■ 下街道

国定忠治石碑 瑞浪市明世町

国定忠治のつたえ

 文化七年三月二十日上州佐位群国定村に生まれた。子どもの時から度胸勇気賢さは他をおさえ十六才まで五惇堂で朱子学を修め剣道は馬庭念流を本間道場で極めた。翌年動機があって侠客に入り五年後百々の紋次の跡目を継いだ。肉を切らせて骨を切り骨を切らせて人を斬る。渡世の意地で島村の伊三郎を討ち、その名を四方にとどろかせた。往来の任侠心と当時の政情から必然的に民衆の味方となり堅気の衆には喧嘩かゆすり、恐喝、一切を禁じ放火恐喝は厳禁し貧者には衣類、金、食料を与え尊王攘夷派浪人の悪を断ち治安確保につとめた。救民のため支配者に対し反抗を余儀なくした。天保九年夏、全国大手配となったため二十人の子分をつれ木曽路を江州に逃れたが道々に人の命を助けた。忠治大明神のいわれである。現に近況の人々は諸病、厄除、諸人の助けとうたい忠治を慕っている。
 昭和四十九年九月二十日
  群馬県佐賀郡東村大字国定
   養寿寺住職 浅若祐昭
   同県同村教育委員会 野口俊美

(現地碑より)

国定忠治石碑

「赤城の山も今宵限リ…」の名セリフでお馴染みの固定忠治の墓が、世にも不思議なことにこの地にあり、一度訪ねてみては。

(釜戸再発見mapより)


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