市内には土岐川沿いの北部丘陵を中心として、円墳約100基・横穴墳約50基の古墳が分布しており、これらの中で封土の直径60m・高さ8m、円墳では県下最大の大規模の墳丘です。
埋葬者については久々利に住まれたといわれている八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)に関係のある東濃地域一帯に権力をもっていた大豪族であろうと考えられています。
岐阜県指定史跡(指定 昭和35年10月3日) 岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会
荒神塚古墳
荒神塚古墳(岐阜県指定史跡)は、円墳としては県下最大規模で、直径約45m、高さ約8mの二段築成です。
南だれの傾斜面に造られているため、北側から見る古墳は小さく見えるが、南の土岐川河畔からみると、台地の地形をその足下にとりこんで巨大な円墳として目に映ります。
古墳の西・北・東の3方側は、家屋や畑のために削られています。とくに北側はひどく、墳丘が崖状に大きく削りとられています。地層を観察すると、テラスより下部は地山の自然層で、この整地された地面の上に土盛りが行われたものです。
「荒神塚古墳のすぐ西側にも小さな円墳がありましたが、道路をつけたとき破壊され現在人家が建っています。」と36年調書には記録されている。
以前は「二子塚」と呼ばれ、昭和初年の道路工事で南端部が一部こわされ、その部分にも墳丘があったと伝えられるところから、東濃唯一の前方後円墳または陪塚(ばいちょう)を持った大円墳とも考えられますが、現在では解明できません。
県下最大級のこの古墳は、大和王朝時代の支配下にあった、久々利か尾張の大豪族ではないかと言われています。
「古墳時代」については、円墳としては岐阜県下最大の規模である瑞浪市明世町の「荒神塚古墳」を中心にして、寺山・天神洞(てんじんぼら)らの残る五十基もの大古墳群や、土岐市の「乙塚古墳」なども、古墳の数が瑞浪市内で184基(円墳129基、横穴墳55基)と、他の地方に比べてその分布が多いことなどから、この時代も東濃地方の文化はかなり開けていたことを証明しています。
黒斑のある円筒埴輪や朝顔型埴輪の表採から5世紀前半か中期に属する埴輪採用古墳の東限です。
古墳時代の前・中期における可児市を含めた東濃地方では、円筒埴輪の採用はこの古墳以外には見られません。
発掘調査はおこなわれていませんが、竪穴式石室による中期古墳と推定されています。
この古墳も「触わるとたたる塚」とされていて、地元では大切にされてきたものです。
荒神塚古墳から東北東200mにの丘陵に所在する「戸狩横穴墓群」(13基)は岐阜県史跡に指定されています。
瑞浪市における古墳分布は、円墳では土岐川本流沿い(明世・土岐・釜戸町らの約80基)と、支流日吉川沿い(明世町月吉・日吉町らの約40基)と、同小里川沿い(稲津町10基)とに三分されて約130基が報告されています。
また地方的にも特色のある横穴墳では明世、土岐・日吉三町に55基がありましたが、共に昭和初年までの開墾や中央自動車道工事(発掘調査実施)などによって消滅し、現存するものは円墳85基・横穴墳35基です。
当市内の円墳は、小盆地を見下すそれぞれの山丘上に単独や10基前後の群として、また横穴墳も同様に凝灰岩(ぎょうかいがん)の中腹などに構築されており、円墳の多くは古墳後末期に構築された径12~15m前後の群集墳です。
荒神塚古墳の杉と榎(えのき)と柊(ひいらぎ)
その墳丘の上には杉と榎と柊があり、これらは自生したものだ言われています。
杉は、どっしりと大地に根付いており、根元からの高さ2.5m辺りで3本に枝分かれしています。
榎は、幹周3mを超す巨木が3本あります。一番太い榎からは、丸太のような根が地表をはって墳丘の縁の方まで伸びており、歴史を感じさせます。
柊は、根元から約1.5 mのところで枝分かれしています。直径0.5m程の2本の枝が左右対称に3mくらい伸びています。
戸狩横穴古墳群
横穴18基。市・県の史跡に指定され、2号墳は向かって左側壁に棚穴を有し、1・9・11・12号墳とともに長方形、3・13号墳は両袖、7・8・10号墳は片袖、4・5・6・14・15・16号墳は楕円形、17・18号墳は崩壊して奥部のみを僅かに残している。
水ヶ手横穴墳群
横穴4基。その東山腹に続き、いずれも長方形で、石室部は3号墳の長さ5.4m、巾3.5m、4号墳の長さ5.4m、巾2.4mと大形の部に属し、1号墳は長さ4.8m、巾2.7m、当時の丸ノミの痕をよく残している。
若林横穴墳群
八基。さらにその東山腹へ一列に並び、1・2・3号墳は楕円会、残りは正方形である。水ヶ手・若林横穴墳は中央自動車道工事によって調査後消滅した。