御本尊:馬頭観世音菩薩
宗派:臨済宗妙心寺派 正宗寺所属
御詠歌
かげ高き 松のあらしに ちりの世の
夢もむすばむ みねのふる寺
行基(668-749)が刻まれたと言われる「馬頭観世音菩薩」が祀られている観音堂です。大同四年(809)この地に安置されたと伝わっています。秘仏で三十三年に一度ご開帳がおこなわれご本尊を拝むことができます。平成二十五年(2013)02月14日に御開帳がされ、次回は2046年になります。
馬の神様なので昔は軍馬や農耕馬、牛を連れてお参りをし、高松山の麓には馬場があり高松のお祭りの日には競馬も行われていたようです。現在は無人のために、お祭り時にだけ御本尊は、正宗寺よりこの御堂に祀られます。
明治時代初期の神仏分離政策により、高松山は一時、駒桜神社という神社になったため、梵鐘を売却せざるをえませんでしたたが、その後、売却した梵鐘を買取り高松観音に復帰しました。
高松観音は通源寺から正宗寺に譲渡されましたが、譲渡の際には境内外の土地、建物、什物の記録が作成されました。
建物は昭和五十三年(1978)に修復されましたが、中には大変歴史のある絵馬が保存されています。何百年も昔の五輪塔の台座や、日清日露戦争の慰霊碑など歴史的に、大変貴重なものもあります。 堂内に残る享保十七年(1732)、宝暦十年(1760)他の奉納句額は東濃地方の庶民文化の動向の資料としても実に貴重なものです。
大東亜戦争が始まると軍馬が足りずに農耕や運搬に使われていた馬もかり出された旨の記述のある馬軍馬慰霊碑や他にも元禄時代の五輪塔の台座や日清日露戦争の慰霊碑などもあります。



東の桜堂薬師に対し、西の高松観音と称し、元禄八年(1695)の土岐巡礼三十三箇所の十一番札所にも選ばれました。
高松観音例祭
「高松が晴れると、初午は雨が降る」という言われがあるそうです。
高松山のふもとに馬場(馬の訓練所)があり、馬の守護仏として祀られてきました。古くから一月十八日(初午の日が起源)に催されていたお祭りで、昭和初期のこの日には瑞浪小学校が半日休みになるなど、地域に根差したお祭りでした。厄除・商売繁昌・健康・交通安全・五穀豊穣・合格祈願のため多くの人が訪れます。今では二月の第三日曜日に大祭縁日がおこなわれています。














高松山慈雲寺由来傳記によると
小家ヶ峯(こやがみね)に熊野那智山配下の荒神堂という庵がありました。智道尼(ちどうに)という尼層がそこを守っていました。
大同四年(809)十月に夜な夜な小峯山の麓より小家ヶ峯(こやがみね)の荒神堂にかけて紫雲がたなびき、地震や雷がおこり嵐となった夜に白髪の老人が現れました。頭に白蛇をいただき、手には大悲の尊像を掲げ、「我は小峯山に数百年住む龍神なり。この地に大悲の尊像を納めよ。」と告げて飛び去りました。
智道尼(ちどうに)はその尊像を拝礼していると、東の方に白雲が立ち昇っていました。そこにいくと穴があり、龍神様が籠っているところと思い、塚を築き龍神塚と名付けました。
それより小峯山を進むと古い御堂がありましたが、唱名を唱えると御堂は消滅してしまいました。ここに庵を造り、大悲の尊像の入仏供養をし、この庵を高松庵と呼ぶようになりました。
弘安七年(1248)四代 楚明尼(そめいに)は小家ヶ峯(こやがみね)から今の場所へ庵を移し、高松山 慈雲寺としました。
文和三年(1354)に蜜辨尼が死去し高松庵は無住になりました。
至徳二年(1385)三條殿中将中務丞(さんじょうでん ちゅうしょう なかつかさのじょう)藤原宣卿(のぶのり)が夢に導かれここを訪れます。行基(668-749)が彫った馬頭観音と弘法大師(774-835)が一刀三礼され彫った一尺三寸の聖観音があり、嘉慶三年(1389)宝殿一宇を領主となった三條殿が再建されました。
影高き 松のあらしに 塵の世の 夢も結ばぬ 峯の古寺 と詠み、後に土岐西国四十番札所の御詠歌となります。
三條殿によって昨夜姫のお社一宇も建てられ、さらに小松山 道成寺も建立されました。
応永十年(1403)三條殿の政所、弥生の前が死去され、それを追うように鶏が死んだため塚を築きました。その後、夜な夜な鶏の声がするので古金塚と呼ぶようになりました。
三條殿の近くに池があり、生前弥生の前が化粧のための水をくんでいたので白粉池(はくこいけ)と名付けられました。永享三年(1431)に三條殿が死去されます。
残された家臣たちは小田の十三塚に葬られます。
永享四年(1432)橋本中将殿が三條殿の塚の上に五輪塔を建て、道城寺に弥生の前と家臣たちの五輪塔を建てます。
元亀二年(1571)伊藤成信入道が咲夜姫の社を造営します。
永禄五年(1565)当寺を建てます。
弘安七年(1284)小家ヶ峯より麓に下りました。
延宝年中(1673-1681)に真盛法印が大堂一宇を造建しました。
元禄の頃、猿子の中嶋智白が大悲の尊像を拝礼したいと願い出たため、開帳され、以後30年毎に開帳されるようになります。
昭和53年修復を了り、高松山観音堂と改称して、現在に至っています。
土岐順礼三十三所(元禄八年[1695])
十一番、小田郷、高松山慈雲寺 聖観音
かげ高き 松の嵐に ちりの世の
夢も結ばぬ 峯の古寺
三十三所観音石像
寛政元年(1789)主尊とも三十三体・完全



地蔵菩薩石像
軍馬慰霊碑

郷土で飼育され、農耕や交通運輸に従った馬が十五年戦争といわれる長い期間中召集され戦場でたおれた軍馬の慰霊のため建立されたものである。 近郷の馬を扱う人々が、この山に馬をひいて参詣に登って来たそうです。
灯籠
水 鉢
馬頭観音石像
聖観音石像

享保十七年(1732)光・立・左蓮華・右施無畏印
小田町高松観音堂のものも、左手に蓮華、右手施無畏印(せむいいん)の美しい像容ですが、天衣に比べて裳が短かく、観音の両足がすねまで現われている変った像形のものです。
奉納句歌額
宝暦大句額
宝暦十年(1760)山野内花前ほか・俳諧六〇句
桜堂薬師で宝暦観花大句会が行われた五年後の宝暦十年(1760)、東の桜堂薬師、西の高松観音と並び称された小田の高松観音堂でも、三州・信州・尾州の同人までまじえた大句会(俳諧)が行われました。
宝暦十年に当市の小田高松観音で行われたこの宝暦大句会は、桜堂薬師での句会が俳諧のうちの正風(蕉風)美濃派(獅子門)の集いであったのに対して、当時益々庶民の間に盛んになって来ていた俳諧そのものの集いでした。
蕉風俳諧が、次第に文学的内容を重視して活動をはじめたこの時期でしたが、俳諧は未だ俳句・狂俳・川柳に細分されておらず、句・笠・天地・折・沓・史・もじりなどごとに、例えば「句・夜はしらじらと明けかかりけり」というように選者が課題を出し、句連中はそれを受ける形で「まつ人もなく下の句に寝入りかね」とか「興尽きて空しく帰る雪の舟」などと風雅・風刺・即興・おかし味などの句(下の句=俳諧句)を詠んだものです。
この小高観音での句会も信州飯田花鳥軒・同平谷月支・三州足助吉日堂・尾州郭公・南川などの県外組をはじめ、多治見花鳥・抱鳥・大井古硯・下石福寿・笠原秋月・吉良見遠帆らの市外組のほか、市内からは萩原兎月・猿爪青柳・月吉三柏・釜戸巨月・同中切鶴羽・日吉歩山・土岐鶴城・小田連中などが参加した二十余名によるもので、主催者は明世町山野内の花前(安藤氏か)、選者は展風山遊鶴、会所は花集軒とあります。主催者の山野内の花前は次の寛政三年の桜堂の句会にも猿爪の青柳らと共に参加しており、明世・小田地区のリーダーと考えられますがその詳細は未調です。
天保狂俳句額
天保十四年(1843)猿子似呂波ほか・狂俳一〇〇句
大湫宿神田桜観音堂での観花句会が催されてから九年を経た天保十四年(1843)、高松観音堂としては二回目の大句会である天保の狂俳大句会が催されました。先の第一回の宝暦大句会から約八十年後のことで、主催者(願主)は寛政三年の桜堂薬師での狂俳大句会では未だ発足したばかりだった猿子(現在の益見)の「似呂波連中」によるもので、県外からは三河、尾州内津、近江、あとは妻木・柿野・浅野・久尻・肥田・駄知などの現土岐市分の同人と小里・萩原・日吉・一色などの市内の先人たちによるもので、立派な奉納句額には百句が達筆で書かれています。
宝暦十年(一七六〇)の、ここ高松観音堂の先の句額や、寛政三年(一七九一)の桜堂薬師の二回目の句額が「俳諧」としているのに対して、このころには俳諧が俳句・狂俳・川柳などに明白に区分されたことから、この奉納句額には「奉納 狂俳」と明記されていて文化史の歩みを実証しています。
願主となった猿子村似呂波連中のメンバーは、寿泉・鶴里・子英・元萩・丸峯・桜花・車格・茶臼・鳥洞・鼻丸・田直などとこの奉納句額に見えますが、本名などが判ったら他の村々の人達と共にすばらしい郷土文化史の資料になるものです。
題は「雪 にばけたる四方の山々」「中 々行けぬそんなことでは」など八題のほかに「新家の嫁子・夜中の雨・気さくな女房・背中叩き・恋い猫・立派な侍・うつむいて・チョクト自慢・鳴く千鳥」などです。
句額
明治二十年 210句 明治三十三年 一〇〇句 その他あり





