■ 中山道

中山道 弁財天の池 瑞浪市日吉町


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 大湫宿と細久手宿の中間に位置し、太田南畝の「壬戌紀行」にも「小さき池あり 杜若(かきつばた)生ひしげれり 池の中に弁財天の宮あり」と記述された750㎡ほどの浅い池で、小島に天保7(1836)年に再建された石祠があります。

8月頃 八丁トンボがみられるかもしれません。

4月下旬~5月中旬 すいれん・かきつばたが満開です。


久作は貧しい小作百姓でした。そこで街道の馬子もつとめて暮らしをたてていました。
 2番目の娘のお花がひどいほうそうを患っていて、このままでは顔にひどいアバタが残ってしまうと心配していました。
 その日も細久手宿からお客さんを乗せて大湫宿へ向かいました。その途中、木立の中の池に弁天様がまつってありました。
 「弁天様、どうかお花の顔にアバタができませんように。あなたのように美しい顔に、うちのお花もしてやって下さい」と一心におがみました。
 その日のお客様に薬の作り方を教わり、弁天様へかかさずお祈りもしました。するとお花の病気も癒えてアバタは少しも残りませんでした。
 大喜びで弁天様のところへお礼参りに行き、弁天様のお顔をみると…馬頭観音に見間違えるような顔になってしまっていました。
 「弁天様がお花の身代りになって下された。ありがたや、ありがたや。」と久作は、うれし涙を流して何度もお礼をいいました。
 今も木立の中の美しい池に弁天様の祠が静かにたたずんでいます。
●この昔話は、「ふるさと瑞浪」のお話のあらすじを短くして掲載しています。

弁財天の池

 焼坂につづく天神坂を西へ下ると道の右(北)手に弁財天の池がある。ここからは南方に屏風山も一望され中山道の名所のーつに数えられ、大田南畝の壬戊紀行(じんじゅつきこう)にも「左の方に小さき池あり 杜若(かきつぱた)生い茂れり 池の中に弁財天の宮あり」とあるもので、石祠には八臂に彫られた元文五年(一七四〇)の弁財天が祀られている。池は尾根道にありながらいつも水を湛え、壬戊紀行の杜若はいまも群生していて初夏には美しい花を咲かせ、探訪者の憩いの場所になっいてる。

(中山道ガイドブックより)

弁財天(日吉町南垣内中仙道路傍)

 天部のーで女神、妙音天とも、また単に弁天とも呼ばれる。人が弁財を具定することによって福智を増益し、延寿財宝をうることができ、かつ天災地変を消滅し戦勝を獲ることができるとの教説は、金光明最勝王経、大日経などに述べられているので、この信仰は早くからわが国に紹介され、普及した。わが国では、もっぱら福徳財宝の神たる七福人のーとして盛んに崇拝された。
 旧中山道筋の路傍に池あり、岸辺より五m内に小島あり、弁財天を祀る。天保七年建立、千村氏及びその家来大山氏及木股氏の建立によるもので石仏龕作りである。尚市内には、この外に、桜堂薬師の弁財天の再建(岩村藩主丹羽氏二代氏定・慶安四年、(一六五一)。釜戸天猷寺の弁財天は寄進された竿灯籠の刻銘に「宝暦十庚辰年十月下旬、当山鎮守大弁財尊天元統天置〇」とあるから、(一七六〇)には建立されていたものと推定される。また明世町山野内区内土岐川右岸の和合淵の山腹(旧下街道筋)には、南垣外の弁財天同様の石仏龕式の弁財天が建立されている。
 総高一三六cm、軒巾六五cm、土台巾六〇cm、基壇巾八九・五cm、像高三三cmの座像、奥行七六cm
 刻銘は 宝暦十庚辰六月 山野内村中(一七六〇)
 同村施主 安藤市兵衛 借碑 とある。
 尚、像は後壁の石を一五cm浮彫りにした立派なものであるが、昔の旧道筋のため、人も通らず、夏ともなれば、夏草の生い繁るままになっている。

日吉中山道筋 仏寵造り 天保七丙申第十五代千村五歩源征重

 

やせ沢に 弁財天の ある故か 霞引くなる びわの山坂
  十返舎一九(木曽街道膝栗毛)


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