清水弘法堂
●清水弘法堂(庚申堂)の由来
清水弘法堂は元和から延宝年間(一六一五~一六七三)の内に堂宇と庫裏が既にあったといわれています。この年代に松洞沢の大氾濫があり、堂宇の流失は免れたものの、庫裏は不幸にも倒壊、流失してしまったようです。氾濫当時に掘れた池が現在も残っており、以前は池の南側に猿面石の台上に観世音の石仏やその他の石造仏があったといいます。その後、道路沿いの北側を村人総出で近隣の応援を得て、さば山を削り、竹やぶを切り開き、下街道より四尺程の高さに石積みをして、お堂の修理をしました。このお堂の登り口の脇には清水がこんこんと湧き出る井戸があり、下街道を行きかう荷馬車や旅人、御獄参りの信者や行者の喉を潤したといいます。
このような歴史のある弘法堂ですが、当初は庚申堂として創建され、後年に弘法信仰が盛んとなって庶民に浸透したため、いつの間にか庚申信仰が押されて、庚申堂も弘法堂と呼ばれるようになったようです。
●庚申信仰の由来
庚申信仰は紀元前四世紀頃の人である老子の教えを基に、後漢時代の末頃の道士張陵が、福·禄·寿の現世的な幸福に主眼を置いて説いたのがはじまりであるとされます。この信仰は皇極天皇の時代に中国から日本に伝わり、天智天皇の時代に初めて庚申の儀式として修され、のち大宝元年(七〇一)に天王寺で庚申待が行われたといいます。
室町時代末期には「庚申の日に、眠っている人間の体から、三戸神(さんずしん)が抜け出して天に上り、天の帝にその人間の罪業を告げると、その人間は命を奪われる」といわれるようになり、庚申の日は夜も寝ないで過ごすという風習が広まったといいます。
●清水弘法堂の主な石造物
経玉書写供養塔 寛保二年(一七四二)
石 段 延享四年(一七四七)四名の寄進者により完成
庚 申 供 養 塔 明和二年(一七六五)
弘法大師座像 安永八年(一七七九)
四国・西国・秩父・坂東の供養塔 安永八年(一七七九)
三十三所観音 安政年間~文久年間(一八五四~一八六四)
名 号 石 安政七年(一八六〇)
土岐地区まちづくり推進協議会
(現地看板より)
十三河原合戦の供養塔
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の際に東軍(徳川方)の小里一族が西軍(石田方)の鶴ヶ城を攻めました。このとき現在の土岐小学校付近の「十三河原」が戦場となり、小里一族の和田太郎左衛門ら多くの者が戦死しました。この五輪塔はその供養塔と伝えられ、平成二十五年(二〇一三)にこの場所に移されました。
土岐地区まちづくり推進委員会
(現地看板より)
清水弘法堂
寛保2年(1742)の写経搭をはじめ名号碑、廻国碑、その他宝歴以降の馬頭観音など数多くの石仏が並んでおり、下街道の往時を偲ばせている。なお、ここの石段は僅か十二段であるが、延享4年(1747)に四名の万の寄進によるものである。
(瑞浪市下街道マップより)
名号碑
安政七・一八六〇・自然石碑・安政七年
聖号碑
角柱塔・大悲観世音(大型角塔)
清水弘法堂のものは角塔でも角柱塔とも呼べる高い立派なものです。
西国・四国・秩父・坂東霊場順拝記念碑
安永八・一七七九・角塔 ・西国四国秩父坂東(供養)
写経塔
寛保二・一七四二・写経塔・経王石写塔・角柱塔
台石付きの柱塔で、正面に「経王書写」側面に「寛保壬成年」とだけあるもので、経典名も写経者名もありません。大変な勤行であったと思われるのに、先人たちの謙虚さが思い知らされます。
石段
延享四年(一七四七)
上右標柱
奉 寄 進
上左標柱
延享四丁卯
長吉・伊三郎・小右門・久助僅十二段程なれど四名の方の寄進は貴いことである。
寛保ニ年(一七四一)の経王書写塔、宝暦十年(一七六〇)の古いものをはじめとする馬頭や三十三所観音・霊場巡拝碑などがいかにも下街道らしく並んでいます。
(ふるさとの石碑と灯篭より)
弘法大師像1、「馬頭観世音」碑2、「大口観世音」碑1、「大国主大神」碑1、水鉢1、石段袖石2[延宝4年]、霊場供養塔1、五輪塔1、出征記念碑1、墓2、不明1
五輪塔は近年移設されたもの