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桜ヶ丘公園 桜まつり 瑞浪市陶町

加藤左衛門尉景信(かとうさえもんのじょうかげのぶ)

園には複数の石碑が建てられていますが、その中でも最大の石碑には4人の人物の名が刻まれています。
石碑の最も右側に刻まれているのが加藤景信で、武蔵国久良岐(くらき)郡(現在の横浜市)から陶町大川に移り、当地で初めて窯を開いた人物と伝えられています。
その年代は正長元年(1428)、あるいは文明7年(1475)とされ、その後、次第に同業者が増えたとも言われます。
現在のところ陶町ではこの時代(1400年代)の窯跡は見つかっていませんが、土岐市などでは窯跡が確認されており、陶町で見つかる可能性も決してゼロではありません。
その日のためにも、加藤景信の名はこれからも後世に伝えていく必要があります。

加藤萬右衛門尉基範(かとうまんえもんのじょうもとのり)

陶町桜ヶ丘公園の右から二列目の石碑に刻まれた加藤萬右衛門尉基範は、水上地区で初めて窯を開いた人物と伝えられています。
加藤萬右衛門は織田信長から制札(免許)をもらい、永禄6年(1563)に尾張瀬戸から水上村に移って水上向窯を開いたと言われています。(水上地区の開窯時期・人物についてはこの他にも諸説あります)
水上向窯では1500年代末〜1600年代半ば頃の陶片が採集されており、諸記録や伝承とは若干時期に差がありますが、発掘調査を行えば、もう少し古い陶片が見つかる可能性も十分考えられます。
なお、加藤萬右衛門(一説にはその息子)は開窯後の慶長十五年(一六一〇)に尾張藩の命令によって瀬戸に呼び戻されたと言われています。

加藤仁右衛門尉景貞(かとうじんえもんのじょうかげさだ)

陶町桜ヶ丘公園の右から二列目の石碑に刻まれた加藤仁右衛門尉景貞は、猿爪地区で初めて窯を開いた人物と伝えられ、天正6年(1578)に久尻(現・土岐市)から猿爪村に移って猿爪窯を開いたと言われています(人名については他にも諸説あります)。
実際に猿爪窯では1500年代の末〜1600年代の初め頃の陶片が採集されており、伝承とは若干の時期差があるものの大きな矛盾点はありません。
なお、猿爪村における窯焼きについては、正保2年(1645)の記録には見られなくなることから、数十年程度の比較的短いものであったと考えられます。

【解説】瑞浪市教育委員会スポーツ・文化課 砂田普司 氏
※瑞浪商工会議所ニュース 瑞浪の魅力発見プロジェクトより





桜ヶ丘公園

1、陶の古窯の開祖は皆「加藤」

 陶地区の窯業の開祖は、古い順に
・大川窯 加藤左衛門尉景信
     文明7年(1475年)
・水上向窯 加藤萬右衛門尉基範
     永禄6年(1563年)
・猿爪窯 加藤仁右衛門尉景貞
     天正6年(1578年)
・水上田尻窯 加藤太郎右衛門尉景里
     慶長7年(1602年)
と、皆「加藤」姓です。

 姓は皆加藤ですが、出身地は武蔵、瀬戸、久尻、大平とそれぞれです。桜ヶ丘公園にある陶祖碑に刻まれています。

桜ヶ丘公園

 桜ヶ丘公園は日露戦争(明治37年~38年)の戦勝記念として大正元年(1912年)に開園しましたから100年以上の歴史があることになります。公園の名前は永井園次郎(陶村誕生時の村長で、陶という地名の名付け親)が名付けました。開園以来、桜の木の増殖を続け、名前にふさわしい公園となってゆきました。
 公園中央の木立の中には陸軍大将 乃木稀典の書による「明治三十七八年戦役紀念碑」とともに、日清戦争の「従軍記念碑」(明治30年建立)、曽根翁紀㓛碑(明治22年建立)がこの地に移され、大正12年には中村翁壽碑が追加され陶祖の地ともなりました。
 公園内には広場とともに馬場もあって公園の周囲を馬が走ったそうです。また、大弓場もあって陶の弓引き(弓道)の原点の地となりました。
 昭和の頃、名前に恥じず立派に桜の花が咲くと老若男女が集い、酒を楽しみ、歌に踊りに興じて公園は歓楽の地と化しました。花見は数少な
い娯楽だったのです。また、労働組合の集会にも利用されメーデー・春闘などの活動拠点ともなりました。今や陶で「労働組合」は死語となってしまいましたが?
 丘の上にある公園からの眺望は素晴らしく、北側及び西側からは猿爪地区をほぼ一望でき、南側からは猿爪村の寺社である宝昌寺と天神社を望むことができます。恋人同士がここで語らうデートスポットでもありました。
 近年、桜の木の老齢化、人口減とともに公園利用者・花見客も減っていましたが、公園に昔の賑わいを取り戻そうと、平成16年に時の猿爪区長西戸さんたちにより「桜まつり」が復活して以来、猿爪区・街づくり等の皆様の尽力により毎年開催されており、今年も4月14日・15日の土日に桜まつりが開祭されます。
 私も戦争記念のことは忘れ、皆が集う平和を楽しみたいと思います。

胸像二体

 陶では毎年8月13日に桜ヶ丘公園にある陶祖碑の前で陶祖祭が執り行われます。今回はその陶祖祭にちなみ陶町の陶磁器産業に功績のあった人物の立派な胸像二体を紹介したいと思います。

○曽根昇三(M24~S24)像

 明治43年(1910年)陶の陶磁器産業の実質的陶祖である曽根庄兵衛の山庄製陶所を継いでいた曽根猪之助が没すると、その息子の初代曽根昇三が後を継ぎました。初代曽根昇三は、石炭窯の導入、磁器タイルの生産、トンネル窯の導入などで、陶のみならず東海地区の窯業の近代化に大きな功績を残しました。
 昭和35年(1960年)『曽根100年祭』が領分立工場で盛大に催された際、初代曽根昇三の銅像が建立されました。銅像は今、桜ヶ丘公園で陶祖碑・祖父にあたる庄兵衛の紀㓛碑と向き合って進取の精神の大切さを伝えています。

○伊藤嘉市(M23~S39)像

 大正7年(1918年)山五陶業は創業者伊藤五郎右衛門の他界により伊藤嘉市がその後を継ぎました。嘉市は技術力で会社を着実に成長させると共に、社長業の傍ら恵那陶磁器工業組合の理事長、陶町長などをも勤め、陶の発展に多大な功績を残しました。また、昭和31年には岐阜県産
業人初の藍綬褒章を受章しています。
 昭和26年 嘉市社長の還暦を祝って労働組合員がお金を出しあいブロンズ製の胸像を贈りました。従業員(組合員)と共に汗する労使協調の鑑だった人でした。
 今は旧山五の食堂横で、大規模ソーラーの地となった工場跡地を見つめ鎮座しています。モクモクと煙を出した昔とクリーンなソーラーと、あるいは騒々しかった昔と静かな今を対比して感慨に浸っているのでしょうか。

(もっと知ろう陶より)

陶祖碑

 桜ヶ丘公園内にある陶祖碑は、大川窯開祖、加藤左衛門尉景信、水上向窯開祖、加藤萬右衛門尉基範、猿爪窯開祖 加藤仁右衛門尉景貞、水上田尻窯開祖 加藤太郎右衛門尉景里の古窯開祖四氏と近代窯業の開祖曽根庄兵衛、中村弥九郎の二氏の功績を称えて建立されたものである。

(陶町の歴史散策マップより)

 猿爪桜ヶ丘公園には、大川窯の加藤左衛門尉景信、水上向窯の加藤万右衛門尉基範、猿爪窯の加藤仁右衛門尉景貞、水上田尻窯の加藤太郎右衛門景里の4人を祀った陶祖碑があり、毎年8月13日に恵那陶磁器工業組合により陶祖祭が催されています。

輸出用陶磁器の生産開始

 明治7年 中村弥九郎が遠州三ヶ日村から猿爪村に来て陶工となり、展覧会で見たフランス焼きの純白さに感動した弥九郎は同9年に水上村の工場で磁器製法を研究し、9年後の同17年になって白磁の製造に成功、扇を2枚重ねた形のバター皿を白磁で製作した。これに自信を得た弥九郎は猿爪村に戻って太白素地(たいはくきじ)による輸出磁器の製造を始め、以後陶地区の窯業発展に多大な貢献をした。
 太白とは太白星(金星…宵の明星・明けの明星)のことで、即ち太白素地とは白さを追求した素地のことである。昭和40年頃まで唄われた陶中応援歌のNO.1は「白磁の陶の名をもちて~」で始まります。「白磁」は、陶の代名詞なのです。
 中村弥九郎の多大な貢献を讃えて、桜ヶ丘公園に「中村弥九郎寿碑」と刻まれた板碑があります。
 この板碑の題字は岐阜県知事 山田万平、碑文は永井園次郎によるもので、大正12年 盛大に除幕式が行われたとのことです。
 桜ヶ丘公園には陶祖碑(大川窯、水上向窯、猿爪窯、水上田尻窯の4 人の陶祖を刻銘)の右に中村弥九郎寿碑、陶祖碑の左に曽根庄兵衛の紀功碑が建立されていて、毎年8月13日の陶町陶祖祭では、その前で祭りの神事が執り行われます。
 陶地区の窯業は曽根庄兵衛、中村弥九郎ら先駆者の後を受けて猿爪村に水上村にと次々と開窯する者が増え、窯業地帯としての基盤を築いていきました。
 山五陶業も明治17年以降中村弥九郎の影響を受けて洋食器を生産するようになりました。明治18年には伊藤重次郎が金中製陶所を起業し、後に陶の御三家と呼ばれる曽根、山五、金中が揃いました。また、明治30年には、後に陶村長・陶町長になる中村僊輔が山中製陶所を起業しています。この山中製陶所は、後に金中製陶所と合併しました。
 明治20年頃になると、それまで生素地のまま釉薬をかけて本焼きしていたものが、素焼きのうえに釉薬をかけて本焼きにするとか、媒融剤が栗皮灰から石灰に変わるとか、摺り絵の型紙も銅板を使用するなど生産技術は目覚ましく向上し、「安かろう悪かろう」から一定の評価を得るようになりました。
 明治25年には金中が貿易を目指して名古屋に「金中商店」を設立、明治30年頃には山五陶業が同じく名古屋に「山五商店」を設立と、輸出を目指す窯業の下地ができていきました。
 明治28年に日清戦争が終わると、膨大な戦費からみて、また西南の役の後のように不況風が吹くかと思いきや、清国から莫大な賠償金を得たこともあり、日本の景気は好況に推移した。そして、陶の陶磁器業は支那(台湾を含む中国)・米国で白磁の陶磁器が好評で、利益率もいいことから国内向け生産から輸出向け生産が主流になっていった。主流というより輸出向けに転業していった。

陶祖 曽根庄兵衛

 陶の窯業の発展を語る時、曽根庄兵衛の存在は計り知れないものがあります。
 庄兵衛の誕生から永井九郎衛門の帰村(明治5年)までは「陶町産業の夜明け」の項で述べたので、それ以降の庄兵衛の足跡をいくつか追ってみたいと思います。
 明治13年には県知事より戸長の示達を受け、再び戸長の任に就いている。この時の戸長業務の際に事務一切を仕切り、庄兵衛を助けたのが盟友永井九郎右衛門の息子で後の陶村長 永井園次郎である。
 明治12年に設立した濃穣商社は2年ほどで解散となってしまいうまくいかなかったが、設立の趣旨は「猿爪地区の発展には窯業の発展が不可欠であり、そのためには自分さえ良ければ…の考えを捨て、情報を公開し合い、地区全体が等しく発展していかなければならない。」というものであり、この信念はいささかもゆらぐことはなかった。
 明治17年頃になると、瑞浪に通じる岩村新道の工事が始まり、駄馬・駄牛による物資の輸送が、より大量に運べる馬車・荷車による輸送に変化してゆきます。
 しかし、陶が名古屋に出る際に使う中馬街道は昔のままの細い山道で、馬車運搬はできません。そこで明智の橋本幸八郎を主唱者にして、街道有志で『街道講』を起こした。講の益金で街道の改修をしようとしたもので、曽根庄兵衛も賛同者に名を連ねている。それにしても講の益金(利息)で街道を改修できるほど集まるのでしょうか? ともかく、その甲斐あって明治23年には中馬街道の瀬戸~明知間の改修工事が始まりました。
 明治19年 還暦を迎えた庄兵衛は、翌20年に自分が起業した創業26年の山庄製陶所を息子の曽根猪之助に譲り(社名は後に山イ製陶所に改名)隠居生活に入ります。
 この頃には恵那郡内で100社近くの業者が陶磁器業(製造・販売)を営み、太白素地の製造は精良品として高く評価され、猿爪窯の地位は揺るぎないものになりつつありました。
 九郎右衛門・増右衛門らは「曽根庄兵衛は、恵那郡下の陶祖たる人だ。紀功碑を建ててその功績に報いよう。」と発案しました。
 庄兵衛は当初断りましたが、やがてやむなく承諾すると九郎右衛門らは小崎岐阜県知事宛に建設申請をしました。
 すると、知事は許可と同時に庄兵衛に『磁叟』の号を贈り永年の辛苦をねぎらいました。磁叟とは、陶磁器業界に偉大なる貢献のあった大人物を意味する称号である。
 明治29年には恵那郡下の陶祖として紀功碑が猿爪の関屋に建設され、伊藤五郎右衛門(山五陶業創始者)を発起人として、時の衆議院議員ほかを迎え盛大に除幕式が執り行われました。(紀功碑は明治44年に桜ヶ丘公園が開園されると桜ヶ丘公園に移され現在に至っています。)
 話しは少しそれるが、明治33年には、若き医師「水野 馨」が庄兵衛の誘いに応じて猿爪村の曽根宅隣に「水野医院」を開院し、無医村問題の一応の解決をみている。
 明治34年 庄兵衛76歳の時には、40年以上の長きにわたって産業振興に貢献したということで、産業人にとって最高の栄誉である緑綬褒章を岐阜県知事より頂いている。
 明治37年 庄兵衛は80歳の天寿を全うした。当時としては大変な長生きで、まさしく大往生だったようである。その葬儀は猿爪始まって以来の盛大なものだったという。

 明治44年に桜ヶ丘公園に陸軍大将 乃木稀典の書による「明治三十七八年戦役紀念碑」が建之されている。
 この紀念碑の建之にあたっては、大きな紀念碑と小さな忠魂碑の二つの建立計画があり、乃木将軍にお伺いしたところ、将軍より「先の戦争の勝利は、天皇閣下と共に忠勇義烈な兵士の賜である。碑に差をつけるのは、戦死者に対し不敬極まりない。したがって、紀念碑の一面のみ記し返すなり。」と将軍自筆の怒りの返答があったという曰くつきの碑である。
 ただ、この書を見た村の所員は、くず籠に投じて平然としていたという。後に、この書を発見した永井園次郎村長は、直ちに装填を命じ、永遠に保存することにしたという。この書は、現在市役所に保管されているそうです。
 建立時の村長は永井孫太朗で、石碑の裏側には陶村からの従軍者41名の氏名が記されている。
 忠魂碑は23年後の昭和7年に陸軍大将鈴木荘六の題字による青銅製砲弾型の立派なものが建設されたそうです。

(陶町歴史ロマンより)


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