■ 寺院 石仏

西行歌碑 名号碑 道標 岐阜県 瑞浪市 日吉町本郷

(文化13・1816・角柱塔・西行歌・夜昼の…連中 名号碑兼道標)

(濃州狗行記・美濃御坂越記・月吉大応寺 日吉本郷歌碑)
よる昼のさかいはここに有明けの 月吉日吉里をならべて
  西行法師 (平安末期1117~1190)

 本郷石垣辻の文化13年の名号碑兼道標の「夜昼の さかいはここに 有明けの 月吉日吉 里をならべて・文化十三歳丙子四月吉日 功徳主(約二十名)」のものは西行歌碑と言われています。このころの日吉には千村五歩、誠台、宣児、里雪といった俳号の人々の活躍(天保14年 高松観音東濃大句会)が見られますから、寛政3年の桜堂薬師東濃大句会に活躍した先人らと共に、これらの人々を中心にした日吉句会グループによる建立と見られます。

 高さ97センチ巾30センチの石柱の正面に『南無阿弥陀仏』と深彫され、向かって左の面に『夜昼の さかひはここに 有明の 月吉日吉 里をならべて』という西行の歌が刻まれています。そして、その下に『右 月吉道 左 山道』と刻まれています。

西行法師

【1118年(元永元年)~1190年(文治6年)】
 円位上人こと西行は、元永元年(1118年)、父-佐藤康清、母-源清経の娘との間に生まれました。俗名は佐藤義清、鳥羽上皇にも仕えた北面の武士であり、武術だけでなく和歌にも長けており崇徳上皇とも親交があった人物です。

 23歳の時に妻子を捨てて出家し「円位」と名のり、後に「西行」と称しました。出家後は,河内国の弘川寺で入寂するまでの間,心のおもむくまま平安近郊,高野山,伊勢,吉野,善通寺などに草庵を結ぶなど,しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残しました。

注意:道が荒れているので注意して進む必要があります。

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