■ 神社 神様

白山権現社 稲荷神社 瑞浪市大湫町

権現社

 神田の白山権現は釜戸刈安権現、藤の白山権現と共に三権現と呼ばれ、特にこの神田権現は、古代の神名帳にのる神田明神と(新撰美濃誌)伝えられている。ここで特筆すべきことは三本支之木の太い桧材の鳥居と、山神と水神が並祀されていることである。山神は二体、水神と共に変体漢字を使用しているのも珍らしい。

神田権現社下 穴地蔵 文化ニ乙丑十一月吉日 以下不明

神田権現社 山神 年号なし
神田権現社 水神 年号なし

 

 美濃国神名帳(938~960)には、土岐郡七杜のうち、市内で酒波・神野・尋河の三杜(大県明神を入れると四杜)が載せられているほか、式内社の神田明神は大湫町の神田権現杜でないかといわれていること。(新撰美濃志)

荻之島城

 応仁の乱に伴って、美濃勢の後方を攪乱しようとした信濃勢が東濃に侵入し、この時大井・荻之島城は落されます。女たちと傷兵はともに山中に逃れたと伝えられ、城は現在の大久後の権現山、逃れた先は神田の奥権現といわれています。

 平安朝時代の国内の著名な神杜をしるしたものに延喜式内社帳があり、これよりも少しあとに県内三四五杜の神社名を書いた「美濃国神名帳(938~960)」があります。
 これに載っている神社を「帳内杜」といいますが、土岐郡七社のうちに瑞浪市分では、正一位酒波大神(日吉町南垣外)・従五位下尋河明神(日吉町田高戸)・従五位下神野明神(土岐町鶴城)の三社が載っています。
 このほかに鎮座地不詳の従五位下大県明神は、釜戸町上平の大県神社でないかといわれ、式内杜加茂郡九座の中にある座地不詳の従五位下神田明神は、大湫町神田の神田権現社であろうともいわれており(新撰美濃志)、すでにこのころ市内には三~五の神杜が所在していたことがわかります。

・神祇神名帳に美濃国三九座載り、加茂郡九座の中に神田明神の名あり

 平安朝以来の酒波神社(日吉町南垣外)、諏訪神社(土岐町鶴城)、尋河神社(日吉町田高戸)に加えて大県神社(釜戸町上平)、神田白山権現社(大湫町神田)、日之宮(日吉町宿洞社別当)、月之宮(明世町月吉)や三条中将の伝説による小田町の八剣・気比両神社、初期土岐氏との関係という小里八幡神社ほかの存在がある。

荻之島落城の裡伝

 落城についての裡伝は「主人及び多くの戦死者を出して敗戦した城主の妻は、傷ついた数人の部下に守られて城を脱出し、峯づたいに数十町北の奥権現山の石窟に隠れ、やがて尼となって庵を建て、主人を始めとする戦死者の菩提を弔った」というもので神田白山権現社のある奥権現山(大湫町神田)にはもっともらしい石窟もニヵ所あり、尼寺跡・尼池などと呼ぶ跡も残っている。もちろん真偽の程は別として、頼兼の戦死に伴うその夫人の鶴ヶ城落ちの哀話と共に、郷土に残る落城にまつわる伝説として記してみた。

 大湫地区では大湫神明・同白山と神田白山権現の三社がある。このうち神田の白山権現は釜戸刈安権現、藤白山権現とともに三権現と呼ばれ、特にこの神田権現は古代の神名帳に載る加茂郡神田明神であろう(新撰美濃志)といわれるものであるが、他宮社同様勿論当時の遺物は伝承されておらず不明である。

 神田白山権現神社 祭神 白山比咩命  旧無格社 最古棟札 寛延二年(一七四九)十一月再建 大湫町神田

 加賀の白山を一望する六五六メートルの神田奥権現山の中腹にあり。神名帳に載る加茂神田明神はここならん(新撰美濃志)というも今は不詳、巨岩屹立し古記の記述を思わす。現在は寛延二年再建の棟札を最古のものとし寛政以降の札を存するのみ。


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