南垣外の田の神は、字石神に岩神と名つくる大盤石あり、その上に祀ってある。新撰美濃誌によれば「境外の南の田の中に、頼政石と名つけし大石あり。」
濃陽志略に「謹按頼政領二神箆一不二経見一或云土岐兵庫頭頼明領二美濃一頼政嘗任二兵庫頭一且其名共有二頼字一故後世以頼明為二頼政一然可児郡有二左馬允奉政城跡一奉政乃頼政之弟則頼政於二濃州一不無所由一姑侯後君子」としるせり。
頼政石とは伝説になっているようだが水田の真只中の大岩の上の田の神はみごとである。
(瑞浪の石造物より)

日吉町酒波神社縁起に「昔従三位源頼政美濃神箆村を領せし時之を創建」とあるほか、同社の境内に末社頼政神社があり「永禄二年(1559)再建」 の棟札ほかが現存し「頼政石」と呼ばれる岩が同地区内に残っている。
(瑞浪市史 歴史編より)
源頼政(1104-1180)は、平安後期の武将で源三位頼政、源三位入道とも称され、源氏のなかでも特に文武に秀でた有名人である。禁裏を悩ませていた怪獣、ヌエ(鵺)の退治伝説でも名高い。彼は、神仏の御告げを受けて土岐城(鶴ケ城)近くに自生している双生竹で作った矢を用いて、見事にヌエを射落とした。以後、そのあたりを神箆(こうの)村と呼ぶようになった、と伝えられている。「箆」とは、矢竹の古名で、「神箆」は神の矢竹、神威ある矢竹ということである。
瑞浪市内には、この話以外にも酒波神社をはじめ日吉、釜戸、稲津などに、いくつかの頼政伝説が残されているが、頼政が神箆に在館またはこの土岐群を領していたという確かな記録はない。
(『酒波神社誌』より)
「頼政と頼明」について
頼明は兵部(宮内)卿律師、兵庫頭といい、一方の伝説の頼政も兵庫頭(守)である。頼明は前記のように影の薄い人物であり、頼政は有名人である。
こうしたことから瑞浪市における「頼明」は多く「伝説の頼政」になったのではなかろうか。 この推理は私においてのみでなく濃陽志略にも「頼政神箆を領するのこと経見せず。或いは云う土岐兵庫頭頼明美濃州を領すると。頼明も嘗て兵庫頭に任ぜられる。 旦つ其の名は共に「頼」の字を有す。 故に後世頼明を以って頼政と為すか(詞宮伝)」と載せている。
これらのとおり伝説の 「頼政」がつまり「三代守護頼明の伝説」とすると「頼明」と「瑞浪市」との関係は濃くなり、中世における瑞浪市東部の支配者の一人として彼の墓の市内存在も当然可能な地域であり得ると考えられる。
(瑞浪市史 歴史編より)
頼政岩の明確ないわれは不明ですが、源頼政(頼明かも)の酒波神社創建説や末社頼政神社が存在することで、何か関りがあったことと思われます。
















