■ 三十三霊場

【美濃瑞浪三十三霊場 第11番】込土山 観音堂 瑞浪市上平町

御本尊:十一面観世音菩薩
宗 派:大通寺所属

 室町時代末期より庵ありといい、昔は「小御堂」(込土)として信仰を受けており、元禄8年(1695)の土岐巡礼三十三ヶ所の八番札所に選ばれました。「うき世とぞ 思い捨てや みず聞かず いわで猿子の小御堂のうち」と御詠歌で詠まれるほど、元禄から寛政年間(1789~)にかけては格別に小御堂山観音(小御堂=込土)として信仰をうけていたようです。

 旧三河街道沿いにあり、境内には元禄2年の地蔵尊や同13年のキリシタン灯篭、享保7年(1722)の聖号碑らの古い石仏石碑をはじめ、寛政6年(1794)、文化9年(1821)の如意輪観音ほかがあります。その西の辻には文化12年の秋葉辻灯篭と「右おかざき 左やま道」の道標があって、この道が挙母(豊田市)・池鯉鮒(知立市)・岡崎らの三河への道であったことを伝えています。

 小御堂は現在集会所に改築されていますが、建物の右手に回ると灯篭や石仏が祀られています。古老の話によると敷地は1500坪以上あったといい、この石仏等が往時の由緒の一端を偲ばせています。

御詠歌
うき世ぞと おもいすてめや
 みずきかず
  いわでましこの こみどうのうち


観音堂前の石灯篭(通称 織部石灯篭 キリシタン灯篭)

込土山の観音堂と織部石灯籠

 灯篭には、元禄13年(1700)の彫があります。この奇抜な形状から江戸初期の茶人古田織部好みの灯篭という事で織部灯篭と称されています。またキリシタン灯篭とも呼ばれ、石竿には十字架模様や聖人のようにも見える像が刻まれています。 この織部石灯篭はこの地方では数少ない珍しい灯篭のひとつです。なお、火袋が欠けているのは、その昔子どもが遊びで火袋に頭を入れ抜けなくなり、困ったすえに火袋を少し削つて頭を抜いたという逸話があり、その名残であるといわれています。 


地蔵菩薩

 元禄2年(1689)釈迦の死後の衆生(人間)を教化(人を良い方へ教え導く)するという菩薩


聖号碑

 享保12年(1727)普通六字名号碑で「南無阿弥陀仏」と書かれています。これを「仏」としたり、仏の供養塔としたものです。


名号碑

 享保7年(1722)観音供養塔で「南無大慈(悲)観音菩薩」と書かれています。「大悲」とは十一面観音の事です。


如意輪観音菩薩
 寛政6年(1794)・文化9年(1812)衆生の願望を満たし、苦を救う菩薩(女人講)


子安地蔵菩薩

 明治42年(1909)安産、子育てを願う菩薩


子安観音菩薩

 明治44年(1911)


天神石像

 昭和4年(1929)学問の神として広く信仰されてきました。


水鉢

込土山の観音堂と織部石灯籠

 文化6年(1923)手を清め心身を清浄にして尊前にぬかずくためのものです。




〇土岐巡札三十三箇所の観音について

 元禄8年9月大富の住人山守普水は、厚く観音を信仰していました。ある時高貴な旅人を泊めて話し合いをし、土岐郡内に三十三箇所の観音を祀り、大富延命寺を西国一番の那智の観音になぞらえ、清安寺を三十三番の美濃の谷汲山と見立て笈摺を納めて順礼することを願いました。

瑞浪市内では
三番 山野内 大慈庵 聖観音
四番 木暮 信光寺 十一面観音
五番 釜戸 岩屋観音 聖観音
六番 釜戸 天猷寺 聖観音
七番 桜堂 法明寺 聖観音
八番 猿子 小御堂 十一面観音
九番 山田 旭王寺 十一面観音
十番 寺河戸 宝林寺 聖観音
十一番 小田 高松慈雲寺 聖観音
の九箇寺が巡礼の指定観音となっています。
 現在、廃寺となって、寺跡のみ存しているものや、お堂に変身しているもの、また今日隆昌している寺院もあって、歳月の間にはやはり栄枯盛衰が感じられます。
 八番の小御堂は現在上平町三丁目にあり、民間信仰の遺物(石造物)を数多く残しています。
 小御堂は込土山ともいわれていますが、宝篋印塔や古い石造物も残り、その寺域も、故老の話では、1500坪以上もあったといわれています。また、土岐氏が一日市場に館を整えた頃から、南方の要所として砦として使用された跡がありました。今は、区画整理をされ、街と化して来て、その跡も北部と東部にそのあとを見るだけです。
 江戸時代の庄屋の古記録から推定するに、室町幕府の末期1508年頃、修行僧によって庵が建立され、江戸時代初期より、観音寺として住民の安堵の場となったが、天保5(1834)の無縫塔以後は当寺に残っていません。
 無縫塔ではない割り石(巾46cm・地上に出ている部分)の東面に
 □當寺開山大阿闍梨商済上人
 □當寺中興開山傅燈阿闍梨
 □當寺看住大法師圓推 の三方を刻し、北西面に三方の亡くなった年月日が刻され、当時の庄屋可知弥右衛門(岩村領)小木曽弥助(明智領)及組頭だった石原弥蔵・高木民蔵が施主となっています。
 当寺開山様は元和六申九月二十二日(1620)と刻名してあります。


 猿子村ては文化7年(1810)3月上平の小御堂山観音堂を村中の奉加によって再建しました。この時、猿子の若衆(若者組)は村から井山を貰い、それを売って金八両を得たので、それを部落毎に分配しました。
 上平の若衆はその金を観音堂再建費に献金し、又、上平では念仏講で集めた金も奉納しました。 (為助年々覚帳)と云わっています。

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