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田中墓地 伝萩原城跡 瑞浪市稲津町萩原田中

稲津町萩原田中 田中墓地 伝萩原城跡

 昔、ここは萩原城跡の一つとされており、尼僧が住む毘沙門堂があった。時にはバクチ場となっていたといわれ、バクチに負けた男が腹立ちまぎれに、本尊の毘沙門像を下の田に蹴落としたといういい伝えがある。

萩原城の父と子

 萩原城は小里川と分かれると真っすぐ東の屏風山のふところへ伸びています。その川に沿って細い道が山合を登りやがてその道は二つに分かれて一つは斧池へ出、一つは中洞へ通じています。その二つの道にはさまれた高台は小松林になっていて、そのぐるりに土るいが築かれ木戸が見えていました。ここは土岐氏浅野国氏の子萩原孫二郎国実のお城でした。お城といっても自然の地形を利用した砦にすぎませんが東に屏風山を仰ぎそれに続く峯々が南をさえぎっています北の小道を歩めば猿子(益見)うるわ(市原)土岐鶴ヶ城を通じて土岐館を守る大切な役目を負わされていました。峯から日の光がのぞくと、うぐいすの声がしきりに鳴きました。夏になると砦の下の流れる萩原川にカジカの声がしきりに聞こえました。或春の朝うぐいすの声を背に栗毛の馬が出て来ました。馬の背には若い武士と六才・七才になる子供が乗っています。城のあるじ国実とその子峯丸でした。「父上今日は観音平まで連れて行って戴けますか。」「うん久しぶりの遠乗りだ、観音平より向こうの釜戸の甚徳あたりまで行って見よう。帰りには里の人がみつけたという水晶の洞穴を見て来ることにしよう。峯丸たずなをお前にまかせる。かけさせてみよ」こう言われて峯丸は小さな手にたずなをにぎり馬の首を両足でたたくとしっしっ若萩かけろ。小さな主人の命令に馬はとっとっとっとかけ出して斧池の方へ登っていきました。家来は誰一人ついて来ません。父と子は親子水入らずの遠乗りを楽しみに、お昼には母の作って呉れたおししいおにぎり飯を食べて来るでしょう。萩原の城はこのように平和な日が続きましたが、二人が遠乗りをした翌日本家の鶴ヶ城主土岐頼兼がたった一人で萩原城をたずねると国実と二人きりで、何か話こんで居りました。それから二ヶ月程たって国実は都へ登ると言いだしました。
 此の度の都登りは、ひそかなものであるらしく数名の家来を呼び寄せると里の人に気付かれぬよう準備することを命じました。これは萩原城だけではありませんでした。兄の尾里城主国定も深沢城主定氏も猿子城主国行も一族の多治見国長も市原の宇留輪城主国宗らも同じように都のぼりの準備をして、それぞれひそかに城を立ちました。国実が萩原を立ったのは、正中元年(一三二四年)夏の峯々が朝の光に薄ぼんやりと浮かぶ夜明けのことでした。馬上の国実は萩原の辻迄下ると見送りや奥方や峯丸を振り返り「用事がすみ次第に早く帰るからなるすをしっかり頼むぞ」と声をかけました。「父上京のみやげをお願いします。」峯丸が言えば、「よくよく母上の言いつけをしっかり守りお利口しているのだぞ。」とやさしく言い「さあ、でかける」と、あぶみに力を入れました。後ろに十五~十六人の家来が従っています。やがて、国実達は木立の蔭にその姿が見えなくなりました。
 別れに当たって国実は涙を見せませんでしたが、これが此の世の別れになるのかと思うと胸をぐっとしめつけられるようでした。実は此の度の都登りは後醍醐天皇のおめしによるもので、横暴な北條幕府をたおす為の戦いが計画され土岐一族からえらばれた者がひそかに都へのぼることになったのです。しかし、いくら北條勢力がおとろえたとはいえわずかな兵で、六波羅探題を討って北條を改めるのろしをあげることは危険この上もない計画といわなければなりません。都へのぼった頼兼らは、その後ひそかに幕府を討つ計りごとを進めていましたが一族の船木頼春のうら切りによって、旗上げの四日前の九月十九日、反対に六波羅勢三千人に攻められて、滅ぼされてしまいました。頼兼国長をはじめ京に登った一族の者すべてが討死したという悲しい報せが萩原へとどいたのは萩原の山々が赤くそまった九月末のことでした。父討死の報せを聞くと峯丸は、そっと砦をぬけ出して前の山に登りました。
 小さい目から涙がぽたぽたと落ちるのをふきもせず、父上父上とはるか都へ向かって呼びました。さきほど母が峯丸の悲しいのは家ばかりではない、猿子や尾里のおじ様もみんなの家来衆もみんな討死になったのや、お前一人悲しんでいては申し訳ないぞえと言った言葉にたった一人になって思いきり父を呼んだのでした。大空を渡る風が峯丸の声を遠く遠く都の方へ運んで行きました。

加納氏伝承

 加納家は、鎮守府将軍攝津宋源頼光を祖とし、次に土岐氏を称し、萩原城主萩原孫二郎国実公、正中の変で戦死して、家は断絶、暫くして土岐氏一族清水蔵人頼兼の三男加納三郎頼忠より加納を姓として今日に至っております。
 なお、昭和四十三年先祖加納孫四朗生誕三百年記念の祭を催しました。
 また、先祖加納助十の次男伝左ヱ門は文化十一年(一八一四)岩村藩主松平乗保に召抱えられ鉄砲の御用を明治維新まで勤め現在も一部土蔵造りの一風変わった建物で軒の採光窓が特徴、鉄砲鍛冶の名残をとどめております。

裏山萩原城(砦)跡

 萩原村の入口から程近い八幡神社東、小字清水垣外の地、ここは萩原街道を臨む天険の岩と之に対立する雑木山との間、狭い谷間眼下の敵を狙うには理想的な天険であるから恐らく此の位置が城跡であろうと考えられております。
 近代において昭和二十四年九月の大雨の祭、此の附近から鎌倉風の高さ一尺ばかりの素焼きの壷大小二ヶが出土し、中には若干の骨片があったと言う、骨壷から推定して萩原氏一族の主たる人のものと考えられる。
 しかし、城跡問題については、三説あり充分に立証する資料の出現を期待する次第です。

 (中野そけい萩原昔々考より) 

水洗萩原城跡

 萩原孫二郎国実の砦跡とされている。丸山、山之越、堤ヶ洞の山地を背に負い、前面は崖となって萩原盆地を見下し、西は柏原の丘を通って陣出坂に打って出るという守りやすい砦であったであろうと思われる。

 田中萩原城跡

 正中の変(一三二四)に京都で討死した萩原孫二郎国実公の砦跡と言われております。(砦跡と言われているのは柏原、田中、裏山の三ヶ所)
 江戸時代ここに毘沙門堂があり時には、バクチが行われバクチに負けた人が悔しさまぎれに御本尊様を下の田圃へほうり投げたという話が伝わっています。
 この跡に十一面観音、聖観音阿弥陀如来、庚申塔等、沢山の石造物があり、造立は一七五〇~一八五〇年代でかなり古いようです。

 (萩原城跡三説のうちの一説)に

聖観音、文政二卯(一八一九)   (田中墓地毘沙門堂跡地)
十一面観音、文政十三寅(一八三〇)    (々)
百萬遍念仏供養塔、嘉永五子(一八五二)   (田中墓地)
庚申塔、紀年銘なし  (田中墓地毘沙門堂跡地)
順礼供養塔、文化四卯(一八〇七)       (田中墓地)
観音講供養塔、宝暦二壬(一七五二)     (々)
地蔵菩薩供養塔、 紀年銘なし 二基      (々)
三界萬霊塔、天保十一子(一八四〇) 二基   (々)

(『萩原郷土誌 水穴』より)


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