恵那新四国八十八箇所霊場の四番札所にも選ばれたお寺です。本堂は平成16年に建てられました。正面両側には陶町制記念の石灯籠が見られます。
妻木崇禅寺の固岳堅公大和尚によって寛永13年(1636)に創建され、明治30年(1897)に再建されました。山号・寺号の由来は、寺の襄山に湧く泉があり、これを吉祥の泉として山号とし、三宝の栄えを祈って寺号としたと伝えられています。本堂正面の山号の扁額は、関精堀老師の筆、本堂中央の額は総理大臣林銑十郎大将の書です。
その後、大正10年(1921)に赤松の根の上に鐘つき堂が移築され、さらに昭和39年(1964)になると石柱・石垣・境内拡張の工事が行われました。
庫裏の裏手の山沿いに残る石垣は、慶長年間(1610年頃)のもので、宝昌寺よりも古いものです。
境内の一隅に、近年ここへ移された阿弥陀堂の本尊は、大きさ・重量共市内で一級品です。
そして、堂内に同居しておられるもう一体の阿弥陀如来は、猿爪村の民話「高渡の山の頂きから飛んでこられた」 という、霊験あらたかな仏様である。またこの阿弥陀堂建立につくされた、猿爪村伊藤氏親子二代の、安永3年(1774)と印された由緒の標札も発見されました。
この阿弥陀堂は、最初堂ケ洞に創建され、その後に天神社境内に移築、さらに宝昌寺境内に移築されたといわれています。
またこの堂内には、馬頭観音・千体地蔵が合祀されており、縁日には、町内の観音講の人や、お年寄りの参詣があります。
地蔵菩薩
(享保の頃・1720頃・光・立・右錫杖・左宝珠・寛宝 )
経典読誦(どくじゅ)塔
(宝暦12・1762・法華経千部供養塔)
「法華経千部供養塔 宝暦十二壬成六月」
宝筐印塔
宝箇印塔は正式には 「宝管印陀羅尼経供養塔」 といって塔中に陀羅尼経を納めた卒塔婆から始まり、下部から基礎、塔身、笠、相輪の四部からなっていて「この塔に一香一華を供えれば極楽に往生することができる」 ということから供養塔として造立されたものです。
(二基 由緒不明 銘文あるも解読困難 陶地区として貴重 中型)
宝昌寺の霊場順拝供養塔
永井氏による「西国四国」二霊場の、弘法像が浮彫りされたものです。
法華経千部読論塔
経典読誦塔は、ある心願のために、ある経典を、ある回数(巻)読論してその記念に塔を建立し、他の人々にも功徳があるようにと願った塔碑です。
「法華経千部供養塔宝暦十二壬戌六月」 とあるやや小型の角柱塔です。
(宝暦十二・1762・法華経千部供養塔)
宝昌寺の赤松
宝昌寺の石柱脇には、まるで石垣から生えたように伸びる赤松があります。
宝昌寺は寛永13年(1636)に創建され、明治30年(1897)に再建されました。この赤松が生えている場所は、その当時ツクシやタンポポが咲く土手でした。
度重なる工事の試練に耐えて、20mくらいに広がる樹冠は石柱を覆い、石垣から突き出した根元の樹皮は亀甲模様の彫りも深く、老松の風格を見せています。