■ 下街道

稲荷境の馬頭観音 瑞浪市土岐町名滝

名滝 稲荷境の馬頭観音

 江戸時代、岩村藩領の名滝と、旗本馬場氏領の公文垣内との村境を巡って争いが続いていましたが、文政12年(1829)半原村(日吉町)の村瀬家と土屋家の仲立ちで話がまとまり、両村で馬頭観音を建てたと言われています。
 ちなみに釜戸町公文垣内と土岐町名滝の境界は、この2体の馬頭観音の間が境です。

(土岐地区 郷土再発見より)

稲荷境の馬頭観世音

 神箆(土岐町名滝)、釜戸村両境、和泉(いずみ)鳥屋における境界論争は享保年中(一七一六)に端を発し、年をかさねること久しく、これに加えて、稲荷山の森境論がおきて、公文垣内村と、神箆村名滝との間にもめごとが続いた。
 文政十二年(一八三〇)に至って、半原村の村瀬家、土屋家の仲立ちによって、遂に、双方の和解をみた。そして現今の境界に決着を見るに至った。以来再び紛争を起こさない為に稲荷境界地点に、両村より三面六臂(さんめんろっぴ)の観音像を建立して、永久の証としている。なおこれの消息は半原村の村瀬家の記録に明らかにされている。

(瑞浪の石造物より)

稲荷境馬頭観音

 むかし神箆村(土岐町名滝:岩村藩領)と公文垣内村(釜戸町:旗本馬場氏領)の間で、稲荷山の山境をめぐって争いが起き、文政12年(1830)になってようやく大湫村・半原村両庄屋の仲立ちにより和解を見た。以来再び争いを起こさないため、境界地点に両村より三面六臂の馬頭観音像を寄進、永久の証とした。

(瑞浪市下街道マップより)


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