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細久手宿 【客番】細久手庚申堂

 宝暦以来の小堂宇を寛政10(1798)年の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして享和2(1802)年に再建したものです。
 宿内はもちろん近郷や旅人からも「細久手宿のこうしんさま」として親しまれたお堂で、ここからは宿内が一望できます。境内には石造物が多く残っており300年余り前のものもあって当時の賑わいぶりが偲ばれます。

御本尊/青面金剛
所在地/瑞浪市日吉町細久手

細久手宿 庚申堂- (4)

細久手宿 庚申堂

 宿内はもちろん近郷や旅人からも「細久手宿のこうしんさま」として親しまれたお堂で、ここからは宿内が一望されます。境内には石造物が多く残っており300年余り前のものもあって宿当時の賑わいぶりが偲ばれます。

石窟内の像 役行者像(修験者)

 下駄履像として珍重されている。奈良時代初期に大和葛木(城?)山にいた呪術者で修験道の開祖としてあがめられた。山岳信仰に深く及んでいる。
 H24.12 長寿クラブ

庚申堂

 上町に昔から旅人にも親しまれてきた庚申堂があります。寛政10年(1798)春。大火のため町の殆どを焼失して以来次々といろいろな不祥事がおこり、宿役人が易を立ててもらったところ宿上に完全な鬼門除けの神様を祀ればおさまるとのことで。寛政12年起工し2年後の享和2年(1802)、竣工したものです。
 棟札としては干時宝暦5年(1756年)、干時天明(1785年)の物があり、以前には小さいお堂が建っていたと思われます。
 細久手の大火では南蔵院を残して宿全部が焼失している。
 寛政10年(1798)…大火があったか否か諸説あり
 文化10年(1813)12月26日 82戸焼失
 安政5年(1858)12月14日 62戸焼失

 堂内諸仏

青面金剛像(庚申像) 天明5年(1785)の棟札が添えられている
如意輪観音 享和2年(1802)に祀られている
阿弥陀如来像 享和2年(1802)に祀られている
弘法座像 文政6年(1824)京都より迎える
観音講諸仏 細久手、上、中、下組で行われていた講

 境内石碑

弘法様 小さなお堂内に設置
歌碑 江戸中期この辺りで歌会が盛んに催された
役行者 文政8年 石窟内に設置 修験道の開祖
地蔵菩薩 文化10年 享保
聖観音 天保2年 上町講中光背型立像
如意輪観音 享保5年 道行き15人
笠塔婆 享保5年 道行き33人
阿弥陀仏碑 寛政12年 細湫宿願人4人剣型碑
名号碑 徳本上人 南無阿弥陀仏
手水鉢 天保10年 遠山国治奉納
常夜燈 寛政10年 上組念仏講

細久手塾「望雲盧」跡地

 佐藤権蔵梅波(儒学者佐藤一斉の甥)漢文・史籍。経綸等の講義をした。岩村出身で梅を愛した。1830年閉塾
The old private school in the vacant lot.
細久手長寿クラブ

細久手宿 高札場跡

 徳川時代、禁止令、掟書などを掲示した。重罪人のさらし首や罪状を掲げた。
The old bulletinboard place
細久手長寿クラブ

(現地看板より)

庚申堂

 細久手宿の庚申堂は宿の東口、上町北(右)手の上段にあり、寛政十年(一七九八)の宿の大火に類焼し、現堂宇は享和二年(一八〇二)に宿の守護仏として再建されたものである。
 境内には、類焼前からの寛文十二年(一六七二)や享保五年の聖号塔・観音石像をはじめ石仏・石塔・聖号碑・歌碑・役の行者祠らが並らび、庚申堂としてだけでなく宿中の交流の場、旅人の憩いの場としても親しまれていた堂である。

高札場跡

 細久手宿の高札場跡は庚申堂の入口の西角にあった。
 大湫宿同様、宿の高札は村々と異って道中奉行からの道中・継立などに関する定・達・触といった高札も多く、立派であった。

(瑞浪市の中仙道ガイドマップより)

望雲慮住居跡(ぼううんろじゅうきょあと)

 佐藤権造梅波は.岩村藩出身の儒学者、佐藤一斎の甥でこの場所に細ス手塾「望雲盧」を開きました。今は建物は全く残っていませんが、梅を愛した梅波は、塾の四方に梅を植えていたということで、今も林の中に数本が残っています。

高札場跡

 宿場の入ロに立ち、中山道の通行賃、宿の決まり、キリシタンや博打の禁止むど幕府からの様々な規則や通達がここに掲げられました。

庚申堂

 弘法様と呼ばれた庚申堂が、宿場の東北の鬼門、宿場を見下ろす小高い丘に建っています。お堂は細久手で最も古い建物で、享和2 年(1802)に再建されたものです。堂内には、薬師如来、如意輪観音、弘法様、庚申様が祀られています。境内には観世音、如意輪観音、地蔵菩薩、笠塔婆、役行者等があり、当時の人たちの信仰の厚さが偲ばれます。

(細久手宿より)

庚申堂

 寛政10年(1798)の大火で類焼し、享和2年(1802)に宿の守護仏として再建。堂内には聖号塔・観音石像や石仏・石塔などが並らぶ。

(中仙道ぶらり歩記より)

細久手宿の高札場跡

 細久手庚申堂入り口の西角に位置し、現在は空地となっている。
 高札場とはその名のとおり高札を掲げた場所で、高札とは法令や禁令などを板札に墨書きしたものである。通常、①親子・兄弟の忠孝、②キリシタン禁制、③毒薬・似薬種売買の禁止、④徒党の禁止、⑤火の元注意、⑥人馬賃銭、⑦人馬割増賃銭などについての高札が掲げられ、特に後三者は宿場に掲示されたものである。
 『濃州徇行紀』には寛政年間に6枚の高札が掲げられていたこと、『中山道宿村大概帳』には下記の記載のほか計8枚の高札が掲げられていたことが記されている。

≪古記録≫
 高札六枚宿外にあり〔濃州徇行記〕
 宿高札場壱ヶ所 宿東入口ニ建有レ之 〔中山道宿村大概帳〕
≪参考・引用文献≫
 柳田和久 1999「木戸と番書」『日本史小百科 宿場』 東京堂出版

細久手庚申堂

 細久手宿の北東部北側の高台に所在する。現在の建物は寛政10(1798)年の大火で焼失した後、享和2(1802)年に再建されたものとされる。
 庚申堂とは青面(しょうめん)金剛(こんごう)(中国の道教に由来する病魔・悪鬼を払う神)を祀った堂で、これを祀る信仰は江戸時代に庶民に広まったといわれる。
 境内には焼失前の寛文2(1672)年銘のある聖号塔をはじめ、主に寛政年間から天保年
間にかけての石仏・石塔・歌碑などが多数並んでおり、宿場の交流の場、憩いの場としても親しまれた堂宇である。

【聖観音】
 高64㎝、幅37㎝
(背面)「天保二辛卯十月十七日」

【如意輪観音】
 高64㎝、幅37㎝
(光背)「享保五庚子歳七月十七日」「□□十五人」

【地蔵菩薩】
 高60㎝、幅30㎝
(光背)「享保三」「(判読不能)」

【地蔵菩薩】
 高44㎝、幅24㎝
(光背)「文化十酉□」「二月廿六日」

【聖号碑】
 高127㎝、幅48㎝
「享保五□□年七月十五日」「濃州土岐郡細湫宿 道行三十三人」

【伝 役ノ行者】
 高62㎝、幅30㎝
(光背)「文政元□十月吉日」

(歴史の道 中山道保存整備事業報告書より)

 細久手宿は江戸から九二里余り、四八番目の宿に当たり、慶長十五年(一六一〇)に中山道六十九宿のーつとして発足し、宿内戸数は通常六〇~七〇戸でしたが、寛政十年(一七九八)・文化十年(一八一三)・安政五年(一八五八)と三度も全焼しており、現在も戸数は随分減少して左右の宿当時の家々の石積みや大黒屋、庚申堂などに往時の面影を偲ぶことができる程度です。尾州藩の定本陣・宿問屋役でもあった大黒屋は「ウダツ」も残り、上段の間もあって是非見学したい当時の建物であり、その上手の庚申堂は宿当時を偲ばす石仏石碑の所在地です。

旬歌碑

日吉町細久手庚申堂(天保四年・一八三三・自然碑・旅人のしばし……)

 細久手庚申堂の歌碑は、昭和四十八年の春、私が市史編さんの途中で、すでに何回となく訪れている細久手庚申堂に立寄った際、何気なく半ば埋もれている板石の土を除いたところ、石面につぎつぎに文字が現われて驚いた歌碑で「旅人の しばし扶けのおきどころ 月はまん丸 細久手泊り」と判読したものです。磨滅のため一・二字不明で、間違っているかも知れませんので確認を願う一例です。

徳本念仏塔(文化年中ころ、細久手庚申堂)

 全国的にも有名な徳本念仏塔を、日吉町細久手庚申堂と同町北野観音堂とで各一例づつ発見したことも勿論私にとって忘れられない喜びのーつでしたが、その徳本行者(宝暦八・一七五八ー文政元・一八一八)にも劣らない達筆の主で日吉本郷の十三仏と橋場辻、それに戸狩東仙寺と稲津山ノ田辻と市内四カ所の名号碑(念仏碑)に揮毫した、高僧と推察されるこの達筆の主は一体誰なのでしょうか。
 幸い「義兼(薦?萬?美?篤?)」と判読できる花押が三例あるのを手掛りにして今後において、いつの日にか解明していただけたらと思う次第です。

(ふるさとの古道と歌碑より)

名号碑

日吉町細久手庚申堂(寛文十二・一六七二・剣型碑・寛文十ニ歳壬子・細激宿)

 細久手庚申堂のものには「細湫宿願人念四人」などとあって、それぞれ熱心な念仏講連中による造立であることが判ります。

日吉町細久手庚申堂(享保五・一七二〇・笠塔婆・・細久手宿道行三十三人)

日吉町細久手庚申堂(文化八頃・一八一一頃・角柱塔・徳本念仏塔(念仏講中)

 日吉北野観音堂・同細久手庚申堂の両徳本念仏碑は、私が昭和五十年、本書のための市内石仏石碑調査の中で遂に発見したもので、全国布教の徳本行者(宝暦八年一七五八~文政元年一八六一、念仏講の全国布教僧)の足跡が本市にまで及んでいることが確認できて喜んだものです。

水 鉢

日吉町細久手庚申堂(天保十・一八三九・遠山国次郎)

(ふるさとの石碑と灯篭より)

聖観音石像

日吉町細久手庚申堂(文化十・一八一三・光・立・両手で宝珠か合掌)

 細久手庚申堂の文化十年のものは両手で宝珠を持っているか合掌の、天保二年のものは左手の蓮華に右手を添えた像形のものです。

日吉町細久手庚申堂(天保二・一八三一・光・立・左蓮華・右添える)

如意輪観音石像

日吉町細久手庚申堂(享保五・一七二〇・光・坐・二臂・思惟・台石)

 細久手庚申堂のものは「享保五庚子歳 道行十五人」とあって多分女人講によるものと思われ、仲々美人に彫られています。

役行者石像

日吉町細久手庚申堂(文政元・一八一八・浮彫像・役行者・願主名未調)

 日吉町細久手庚申堂のものは、石窟に祀られた浮彫りのやや小型の役行者石像です。

(ふるさとの石仏より)

細久手庚申堂 笠塔婆

南無阿弥陀仏 享保五庚子七月十五日
濃州土岐郡細湫宿 同行三十三人

細久手庚申堂境内 如意輪観音?

享保五戊子歳
同行 十五人
高さ 六六cm
光背巾三九cm

細久手庚申堂境内 観世音

像高 八二cm
光背共 一二〇cm
中台高 二〇・五cm、幅五二cm
刻銘 上町講中

細久手庚申堂の役行者像

 石窟中に安座 総高六五cm、像高三四cm、錫杖長三八cm、膝下一〇cm、腰巾十四cm、年号なし。

(瑞浪の石造物より)

 細久手庚申堂境内には、
  旅人の しばし扶けの おき所 月はまん丸く(?) 細久手泊り
と判読される一首が刻まれている。

(瑞浪市史 歴史編より)

細久手 庚申堂

御本尊:青面金剛 弘法大師
所在地:瑞浪市日吉町細久手 電話(呼)大黒屋(0572)69-2518番

御詠歌

しらくもに うかべるおかの
 花み堂
  やどりのさとを とわにまもりて

 細久手上町にある庚申堂は、昔から旅人に親しまれた名所で、享和2年(1802)の建立である。
 寛文10年(1798)春、この宿場に大火が起り、その大半を焼失し、その後も不詳事がおきたので、易をみてもらうと、「宿上に鬼門よけの仏を祀れ」とのことであった。そこで、ここに庚申堂が建てられたのである。
 庚申信仰は、平安時代に始まり、江戸時代には民間信仰が盛んになったといわれ、カノエサルの夜には、このお堂にこもり、厄除け
を祈願したといわれる。
 堂内には、青面金剛のほか、弘法大師・薬師如来・如意輪観音が祀られている。
 尚、境内には、如意輪観音石仏・阿弥陀仏碑・地蔵尊・役の行者石像・聖観世音菩薩などの石仏が祀られている。
 旅人たちが、ここへ詣り、目の下に広がる宿場を眺めながら、道中の安全を祈った姿が偲ばれる。

(美濃瑞浪三十三霊場めぐりより)