■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第24番】高松山 観音堂 瑞浪市 西小田町

御本尊:馬頭観世音菩薩
宗派/臨済宗妙心寺派 正宗寺所属

 行基(668-749)が刻まれたと言われる「馬頭観世音菩薩」が祀られている観音堂です。大同4年(809)この地に安置されたと伝わっています。三十三年に一度ご開帳がおこなれご本尊を拝むことができます。馬の神様なので昔は軍馬や農耕馬、牛を連れてお参りをし、高松山の麓には馬場があり高松のお祭りの日には競馬も行われていたようです。 現在は無人のために、お祭り時にだけ御本尊は、正宗寺よりこの御堂に祀られます。

 建物は昭和五十三年(1978)に修復されましたが、中には大変歴史のある絵馬が保存されています。大東亜戦争が始まると軍馬が足りずに農耕や運搬に使われていた馬もかり出された旨の記述のある馬軍馬慰霊碑や他にも元禄時代の五輪塔の台座や日清日露戦争の慰霊碑などもあります。東の桜堂薬師に対し、西の高松観音と称し、元禄八年(1695)の土岐巡礼三十三箇所の十一番札所にも選ばれました。

 堂内に残る享保十七年(1732)、宝暦十年(1760)他の奉納句額は東濃地方の庶民文化の動向の資料としても実に貴重なものです。

高松山慈雲寺由来傳記によると

 小家ヶ峯(こやがみね)に熊野那智山配下の荒神堂という庵がありました。智道尼(ちどうに)という尼層がそこを守っていました。
 大同四年(809)十月に夜な夜な小峯山の麓より小家ヶ峯(こやがみね)の荒神堂にかけて紫雲がたなびき、地震や雷がおこり嵐となった夜に白髪の老人が現れました。頭に白蛇をいただき、手には大悲の尊像を掲げ、「我は小峯山に数百年住む龍神なり。この地に大悲の尊像を納めよ。」と告げて飛び去りました。
 智道尼(ちどうに)はその尊像を拝礼していると、東の方に白雲が立ち昇っていました。そこにいくと穴があり、龍神様が籠っているところと思い、塚を築き龍神塚と名付けました。
 それより小峯山を進むと古い御堂がありましたが、唱名を唱えると御堂は消滅してしまいました。ここに庵を造り、大悲の尊像の入仏供養をし、この庵を高松庵と呼ぶようになりました。
 弘安七年(1248)四代 楚明尼(そめいに)は小家ヶ峯(こやがみね)から今の場所へ庵を移し、高松山 慈雲寺としました。
 文保三年(1319)に弥生の前が祈願され、咲夜姫(さくやひめ)を祀る気比神社を勧請しました。
 文和三年(1354)に蜜辨尼が死去し高松庵は無住になりました。
 至徳二年(1385)三條殿中将中務丞(さんじょうでん ちゅうしょう なかつかさのじょう)藤原宣卿(のぶのり)が夢に導かれここを訪れます。行基(668-749)が彫った馬頭観音と弘法大師(774-835)が一刀三礼され彫った一尺三寸の聖観音があり、嘉慶三年(1389)宝殿一宇を領主となった三條殿が再建されました。
 影高き 松のあらしに 塵の世の 夢も結ばぬ 峯の古寺 と詠み、後に土岐西国四十番札所の御詠歌となります。
 三條殿によって昨夜姫のお社一宇も建てられ、さらに小松山 道成寺も建立されました。
 応永十年(1403)三條殿の政所、弥生の前が死去され、それを追うように鶏が死んだため塚を築きました。その後、夜な夜な鶏の声がするので古金塚と呼ぶようになりました。
 三條殿の近くに池があり、生前弥生の前が化粧のための水をくんでいたので白粉池(はくこいけ)と名付けられました。永享三年(1431)に三條殿が死去されます。
 残された家臣たちは小田の十三塚に葬られます。
 永享四年(1432)橋本中将殿が三條殿の塚の上に五輪塔を建て、道城寺に弥生の前と家臣たちの五輪塔を建てます。
 元亀二年(1571)伊藤成信入道が咲夜姫の社を造営します。
 永禄五年(1565)当寺を建てます。
 弘安七年(1284)小家ヶ峯より麓に下りました。
 延宝年中(1673-1681)に真盛法印が大堂一宇を造建しました。
 元禄の頃、猿子の中嶋智白が大悲の尊像を拝礼したいと願い出たため、開帳され、以後30年毎に開帳されるようになります。
 昭和53年修復を了り、高松山観音堂と改称して、現在に至っています。

土岐順礼三十三所(元禄八年[1695])

十一番、小田郷、高松山慈雲寺 聖観音
かげ高き 松の嵐に ちりの世の
 夢も結ばぬ 峯の古寺

軍馬慰霊碑

 近郷の馬を扱う人々が、この山に馬をひいて参詣に登って来たそうです。

灯籠

 軍馬慰霊碑の横に立つ灯寵は延宝6 年(1678)に建造されたものです。


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