■ 寺院 石仏

定林山 光春院【美濃瑞浪三十三霊場 第七番】岐阜県 瑞浪市 釜戸町

御本尊:聖観世音菩薩
宗 派:臨済宗妙心寺派

御詠歌

くもんなる ふるき文化の
 さとささえ
  のりの光の てらすうつし世

 慶長16年(1611)に、現寺院の西方300m程の字名「定」に蜂屋瑞林寺の竺源西堂和尚による創建といわれています。以来、八百津大仙寺の聖沢門派系として続いていましたが、領主旗本馬場氏との抗争により、元禄5年(1692)に竜泉門派系となり、天猷寺中興大雲和尚を呼び、中興開山とし、今日に至っています。


売仏和尚

 大道祖円和尚は、は文化7年(1810)~明治9年(1876)の人で、仏を売ると書いて「売仏」(風意軒売仏)の俳号をもつ名僧でした。売仏の「久かたの 光や松の 月高し」の句は安政2年(1855)年に出版された俳譜全国誌、蕉門書林『竹の春』にも選ばれています。「年の暮れ 誰か死なんか 俺はいや」「やい仏 酒は嫌いか 今朝の春」というユニークな句も詠んでいました。

 売仏和尚が寝ていると、表の方で「ぼくしゅんろう」と声がし、しばらくすると夢にお坊さんの格好をした人が出てきて、「ぼくしゅんろう」と言いました。良く考えるると、木辺に春と書いって椿と読む。椿の木が年老いて「木春老」かと、前のお墓にある椿の木を見ると枯れかけている。そこで売仏和尚が拝んむと、椿の木が倒れたという話が残っています。


売仏和尚の辞世歌碑

(明治九・1876・円碑・辞世歌・膝の皿 売仏)
 明治9年(1876)に辞世の歌「膝の皿 頭の鉢や 酒つぼを 焼いてかまどの 土となるぞうれしき」と詠んで亡くなられました。これが刻まれた本堂西の歌碑は、売仏和尚が亡くなってから50年後の大正10年頃に建てられたものです。


慶応句額群(市指定)

 幕末の安政~慶応年間にかけては当地における第2次俳句隆盛(りゅうせい)期でした。
 光春院の句額は慶応4年(明治元年)(1868)に、売仏(釜戸光春院風意軒)と花輪(釜戸梅村七右衛門)らが光春院で東濃大句会を催した際のものです。選者に馬風大人を迎え、東濃各地はもとより、遠くは東海道宮(熱田)からの参加者もあり38名の句が残されています。
 句額は、縦58cm、横26cmのものが1面と、縦43cm、横26cmのものが37面、計38面あります。俳句は句額上部に鮮やかに書かれ、下部には作者の肖像が色彩豊かに描かれています。画家は馬風大人と書いてありますが詳細不明です。

泡だつは どじょうのあくびや ぬるみ川 当所 風意軒売仏(光春院大道)
菜のはなや 頼まれて乗る もどり竹輿(こし) 誠々斉花輪(梅村七右衛門)
炭釜の けぶりや伏して 暮れの雨 久々里茶好(佐々権之丞)
秋たつや 眼に月耳に 風のおと 深萱道学(藤道竹)
抱いて寝た 子はすぬけ出て 春の雨 大久手可ト(森川喜作)
もどったら 我が庵暗き 雪見かな 神箆巴水(信光寺)
節ありと 見えぬそだちや ことし竹 久々里扇笑(海老久左衛門)
鴨のたつ あとに広がる 水輪かな 妻木松風(水野七助)
また今朝も うぐいす夜着を まくりけり 神箆一鶴(下沢団治)
まだ木香(きが)の ぬけぬ手桶や 梅のはな 東海道宮蓬有(肴屋永吉)
寝はぐれの 幸ひもあり 虫の声 神箆登竜(梶田又兵衛)
夕めしも 喰はで出た子や 蛍がり 半原万桜(土屋嘉兵衛)
骨折りて 分け前もなし 雪まるけ 当所貞枝(日比野定右衛門)
一枝は 水に押さるる 柳かな 妻木可楽(市川幸兵衛か)
雨もよう 日はおとなしき 柳かな 半原二鶴(?)
蚤の出て ぼそつく宵や 春の雨 神箆竹嶌(下沢柴田竹五郎)
酒の座を はづしてひとり 月見かな 当所 竹露(安藤伊兵衛)
川音の 静かに高し 冴ゆる月 妻木 松寿園素来(水野又兵衛)
川上へ 月は流れて 涼み舟 當所 花亭酔月(陣屋 鈴木紋左衛門)
なまぐさき 浜辺のまちや 春の雨 百田 賣鬼(瓦師 善右衛門)
掃き湿り 庭ほどのよし 梧(きり)一葉 半原 嵩田(三輪定兵衛)
井のうちに 咲いて涼しや 雪の下 妻木 竹葉亭泉里(水野甚右エ門)
懸け鯛に 湿り持ちけり 春の雨 妻木 狸々園美泉(鈴木兼治郎)
前日から 騒ぐや煤の 掃き支度 妻木 誠松亭連司(曽根達之助)
客を待つ 座敷の炭の 匂ひかな 神箆 一桜 桜堂(桑原清一郎)
そのままに 市は立ちけり 虫時雨 當所 志料亭里水(水野四郎兵衛)
楽しみの あまりか花に 泣き上戸 神箆 両山(下沢 法印)
あとに来たは 何ごともなし 火取虫(ひとりむし) 當所 花賣(水野彦兵衛)
こんな夜に 石も育たん 春の雨 一日市場 槐市(鉢形 貢)
舟鼠(ふなねずみ) 追ひ回さるる 潮干かな 當所 昔枝(溝口三四郎)
燃ゆるかと 見れば焼け野の つつじかな 神箆 露谷(信光寺)
春なれや 仲よふ更けて 水と月 日吉 千枝(?)
らひ人も 折り惜しみたる 牡丹かな 妻木 柏亭園一庭(熊谷善兵衛)
たが入れの 暮れて叩くや 秋の風 半原(旭鷹 福寿寺)
ゆく水も 寝たか動かず 松と月 神箆 古芳(桜堂 法明寺)
物に気を とられて鳴らす 扇かな 半原 里松(?)
団子よし 酒よし花の 真つ盛り 判者 馬風大人(肥田黒兵衛)
馬かつた 明石の路や きりぎりす 誠々斎花輪(梅村三弥司)


「方丈」額

 本堂内に「方丈」と書かれた額があります。これは明治時代に小学校の教科書で、習字の書き方の基本となる本の字を書かれた付知町の方の字だそうです。
 「方丈」とは、一丈(じょう)(約3m)四方、釈迦の弟子の維摩居士(ゆいまこじ)の部屋が一丈四方であったということから、寺院のなかで寺の主である僧侶の居る所をいいます。


阿弥陀如来石像

(宝暦二・1752・光・坐・来迎印・墓地)
 釜戸町光春院墓地のものは保母氏による光背型に坐像で彫られた来迎印のものです。
(天明四・1784・光・立・施無畏印・念仏女人講)


千手観音石像

(文政七・1824・千手・八腎・立・光・独尊)


馬頭観音石像

(安政七・1860・文字碑・馬安全・寺の入ロ)
 光春院の石塔は立派で「馬頭観世音」と大書され「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」と法華経観世音菩薩普門品の偈文と「馬安全」の文字が刻まれた文字塔です。


三十三所観音供養塔

(文化十・1813・角柱塔・文字塔・西国三十三所供養塔・金右衛門ら八人)


地蔵菩薩石像

(元禄頃・丸・坐・合掌・大型・道祖神か)

(寛延二・1749・光・立・右錫杖・左宝珠)


庚申(青面金剛)石像・同文字碑

(宝暦二・1752・六臂・三猿・三尸一・夜念仏連中)
 釜戸町光春院のものは、同じ六臂・三猿でも忿怒相でなく慈悲相のもので、主手は右手に宝剣、左手に三尸、第二手は三股叉と輪ですが第三手は羂索と弓という変わった組合せの持物で「宝暦二壬申八月二十二日 夜念仏連中(九人の名)」とあって、夜念仏講によっても庚申像が造立されていることが判るもので、光焔光背が彫られています。


弘法大師

(寛保二・1742・丸・坐・小堂に祀る・村民名連記)
 光春院のものも堂内に祀られ「寛保二年」のほか村民名が台石に連記されています。


名号碑

(寛文二・1662・剣型碑・寛文二壬寅歳十月)市内三番目に古いもの


経典読誦塔

(明和五・1768・大乗妙典読誦供養石写塔(保母氏))
 釜戸町光春院墓地のものは「大乗妙典読誦供養石写塔 願以此功徳普及於一切 我等与衆生皆共成仏首 明和五戊子二月保母氏」とあって読誦の数がありません。


万霊塔

(天保のころか・馬頭・三界万霊(馬頭の光背部))
 釜戸町光春院の馬頭観音の光背部にそれぞれ「三界万霊」とだけあるものは、弘法あるいは馬頭に回向するとき万霊も合わせて回向されるという思想によるもので、他県ではこの造立例と同じ意味合で道標や庚申塔など他の石仏石碑に「三界万霊」などと刻まれる例も見られます。



光春院の江戸彼岸桜

 庫裏の北側に広がる墓地にある、枝張りも10mを超える堂々たる江戸彼岸桜です。
 お寺は延宝8年(1680)、同じ公文垣内地内よりこの地へ移ってきました。慶応4年(1868)にここで催された句会を記録した絵の中には、すでにこの桜の木とその根元のお地蔵様の姿が見られることから、樹齢が140年を超えることは確かで、200年を超えるのではないかと推定されます。おなじみの染井吉野と違って、この種の桜は長命であることが知られています。


芭蕉句碑(釜戸町公文垣内大岩 名滝稲荷側の路傍)

 いざさらば 雪見にころぶ ところまで
 元治元年(1864)光春院の売仏和尚を中心とする句会グループによって建てられた句碑です。
 表には「いざさらば 雪見にころぶ ところまで」が彫られ、裏には元治元甲子四月願主 売仏」、側面左には「釜戸公文垣内村中建之」、右には「補助四方諸君子」と刻まれています。

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