小里 白山神社
瑞浪市稲津町小里1709
【祭神】白山比咩命
【境内社】稲荷神社・津島神社・御鍬神社・天神神社・金刀比羅神社
【例祭日】10月第2日曜日
【由緒】天正18年(1590)9月11日美濃国土岐郡小里村字羽廣組志顧により加賀国石河郡白山神社より勧請。古来村社。
(岐阜県神社名鑑より)
祭神 菊理姫命(きくりひめのみこと)(白山比咩命(しらやまひめのみこと)
白山神社
瑞浪市稲津町小里1709番地(羽広)
小里川左岸の羽広区内、中根街道を少し登ると、羽広区の鎮守白山神社の明神鳥居が目に止まります。
急な石段を上り、参道を百メートル程歩き、もう一つの石段を上りますと、白山神社の大前です。この拝殿は大正3年に再建、再建を切っ掛けに、翌々年に村社へ昇格になりました。
見事な本殿
この白山神社は、慶長3年(1598)羽広村志願により加賀国石河郡白山神社(石川県白山比咩神社)より勧請、羽広村の産土様として奉祀されたものです。
棟札によりますと、此の羽広村は天領でしたが、明知城主第八代遠山兵庫頭頼景公は白山神社を信仰され度々参拝あり、其の度毎に幣帛(へいはく)(お供え)を寄せられたとあります。
今の本殿は明治26年10月に再建、総欅造の見事な本殿を二十余戸で造営するには、氏子等が筆舌に表わすことの出来ぬ苦労を積み重ねたと棟札に詳細に書いてあります。
また宝暦9年(1759年)の陶製と、弘化3年(1846)下石佐右衛門広国作の瓦製の狛犬各一対がありいずれも貴重なものと評価されています。
中根古墳
白山神社から東南50メートルほどの山中に、墳丘の経14メートル、高さ2.5メートルの古墳があります。今は開口しており、奥行9メートル、巾1.7メートルで瑞浪市内ではやや大の部に属する石室と言われ、石室内に稲荷神社が祀られています。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)
四角型燈寵
角竿
小里羽広白山神社境内
H136cm 基壇一段H18cm
刻銘
竿部 御神燈 安永六丁酉[山木山](一七七七)八月二日
四角型燈龍
角竿
小里羽広白山神社鳥居横
H238cm 基壇二段H51cm
刻銘
竿部 大小神祗 白山宮 牛頭天王
天保十三壬寅(一八四二)霜月
基礎石 若連中
羽広の白山神社には、明治四十一年建立の明神鳥居が一基在る。
秋葉大権現祠
小里羽広白山神社境内
流造型
H83cm
刻銘
文政三庚辰才(一八二〇)十一月十六日
若連中
石室内の木札に
「土岐郡羽広村建之
秋葉大権現一社
名主 水野 兵蔵
組頭 中山彦右衛門
惣村 氏子
文政□十一月吉日」
と墨銘あり
厳島神社祠
小里羽広白山神社境内
流造型
H85cm
刻銘
厳島神社
天保十三壬寅(一八四二)十二月 日
大国主神祠
小里羽広白山神社東山中
流造型 H85cm
刻銘 大国主神 慶応四年戊辰(一八六八)正月吉日
柴田岩蔵外九氏名
金毘羅大権現詞
小里羽広白山神社東山中
切妻型 H48cm
刻銘
金毘羅大権現
文化十五寅(一八一八)正月
社寺号標石
角柱石
小里羽広白山神社前
H178cm W18cm D18cm
刻銘
村社白山神社
日露役従軍者建之
明治四十三年(一九一〇)十二月吉日建之
石段
小里羽広白山神社
五〇段 W170cm
袖石 W15cm
袖親石
四基
山状角柱石
H42cm W18cm D18cm
一段 H18.5cm
刻銘
若連中
文政十三庚寅歳(一八三〇)
石工 信州高遠 中村 住人 守屋嘉兵ェ藤原 為義
H28cm(地上) W18cm D18cm
(稲津の石造物より)
灯籠
稲津町羽広白山神社(安永六・一七七七・単・御神灯)
稲津町羽広白山神社前(天保十三・一八四二・単・白山宮・牛頭天王・大小神祇)
陶製狛犬
羽広白山(宝暦九年)
羽広白山神社は、文化十一年(一八一四)の辻灯篭も立派で、村高僅か五五石の小村の鎮守とは思えません。
社殿右奥の山中で、いまは稲荷社も祀られている中根古墳も見学しましょう。
羽広白山社石段
総段数 七八段 下方 五〇段
上りつめた右の標柱 一八・五cm方の高さ五四cmの南側に
若連中
西側に
文政十三庚寅歳
陶製狛犬
土岐町清水の八幡神杜のものと、稲津町羽広の白山神社の宝暦九年(一七五九)のものは、作風が与左衛門頼重作の八王子神社
のものによく似ています。
羽広白山神社
祭神白山比咩命 伊弉冊命 旧村社 最古棟札 明和三年(一七六六)再建 稲津町小里
明和三年の再建札を最古とするも慶長三年八月勧請の棟札写あり信ずべし、明和・安永・天明以降の棟札あり、羽広村の産土神
として祭祀される。宝暦九年の陶製および弘化三年の瓦製狛犬各一対あり。
羽広白山神社(稲津)には「宝暦九年(一七五九)」の陶製と「弘化三年(一八四六)」の瓦焼の二対がある。 宝暦の狛犬の作者は不明で、弘化のものは「佐右衛門広国・中山氏奉納」とあり、作風は大川八王子神社の天保のものおよび、土岐清水八幡神社の「安政六年(一八五九)日比野氏奉納」のものと同一人によるものと考えられ、[〈サ]は「佐」に通じるからこの三対は下石佐右衛門広国の作品と考えられる。