中切八幡神社は釜戸町中切地区に所在する神社で、大昔から祠が祀られていた場所に旗本馬場氏が八幡神を祀ったものといわれます。鳥居は神社の本殿へ至る階段の上り口に立てられており、鳥居の中で最も一般的な明神鳥居と呼ばれる形状です。高さは4.55メートル、最大幅は5.8メートルと市内最大級で、材質には良質の花崗岩が用いられており、遺存状態も良好です。
石材には以下の文字が彫られており、江戸時代に釜戸を治めた旗本馬場氏6代目の馬場讃岐守尚繁が、享保12年(1727年)に泉州日根郡(現・大阪府)から山内与一郎なる石工を招いてこれを造立し、八幡神社へ寄進したものであることが知られます。
享保十二丁未歳十月吉日
承馬場三郎左衛門尉源尚繁之命
松井喜兵衛正茂令石匠彫刻焉
泉州日根郡信達之庄中村
石工 山内与一郎
なお、この鳥居はかつて現在地から南東に50メートル程離れた場所にありましたが、平成25年8月に修復を兼ねて現在地へ移されました。
釜戸町中切 八幡神社
瑞浪市釜戸町1239(中切)
【祭神】誉田別命(応神天皇)
【例祭日】10月第2日曜日
【由緒】慶長年間(1596-1615)創祀。創立年月日不詳。慶長12年(1607)8月15日旧幕府旗本馬場平左衛門再興古来村社である。中切八幡神社のシンボルは旧国道19号(下街道)のほとりに立つ石烏居である。
享保12年(1727)時の領主馬場尚繁寄進のこの石鳥居は、泉州(大阪) の石工山内与一郎の作で、昭和58年に市から文化財の指定を受けた立派なものである。石鳥居の傍らを通って森に近づくと、延111段の急な石段が仰がれ、それを上ると、拝殿の下の馬場へ出る。150坪ほどのこの馬場には、昔秋祭の時、馬や屋台が出てたいへん賑わったが、今では子ども相撲が行われているだけである。さて、この八幡神社は樫の古木に覆われた小高い山の上に鎮座されているが、大昔から村人達がここに小祠を祀っていた所へ、関ヶ原合戦後この地の領主となった馬場氏が源氏の氏神八幡神を祀ったという。
(岐阜県神社名鑑より)
祭神 譽田別命(ほむたわけのみこと) (応神天皇[おうじんてんのう])
八幡神社
瑞浪市釜戸町1239番地(中切)
かって釜戸村宗社(そうしゃ)石鳥居は市指定文化財
中切八幡神社のシンボルは旧国道十九号 (下街道)のほとりに立つ石鳥居です。
享保12年(1727)時の領主馬場尚繁寄進のこの石鳥居は、泉州 (大阪)の石工山内与一郎の作で、昭和58年に市から文化財の指定を受けた立派なものです。
石鳥居の傍らを通って森に近づくと、延111段の急な石段が仰がれ、それを上ると、拝殿の下の馬場へ出ます。150坪ほどのこの馬場には、昔秋祭の時、馬や屋台が出てたいへん賑わったといいますが、今では子供相撲が行われているだけです。
さて、この八幡神社は樫の古木に覆われた小高い山の上に鎮座されていますが、大昔から村人達がここに小祠を祀っていた所へ、関ヶ原合戦後この地の領主となった馬場氏が源氏の氏神八幡神を祀ったものです。
祭神譽田別命は応神天皇の別名で、国内統一と国の安定を大いに進められた天皇として朝廷や武士達の信仰をあつめられた方です。
源氏の末裔馬場氏はここに八幡神社を建て、釜戸村の宗社(中心になる神社)としました。
現在の本殿は、間口二間、奥行一間の桧皮葺流造で覆殿の下にあります。
拝殿は、平成3年御大典記念として新築されました。
本殿の裏から西側にかけて巨岩が重なり、その中の一つに嘉永4年 (1851)太政官より神職を拝命した酒井式部源由正が所信を詠んだ歌が刻まれています。
今日よりは
神に仕うる身にしあれば
君と民との幸祈るなり
境内になっているこの小山の麓には、大きな岩で囲まれたカマド形になった所があり、釜戸の地名がここから生まれたといわれています。
石段の西には、馬場氏と縁の深い極楽寺という寺の跡があり、また、本殿の近くには八幡神社の管理運営をめぐる中切区と町屋区の争いを記した碑が立つ等、この村の人々のくらしと信仰の歴史をうかがうことができます。
昔の賑わいには及びませんが、十年程前子供御輿が新造され、例祭には中切をくまなく練り歩き、祭の継承を図っております。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)