行された、当時の橋は現在のそれより低く木橋であった。その後老朽した為、昭和二年架替工事を実施した、八月一日着工し長さ三十間幅二間半の永久橋として完成したのが十月三日である。工費三万六千円を要した新装「瑞浪橋」の渡橋式を十二月五日に挙行した、戦后地方産業の開発と交通量の激増に伴い、路面の破損と幅員の狭まさが交通に支障を期たす様になり幅員の拡長が企劃され昭和四十年八月改築された。

(土岐川上郷明治百年史より)


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