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天神山城跡・裏天神山城跡

鶴ヶ城、天神山城と裏天神山城

 鶴ケ城は鶴城区にある山城の跡で、その築城年代は明らかでありませんが、美濃守護・土岐光衡によって築かれたと伝えられ、神箆(こうの)城、土岐城などとも呼ばれています。
 戦国時代、東濃地方は尾張(愛知県)に拠点を置く織田軍と、甲斐(山梨県)から京都へと進軍する武田軍の勢力が衝突する地域となり、永禄8年(1565)頃には高野口(現土岐町)で織田・武田両軍の軍事衝突が起きています。また、天正2年(1574)に武田軍が恵那郡南部に進軍して明知城を包囲すると、織田信長はこの鶴ケ城に立ち寄り、鶴ヶ城と小里城(瑞浪市稲津町)の守りを固めるよう城の普請を行っています。また、天正10年(1582)、織田勢の甲斐への侵攻(武田征伐)の際にも信長は鶴ケ城に立ち寄っています。中央道横の諏訪神社は鶴ヶ城の正面玄関となる大手門の跡で、ここに石碑があり、本丸跡には案内板が建てられています。
 天神山城と裏天神山城は、鶴ヶ城の地形図から北東の守りが薄いことに気づいた各務原在住の熊沢喜三郎さんと土岐市在住の小倉勝雄さんによって平成24年(2012)9月に発見され、地山名を採って天神山城、その上部に続く城跡を裏天神山城と名付けられました。
 この城は、天正2年(1574)2月に織田信長が武田攻めのため鶴ヶ城に滞在し、本城の鶴ヶ城の北東の守りを固める支城として、警護職(常番)の重臣の河尻秀隆に命じて造らせたものと思われます。城跡は山の尾根を活用し南北400mにおよび、東からの攻撃に対応しています。造りは大胆なものではありませんが、山城としての機能は備えています。

▲天神山城跡からの景色(150m上空から)

▲裏天神山城跡からの景色(150m上空から)

▲天神山城跡

▲裏天神山城跡

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