日吉町白倉下組 神明神社
瑞浪市日吉町1919(白倉)
【祭神】天照大御神
【例祭日】11月下旬日曜日
【由緒】神明神社は、もともと小栗助三郎という人が江戸時代の前期に家の守り神として奉祀したものと伝えられ、棟札にも「貞享三年奉再輿當神明社 願主小栗助三郎」と記されている。天明2年(1782)の棟札には「願主當村下組」とあり、以後組の守り神として祭が続けられてきた。稲作が命の綱であった時には、旱天が続くと参籠をして雨乞の祈願を行っていた。そのため、干魃が長びくと、白倉村全体で「雨乞い婆」の出御となった。雨乞い婆とは木製の人形で、それに着物を着せて飾り馬に乗せ、花馬を供にして笛太鼓で行列をし、下組と中組の神社を巡拝した後、上の神明に安置、村民全員交替で昼夜雨乞い祈願をした。本殿は天保15年(1844)再建。摂社御鍬神社には寛保三年(1743)「洞中により建立」と記した棟札がある。
(岐阜県神社名鑑より)
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
神明神社
瑞浪市日吉町1919番地(白倉下組)
拝殿で雨乞いのお籠りや組の寄り合い
日吉町の中心地、農協ガソリンスタンドの前を北へ進むと、日吉小学校の手前左側に山の斜面に沿った家並が見られます。ここを大敷(だいしき)洞といい、その奥に白倉下組の神明神社が祀られています。
下組はこの大敷洞と日吉川をはさんだ反対側の集落を合わせた四十軒ほどの組で、例祭には組中の人が神社で祭典を行い近くの集会所で直会をします。
ここの神社は、もともと小栗助三郎という人が江戸時代の前期に家の守り神として奉祀されたものと伝えられ、棟札にも「貞享三年奉再興當神明社 願主小栗助三郎」と記されています。
しかし、天明2年(1782)の棟札には「願主當村下組」 とあり、以後組の守り神として祭が続けられてきたことがわかります。
江戸時代は勿論、明治・大正の頃も一般の人々の家は狭くて人を寄せるのもむずかしかったので、組の会合はこの神社の拝殿で行われていました。
家の数が増えてきたので、昭和の初めに拝殿の建て増しが行われ、ずっと利用されてきましたが、老朽化が進み、十年ほど前に増築前の部分は取り壊されてしまいました。
稲作が命の綱であった時代には、旱天が続くとここで雨乞いのお籠りが行われていたといいます。
雨乞いの仕方にはいろいろあって、社で篝火を焚いて千度参りをしたり、鎌止めといって、村民一同一日仕事を休んで祈願したりしましたが、この組では参籠をして祈願を行っていました。
それでも旱魃が長びくと、白倉村全体で雨乞い婆の出御となりました。雨乞い婆というのは木製の人形で、それに着物を着せて飾り馬に乗せ、花馬を供にして笛太鼓で行列し、下組と中組の神社を巡拝した後、上の神明神社に安置、村民全員交替で昼夜雨乞い祈願をしたといいます。
雨乞い婆は、現在下組の集会所に保管されています。
本殿は天保15年(1844)再建のもので、度々補修されており、摂社御鍬神社は平成八年の造替、いずれも小規模ながら丁寧な造りになっています。
なお、御鍬神社も寛保3年(1743)洞中により建立と記した棟札を蔵し、古い歴史を秘めています。
(瑞浪市の神社[H10発行]より)